■愚痴と内省

リクルートフェローの野田稔さんが、講演の中で「会社社長としての自分はリーダーとして明るく元気にメンバーを率いていかなければならない。バランスをとるために内省を大切にしている。内省のためのメンターを自分は持っている」とお話しされていた。

7月頃行き詰まって悩んでいたとき、心にたまるモヤモヤを何度もH.Suzukiさんに聴いてもらった。
そのときの私は、いかに自分が正当であり理解してくれない周囲がヒドいかについて論理的に証拠を挙げて説明した(つもりだった)。信念を持って糾弾するのだから、燃え上がるぐらい激しい攻撃を吐いていた。
H.Suzukiさんは黙って、時々うなづきながら聴いてくれた。批評めいたことは一切言わず、反論もせず。
私の勢いが収まり、話が終わると「また話しましょう。いつでも声かけてよ」と一言言って、あとは神戸のステーキの話なんかをするんだ。

話終わった後ひとりになって考えて、「一方的な糾弾をしすぎている」自分を見つけた。相手にだって「良い面」や「言い分」があるはずなのに。

そして気づく。「おれは愚痴を言っていた」と。

周囲の不当さを訴えていたつもりが、言葉にして話してみたら、ひたすら自分を正当化し成果があがらないことの責任を他人に押しつけようとしていた。フラストレーションの源は、力不足で変化を起こせない自分自身にあるのかもしれないのに。

愚痴だと自覚した瞬間、気持ちがスッキリとした。自分の未熟さが可笑しくなった。愚痴のイガイガを取り除いたら、そこに内省があった。

言葉にならず胸にうずまく思いは、見えない煙。
愚痴は黒い煙。
煙を出せば「あそこでくすぶっている愚か者がいる」と見つかってしまうが、それをおそれて吐き出さないでいたら窒息してしまう。

愚痴を吐いて吐いて吐きまくって、煙が晴れてようやく自分がみえてくる。
かっこつけず、いい子ぶらずに、「愚痴が始まり」でもいいんだ。

煙を出すには煙突がいる。
メンターは煙突。
煙突はただ「通す」。
煙が空に上がっていけるように。