カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル

〜自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界!〜

長生きを願うより、先手を打とう!

今日読んだ興味深い記事。

・おかあさん、90才まで生きましょう!!〜思春期は40才で終わる
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20150627-00047020/
特に75才を越えてからは、子どものケアよりも自分(母)自身の長生きを考えてください、と言うと、わりと盛り上がる。

誰もが100才になりたいと思っており、こどものひきこもり高齢化は母自身が100才になるための正当な理由になるからだ。

わりと盛り上がる、というところが、なるほどと思い、
「障害を持つ子の親に「90歳まで生きましょう」と言うのと似てる。長生きは誰でもしたいし、長生きする意義を見出すと、ひたすら心配するモードから「攻め」モードに切り替えることができるのかな。」とコメントしてシェアをした。

でも、この記事で問題にしているのは、経済的なことだけなんだよね。たぶんお金が続けば、一生ひきこもっていても生存はできるから、「お金が切れないこと」がキーになるのだろう。

ケアを必要とする子どもを持つ親の場合は、やっぱりお金だけを用意しても、本人の生存すらもおぼつかない。親は、お金を払うだけではなく、様々な支援を自らも提供しているわけで。

やっぱり、長生きは(できればそれに越したことはないけど)するしないに関わらず、「親亡き後」よりずっと早く訪れる「親の支援無き後」に向けて、早いうちからどんどん「攻めて」いこう。できることはたくさんあるから。

【追記】
正直な話。昨夏体調をくずしたわたしは、長生きできる自信はまるでありません。

制度が整っていること、カイのまわりに「人垣」ができること──
次の世代が、親身になって、権利を守ってくれること──

を願って、「今」できることをやるしかないんですよね。

未来のことを、「今」直接「保証」することはできません。
じぶんにできることは、「今」困っている人のためにできることをして、
めぐりめぐって、いつの日か、カイが困ったら助けてくれる人が現れることを期待する──
というとても迂遠だけど、実は、「今」できる一番たしかな「先手」なのかなと思います。

虐待が「できてしまう」理由

虐待の加害が「できてしまう」理由について考えている。

・FNNニュース:山口・障害者施設虐待 内部告発の男性、市の対応の遅さ指摘
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00294475.html

下関の障害者虐待の加害者がテレビのインタビューを受けている映像を見た。虐待などに身に覚えはない、と否定してたのが、映像を見せられて、男は
「(これは、ご自身では?)そうですね。すみません。(だいぶ強い口調だが、これは虐待?)そうですね。本人、僕ですね。(これは虐待では?)なりますね」と話した。

証拠を見せられて、あっさりと認めて「すみません」と言う。テレビのインタビューという非日常な状況で、映像を見せられて答える姿は、あまりにも無防備だった。否定できない証拠があるとわかり、あっさりと認めていた。叩くことが「悪い」ことだと、思ってはいるのだろう。それなのに、なぜ?手が出るのか。

怒号、罵声を浴びせ、崩れ落ちるほど強く平手打ちをする、威嚇して恫喝する、「暴力指導員」は、テレビカメラの前では普通の人に見えた。わたしの中で、そのギャップがもやもやしている。

障害がある人に暴力を振るうことは、「抵抗感」があるはず。そこを踏み越えていくきっかけ、動機、反復される理由が気になる。暴力を「正当化する理屈」がなんなのか?そこを、照射して明るみに出さないと、再発防止はできないんじゃないかと思う。

山口県下関市「大藤園」障害者虐待の続報

山口県下関市「大藤園」障害者虐待の続報です。

・福祉施設で虐待の疑い 元職員に逮捕状
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150610/k10010109051000.html

・障害者施設の元職員を逮捕 山口、利用者を平手打ち容疑
http://www.asahi.com/articles/ASH6B3GPSH6BTIPE00J.html
先月28日、暴行の様子を撮影した映像がテレビなどで流れ、県警が事実確認を開始。今月5日、同園の関係者から告発を受けた。被害者保護と再発防止の観点から捜査を急いだという。複数の施設関係者が暴行する様子が映像に映っていることから、県警は、ほかにも犯行に関わった職員がいる可能性があるとみて捜査する方針。

逮捕されました。
障害のある人に対する暴行も、刑法犯に該当すれば、捜査され逮捕されるということです。

一方で、行政(下関市)の対応が適切だったのかについて、下関市議会の文教厚生委員会で6月9日に審議されています。真偽の様子が以下の記事で詳しく記されています。

・下関市議会議員 吉田真次のブログ:障害福祉サービス事業所大藤園内における施設従事者による障害者虐待について
http://ameblo.jp/s-yoshida706/entry-12037064390.html
メディアの報道を見ると、市が立入調査をしたにも関わらず、調査後も虐待が行われていたと勘違いする方もいるかもしれませんが、そのような事実は現在まで確認できていません。

あくまでも虐待は平成25年11月〜平成26年2月頃に起こったものであり、それが最近になって大きく報道されて、現在に至っています。

暴力をふるっている映像は立入調査後に市役所職員が初めて目にしたものであり、暴力をふるっている映像を見たあとに立入調査をして、虐待がなかったとしたわけではありません。

全職員に事情を聞いたにも関わらず虐待が確認できなかったのは、市の調査力不足もありますが、それ以上に大藤園の組織ぐるみでの隠蔽と調査に対して虚偽の答弁を行ったことが最大の要因です。

このブログでも指摘されていますが、組織ぐるみで隠蔽をされたため、立入検査をしても見抜けなかった。

いったい内部告発があった場合に、どうやって虐待の事実を発見していくのでしょうか。その方法が求められます。

たとえば、利用者に直接質問をするとか、保護者や施設を出入りする業者などに、「怒鳴ったり、叩いたりしているところを見たことがないか」尋ねるとか。行政の聴き取り技術の向上も、必要だと思います。

しかし、具体的にその聴き取り場面を想像してみると、「疑い」を持っている保護者も「お世話になっているから」とか「他に行くところがない」という負い目から、正直なことを口に出せなくなるのではないかと思ったりもして…

でも、そんなんじゃダメなんですよね。一番弱い立場に置かれた人を最優先で考えないといけない。

「これは犯罪だ」と認めて欲しい

前回記事で、わたしは「処罰」を求める気持ちを書きました。

なぜそう思うのかを考えてみました。

まず、虐待をしても刑事罰には問われなければ、
・抑止効果が働かない
・被害感情が癒やされない
と思うからです。

とはいえ。
「犯罪」であることと、裁判で「有罪」になることの間にはギャップがあります。
思いつくプロセスを書いてみます。

・警察が、立件を前提として捜査して証拠集めをする。
・被疑者を見つける。
・検察官が起訴をする。
・裁判で審理される。
・犯罪事実と故意が証明されて、有罪の判決がくだされる。

刑事罰を与えるということは、適正な手続に則り、証拠によって犯罪事実の認定がなされなければなりません。誤認で、逮捕や起訴された場合の起訴された人への影響は甚大なものがあります。

起訴して有罪の認定がされるだけの証拠が、被害者に知的障害があるために得られにくい、ということはあるでしょう。

しかし、虐待事実が明らかになったときに、「警察が捜査を始めた」と聞くことが少ないように感じます。それは何故なのでしょうか。被害者本人あるいは周囲の人からの被害の訴えがないからでしょうか。

「被害者が亡くなった」という極限までいかないと捜査もしてもらえないのか?と思ったりします。実はわたしは、そのことが悔しくて憤りを感じています。
客観的な数字に基づくものではない主観に過ぎず、「ひがみ」のような感情でしかないのですが、そこに、障害のある人が、障害のない人と比べて尊重されていないという「差別」を感じるのです。

せめて、捜査をして欲しい。「これは犯罪だ」と認めて欲しい。
そのことの積み重ねが、虐待の抑止につながっていくと思うのです。

なかなか冷静にはなれない──

「虐待」ってなんですか?

知的障害のある人への「虐待」の報道が相次いでいる。
その加害者は、本来は障害のある人を護るべき職員だという。

山口県下関市での「虐待」の報道。
わたしは動画は見ていません。
友人から話を聴いて、とてもじゃないが、今のじぶんの精神状態では耐えられないと判断しました。

わたしは、知的障害をもつ子どもの親です。
「虐待」の報道を聴いて、感じるのは、「絶望」です。
大切に育ててきて、成長した子を、信頼して託した相手が、人権を蹂躙して恥じることない人・組織だったとしたら…。想像しないではいられません。

本人は、被害を訴えることができません。
だから、加害者が刑事罰を受けることもないのでしょうか? 
裁判にたえられる「証言」がないから? 
知的障害のある人の「証言」は信用性が薄いから証拠にならない?

被害者が、知的障害のない人だったら、加害者が暴行罪や傷害罪で裁判にかけられて刑事罰を受けるのに。
死ななきゃ、裁判にもならないんですか?



「虐待」ってなんですか?
「暴行」や「傷害」より、酷い状態を示すことばのはずなのに、障害者への「虐待」は起訴もされず、刑事犯にならない。
これが、差別でなくてなんなんですか?

【日記】雲

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【日記】あじさい

今日はつぼみプロジェクト部の「障がいのある人の暮らしとお金」セミナーでした。内容は、またプロジェクト部ブログで報告します。

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会場のとなりで咲いていたあじさい

今週は、低空飛行でした…。今日も体調がすぐれず、役割を果たしたら早退しようと思っていたぐらいでした。

でも、仲間と会って、企画会議をして。「ピントがやっと合った!」と思える瞬間があって、アタマが冴えてきました。

又村あおいさんは相変わらずキレッキレでサイコーでした。
会った瞬間から気持ちがシンクロして、エネルギーがチャージされる相手が世界にはわずかだけどいて、わたしにとって又村あおいさんはその一人です。

グループワークも、とってもあたたかくて前向きな対話ができて。セミナーが終わる頃には、心が晴れ晴れとしていました。

あじさいは土壌の状態によって色が変わるそうですが、わたしも同じだなあと思いました。いい人たちから養分をもらって色が変わる。
今日参加されたみなさんに会えてよかった。感謝です!

確定診断

友から受けた報告は、辛いものだった。

覚悟していたつもりでも、診断が「確定」することで、
「そうではない可能性」が閉じられてしまう。

もう十分に、苦しみ耐えてきたのに、なんでまた…
悲しい、苦しい、つらい、心に渦巻く感情は、
かんたんには去ってくれない。

収まったと思っても、すぐに戻ってくるし、
忘れたつもりでも、いつぶり返すかわからない。

血を流したまま、気丈に振る舞わなきゃならないときもある。
外に出かけなきゃならなかったり、
ひとと会わなきゃならなかったり、
仕事に行かなくちゃならなかったり。

そう思っても、しばらくは不安定な自分を許して、休んだらいい。
僕も、けっこう休ませてもらった。

一方で、仕事に行くほうがまぎれる面もあった。
逃げていた。
逃げさせてもらっていた。
でも、じぶんを責めなくていい。
そこからエネルギーを補給して、家に持ち帰ればいいんだよ。

いまは感情に身を任せていい。
パートナーの気持ちを聴いて、
じぶんの気持ちも隠さず伝えて、力を合わせていこうと確認し合おう。

いずれ喪が明けて、立ち上がれる時が、必ず来る。
それまでは、かなしみにくれてもいいんだよ。

じたばた、浮き沈み

ネットでときどき赤ちゃんから幼児の子育て記事に遭遇して、読んで思うこと。

「定型発達のお子さんて、すごい! 天才だ」

昔は、胸の中の空洞を、冷たい風が通り抜けるみたいな感覚があったけれど、今は純粋に「天才だ」と思います。

こういう、じぶんのなかの、怒りや嫉妬やかなしみは、「ネガティヴ」なので、じぶんでも恥ずかしいとか認めたくないものでした。

口にしたところで、ぐんぐん成長するお子さんには何ひとつ非はなく。親御さんに、こちらの複雑な感情を知られて、いやな思いもして欲しくはないですからね。

そっと目を閉じる。その場を離れるだけです。

ネガティブなものに対抗するためには、ポジティブなものを自分で打ち立てなくてはいけない。そのためにはネガティブなものをはっきり見なくてはいけない。
──村上春樹さん、村上文学を語る(中) | 河北新報オンラインニュース

大切なのは、じぶんのなかにある気持ちを、認めてあげることなんだと思います。

怒りやねたみやかなしみも。
ネガティヴは、じぶんのなかの「弱さ」から生まれてくる。
「弱さ」は否定すると、攻撃的になる。
「弱さ」を認めると、やさしさになる。

何かを新しくつかみ取ろうとすれば、プラスの分だけ、必ずネガティブなものが生じるんです。プラスのものを確保しようと思えば、ネガティブなものも代償行為として引き受けなくてはいけない。そうしないと、人は生きている意味がないと思う。
──村上春樹さん、村上文学を語る(中) | 河北新報オンラインニュース

がんばって、明るくポジティブに振る舞うのもいい。
めそめそと、自己憐憫で泣くのもいい。自然なことです。

人生のフルコースを、じっくり時間をかけて、味わってる途中なんだから。

あきらめもせず、達観もせず、じたばた、浮き沈みしながらこれからも生きていく。

【日記】木の香り

養護学校(名古屋市では特別支援学校を今でもこう呼ぶ)高等部に入学したカイ。
レベル別で教えてくれるのが、とても合っているのでしょう。とても元気にうれしそうに毎日通っています。

大好きなのは「作業」の火曜日。一日作業訓練(ものづくり)をする。
園芸・紙工・手工芸・縫製・織物・窯業・木工と数ある中で、カイが何を選んだかというと──

木工でした。

とても意外でした。さおり織りやスウェーデン刺しゅうは経験があるから、それかな?と予想したのですが、木工が一番気に入ったようだという先生の見立てを信じて、木工を選択。

のこぎりの音も気にせずに、やすりをかけたりしているらしい。
どうやら、けずった木の香りが好きみたい。
そうか。カイはにおいフェチだけど、木の香りも好きだったのか。

とにかく火曜日はウキウキで、先週は駅の階段でスキップして足をぐきっとやってしまい、一気にブルーになったりしたほどです。

好きなことで少しずつスキルアップできるといいな、将来につながるといいな、なんてついつい期待してしまうけど、まずは、好きなことが増えにくいカイに好きなことが増えたことをよろこびたい。

見つけてくれた先生方に感謝です!
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