■苦痛は、3分の1でいい〜「広島の事件」2

◆「先読み」する脳

 先日、ある大会があって国際会議場へ行きました。閉会後、既に停止しているエスカレーターを歩いて上ったとき──

 歩きづらくて、何度も何度もつまずいてしまいました。あの黄色のラインの入った段が、「動いている」ように錯覚してしまうのですね。その錯覚にあわせて上ろうとするから、つんのめってしまう。

 意識してみても、エスカレーターが動いている感覚は消えず、不思議でした。

 印刷物をつくるときに、一文字一文字読みあわせまでして誤植つぶしをしても、なお、誤植は残ってしまうことが多いです。なぜ気がつかなかったのか? とわかってからは思うのです。読み上げる人も、文字を確かめている人も、脳が、「正しい文字」を、文のつながりの中で認識してしまっているから、「正しく」読めてしまう。

 私たちの脳は、常に「先読み」をしているのですね。

 私たちは、脳が認識した「世界」でしか生きられません。だから、私たちは「一瞬未来を生きている」のが普通の状態といってもいい。

◆「過去」とともに生きる

 こうままさんが、ある時、「傷は治っても、〈痛みの記憶〉は残っている」とお話されていて、ああそのとおりだなと思いました。私が講演をしていた時、いつも感じていたのは、「せっかく固まったかさぶたを、思い出すことで、かき壊しているような気持ちがする」ことでした。そこに「傷はない」のだけれど、「痛みの記憶」が残っている。

 何かの拍子に、たとえば、2歳ぐらいの子が上手に話し掛けてきたりするとき、胸の中を冷たい風が吹き抜けるような感じがしたりする。「いったいいつの間に、そんなところに穴があいていたのだろう?」と思うのだけれど。

 痛みの記憶、つらい経験、嫌な思い出……脳のどこかに残っていて、「再生」された時、痛みは現在現実のものとして、私を痛めつける。

◆なぜ? 「今」死んでしまうの?

 前回の記事「広島での事件」を書いて、次の記事を書けなくなっていました。たくさんコメントを頂き、それに返事を返したいと思いながら……




 なぜ? 追い詰められてしまうのか? 自分に何ができるのか? をずっと考えていて、自分で書いた記事が、見落としている、言い尽くせていない何かがある気がしてなりませんでした。
 あの記事は、私がこれまで言いつづけてきたことを繰り返している。中国新聞の社説も、ほぼ同義の主張をしていた。




 でも、何か違和感が残る。

 それは、AFCPさんが、報じてくれている「この事件では、助けがすぐそこまで来ていた」事実を知って、余計に強くなりました。

 私は、「スカイダイビングの悲劇」で、「助けはそこにあるのに、なぜ選ばなかったのか」と書きました。

 なぜ?なんだろう。

 それが「違和感の源」のような気がします。

 ああやって「社説」のような記事を書いていても、苦しんでいる人にとっては、届かない。真情に迫れていない。きっと、ずれている。


 ……自分自身のこととしての、掘り下げが足りないのかな?





 私は、カイの障害がわかった時、「喪失感=未来イメージの死」がつらかった。

 赤ちゃんができてから、妻と「子育ての方針」なんておおげさなものじゃないけれど、「どんなふうに育てたいか」の夢を語り合っていた。結論としては、「自分たちが育ててもらったように、育てたいね」ということでした。クラブ活動とかがんばったりして、うまくいったり、失敗したり色々な経験をして育っていってくれたらいいな!なんて思っていました。

 それが、自閉症とわかったときに、崩れてしまった。その後に築く「新しい未来のイメージ」を築けなくて、空虚で殺風景で孤独で不安で先がない追い詰められた気持ちになった。何のきっかけもなく、涙が出て困ったりしていました。

◆苦痛は3分の1でいい

 私たちは、「今」を生きているつもりだけど、生きている「今」の中には、「過去の記憶」と「現在」と「先読みした未来」が含まれている。

「過去」と「今」と「未来」をこの瞬間の脳の中で同時に生きているのかも。

 うっかりすると、いつのまにか「実現していない未来(のイメージ)」に、心を乗っ取られてしまうことすらあります。(別にそれは珍しいことではない。受験生の頃、「試験に落ちたらどうしよう」と想像して、勉強に手がつかなくなってしまうような経験はどなたでもあるはず。)

 ふとしたはずみに、「過去の痛み」が蘇ってくる時があります。その「痛みの記憶」が、「また次も同じ痛みを味わうのではないか?」という「未来の苦痛」を呼び起こすこともあります。

 私たちは、「過去の痛み」と「未来の苦痛」を、「今ここにある苦痛」として抱え込み、押しつぶされて、絶望に追い込まれるのかもしれない。

 そんなことを考えていたら、とある本で出会った心理学者のミルトン・エリクソン(WikiPedia)の言葉──
あなたが本来耐えるべき痛みは、今の三分の一でいいはずなのです。
余分な三分の二は何かというと、まず、過去の痛みの記憶。そして、将来の痛みへの不安です。
だから、『今、この瞬間』の現実の痛みにだけ向き合えば、あなたが感じる痛みは今の三分の一になる。三分の一になれば、それはもうほとんど気にならない痛みになるはずです


◆「明るい未来を描く」----ことができなくても

 カイパパ通信のコンセプトは、「勇気と知恵を与え合う」です。
 『ぼくらの発達障害者支援法』は、「明るい未来を、自分たちの手で創っていこう」というのがメッセージです。

 でも、「明るい未来」をそもそも描けない時、そういう気分やシチュエーションに追い込まれている時だってある。

 そんな時は、「今」に集中すること。

「先」のことは考えない、シャットアウトして、とにかく「今」「この瞬間」をやり過ごすことに集中すること。

 妻がよく言っています。「明日なんて、そんな先のことは考えない」

 それでいいんだ。

 苦痛は、3分の1でいい。