■スカイダイビングの悲劇

「オ・ヤ・ス・ミ」の記事に、たくさんの方からコメントをいただきました。ありがとうございます(*^^*)。カイが、私に対して「好き好き」という気持ちをひんぱんにあらわしてくれるので、とてもうれしいです。私の状態はすこぶるいいです――という断り書きをした上で――封印していたエントリをアップします。
Subject: スカイダイビングの悲劇
Date: Mon, 22 Nov 2004 00:19:10 +0900

こんな話を考えてみた。

自ら障害をもつ、あるいはわが子が障害をもって生まれることは、それまでの人生がひっくりかえるような出来事だ。

見える世界ががらっと変わる。自分を支えていたものが崩れさったみたいで。

それはスカイダイビングで空に放り出されたみたいな感じかもしれない。
恐怖で目をつむり息ができない。

でも、空の中に新しい自由を発見することもある。スリルと背中合わせの「生の充実」を。
「自分は、今の方がしあわせ」と共通して語る人たちがいる。
それは負け惜しみややせがまんではなく心の底から生の充実、生きているはりあいを感じて語るのかなとも思う。

でも、僕は知っている――




虚空に放り出されて、「このまま、もういいや疲れた」と思う気持ちも決して消せないことを。



「パラシュートがあるのになぜ開かなかったのか、助けはすぐそこにあったのに」

と涙を流してくれる人がいると知りながら、

「もういいんだ」とあえてパラシュートを開かない選択もあるということを。

体の力が抜けて、ふわっと宙に浮かぶ感じ。苦しみを終わりにしたいから、終わりにするんだ――
そんな瞬間が自分にもあるから、私は怖い。

理屈じゃ無いんだ。

だから、自動で開くバラシュートがいくつも欲しい。下で受けとめてくれるネットが欲しい。
「終わりにしたい衝動」は完全に消すことはできないから。



パラシュートをあえて開かなかった人のことを悼む。底の見えない恐れとともに……
 この文章を書いた2004年11月22日の〈カイパパ通信〉の記事を調べてみたら、「120人の意見書」への意見を集めている最中でした。
 たくさんの方々の悲しみや不安・恐れに感応して、生まれ出たことばなんですね。

 スカイダイビングのスレスレ感、うっかりすると死んじゃう危うさは、私たちから完全に消え去ることはないのかな?
 だからこそ、私はこのブログを続けている気がします。
 私は考えます。
 もしも自分がパラシュートを開かない選択をしたときに、みなさんは何を感じるだろうかって――。きっとこのブログを愛してくださる仲間たちにとって、「あんなにがんばってた、カイパパでも"ダメ"だった……」という強烈なネガティブ・メッセージになるだろう、なんて。

 不安定な足場に立ちながら、それでも「勇気と知恵」を一貫して発信し続けようというストイックな決意――おまえは単に自分に酔っているだけだと言われれば、そのとおりかもしれませんが、けっこう、命をかけてるつもりだったりする。

「スカイダイビングの悲劇」をおそれるからこそ、『ぼくらの発達障害者支援法』のような「アカルイ未来」を必死で描いたりするんだよね。「スカイダイビングの悲劇」と『ぼくらの発達障害者支援法』は同じ思いの表と裏なのかもね。