2007年04月01日

「チャレンジド」再考

■「チャレンジド」再考

★「チャレンジド」という概念により「否定」される存在?

 前回の記事で、私が「チャレンジド」について書いた記事を紹介したところ、S嬢さんからTrackbackで、以下の記事の紹介を受けました。

・天竺堂通信:チャレンジド考
http://blog.livedoor.jp/tenjikudo/archives/50217332.html
「チャレンジド」の“反対側”にあるものが、言外に否定されている気がするのだ。「『挑戦』という使命や課題、チャンスや資格」があると決め付けることで、それをクリアできない人やクリアしたくない人を、差別することに繋がりはしないか? 「チャレンジドにふさわしい人」と「チャレンジドにふさわしくない人」を生み出す恐れはないか?
 なるほど。こういう受け止め方もありますね。(この記事は、コメント欄も含めてお読みになっていただくとよいかと思います。)

 Trackbackをいただいた、下記のかへる日記の記事も、この天竺堂通信さんの記事を踏まえて読むと主旨が理解しやすいです。

★「がんばらない」と「チャレンジド」の概念は衝突する?

 かへる日記さんは、ご自身の職場である風の工房の基本コンセプトが「がんばらない」であることを紹介してくださっています。

・かへる日記 (FRGFRG304) - がんばらない
http://d.hatena.ne.jp/ngmkz/20070327/1175008178
その当時の代表である関さん曰く、「障碍者はいつも頑張れや頑張ってと言われている。けど、頑張らなくてもその人らしい生活というのは出来るんじゃないか?」ということみたいです。
 同感です。

 「チャレンジド」という言葉が、「頑張れ!」といわれているようで疲れてしまう、というご指摘は、初期の頃に、Atopic Informationさんからいただいていました。

・Atopic Information:ラッキーウーマン
http://www.atopic-info.com/archives/000442.html
正直なところ、このパターンの「ポジティブシンキング」に向かわせる言葉や新語、造語というものに私は胡散臭さを感じる。有無を言わせずしんどい自分に鞭打つ或いは苦役を強いるような感じと言えばよいだろうか?
 それに応えるかたちで、私は「チャレンジド=挑戦を受けた人」の一連の連載記事を書きました。こんな結論をラストに持ってきています。

・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル:【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(3)
http://blog.livedoor.jp/kaipapa2shin/archives/136116.html
「自閉症は文化である」とTEACCH部創立者ショプラー教授が価値転換を図っているように、わが子にとって、この世の中は異文化社会であり、わかりにくく、とても不器用で不利を背負ったカイは、やはり挑戦を受けている。
 そして、限られたツールで、勇敢に立ち向かい、日々成長していく姿を毎日見ている。

「チャレンジド」は単なる言いかえや「だからガンバレ!」といった無神経なスローガンではない。
 そして、特殊な存在を表す呼び方でもない。
 たまたま、偶然性が支配するこの世界で、確率によってチャレンジを受けることになった人々のことです。
 私が言いたかったことは──

・不利を背負わされた人が、限られたツールで、勇敢に立ち向かい、日々成長していく姿に対して、尊敬の思いをもっている。
・ただ「生存する」ためだけでも、苦痛や苦労、不便を強いられている中で、生き抜いていくことだけで、「すごい!」という畏敬の念をいだいている。

「だから、これ以上のムチャな要求はやめよう。君が生きているだけで、すごいことだ!」
「苦もなくできてしまうメインストリームの人たちが、これ以上《がんばれ》なんていう資格あるのかな?」
 という思いも込めて、書いたつもりです。

★「がんばる」ことを強制する風土のなかで

 けれども、現実はどうだろう?
 ハンディのある人ほど「がんばれ」と言われている。多数派の社会、文化、価値観に合わせることを強制される。「歩み寄り」を、より多くもとめられるのは、障害を持っている人たちのほうだ。

 周囲の人たちも、自覚なく、善意の言葉として、「がんばれ」と言ってしまっている。

 だから、「チャレンジド」という、日本語ではない言葉を持ってきたとしても、今のこの国の土壌に置いた瞬間に、「チャレンジド=困難があるからこそ、人よりも余計にがんばらなければならない《義務》を課された人」という意味合い、言葉のにおいがついてしまうのかもしれない。

 こういったことを、再認識できました。

 過去記事を掘り起こして、Trackbackをさせていただいてよかったです。S嬢さん、天竺堂さん、かへるさんありがとうございました(^^)

★「がんばれ」って言わないで 「がんばらないで」と言わないで

「がんばれ」に関連しては、やっぱりこの記事をあげておかないわけにはいきませんね。初期の頃からの愛読者様にはお馴染みですが、私の中に、いつもある思いというか、葛藤ということで、紹介をしておきます。

・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル:「がんばれ」って言わないで 「がんばらないで」と言わないで(2004年05月29日)
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/742875.html
がんばりすぎてしまう親をだれが救ってくれるの?


この記事へのトラックバックURL

http://app.blog.livedoor.jp/kaipapa2shin/tb.cgi/50956636
この記事へのトラックバック
カイパパさんに障碍者に対する呼称いくつかの関連でトラバを再び頂きました。 『カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル』 「チャレンジド」再考 http://kaipapa.livedoor.biz/archives/50956636.html ・不利を背負わされた人が、限られたツールで、勇敢に立ち向かい、日々成
[アスペルガー][context][関係][仕事]「チャレンジド」であるが故にある「がんばらない」という選択肢【かへる日記 (FRGFRG304)】at 2007年04月01日 19:21
 カイパパさんが、「チャレンジド」の概念、名称についての記事を再考としてアップさ
■【雑感】かなり話はズレますが。。【ジョーの発達障害サポート研究室☆】at 2007年04月03日 01:42
ついに、保育園で過ごす最後の1年がスタートしました。一週間以上病気で休んでいたにもかかわらず、何事もなかったかの様に新しいバッチを胸に付け、新しい教室にもすんなり入ったぶーちゃん。 去年ぐらいまでは学年が変ると生活の変化を敏感に感じるのか夜泣きが酷くなった...
見方違えば意見も違う【とんとんのヒトリゴト】at 2007年04月06日 01:53
カイパパさんが「チャレンジド再考」という記事を書いていて ううむ、そう来たかと逡巡していたら ジョーさんが「かなりずれますが」なんて書き出しで、素敵な記事を書いていた。 それを読んでいたら、つい私も書きたくなってしまいまして(笑) 【カイパパ通信】 http://ka...
ついつい熱くなる発言【こうくんを守れ!!!】at 2007年04月07日 01:21
この記事へのコメント
拙文を取り上げて下さり、ありがとうございます。
問題の「チャレンジド」についての考え方は異なりますが、カイパパさんなりの深い考察は、読んでいてとても勉強になりました。
Posted by 天竺堂 at 2007年04月01日 12:13
で、私も愚考したのですが…(長文ご容赦)

カイパパさんがおっしゃりたかったという「不利を背負わされた人が、限られたツールで、勇敢に立ち向かい、日々成長していく姿に対して、尊敬の思いをもっている。ただ『生存する』ためだけでも、苦痛や苦労、不便を強いられている中で、生き抜いていくことだけで、『すごい!』という畏敬の念をいだいている」との趣旨は、文章だけを読めば、尊敬・畏敬の対象は障害者でなくても十二分に通じることです。例えば老人。例えば少数民族。
ですから、障害者に意味を限定した呼称である「チャレンジド」を積極的に使うことは、やはり障害者に新たな定義を押し付け、生き方に“前向きな規制”を与えてしまうことにつながりはしないか…と私は危惧します。呼称を使う側に特殊化の意図が無かろうと、それが障害者を指す以上、結果的に特殊化は避けられないのです。
Posted by 天竺堂 at 2007年04月01日 12:15
カイパパさんは「勇敢」や「成長」などの言葉を使っておられますが、ほめればほめるほど“前向きな規制”は強まります。そのジレンマから逃れることは難しいでしょう。カイパパさんご自身も、実は無自覚に言外で「がんばれ」とおっしゃっておられるのです(激励が悪い訳ではありません、決して)。
Posted by 天竺堂 at 2007年04月01日 12:15
初めて投稿させていただきます。soujiと申します。私自身軽度発達障害(AD/HD、書字のLD)を持っており、障害とは何か、それを持って生きるとはどういうことなのか、日々考えています。そんな中カイパパさんのサイトに出会いました。カイパパさんとは障害と関わる立場も、その種類も違ってはいますが、共感できることがたくさんありました。「がんばらない親もどうかと思うけど、がんばりすぎてしまう親をだれが救ってくれるの?」という言葉も、親の部分を本人と読みかえれば、私自身がまさに普段感じていることです。これからも色々と書き込みをさせていただくかもしれませんがどうぞよろお願いいたします。
Posted by souji at 2007年04月04日 02:29
私は障害はやはりチャレンジすべき対象だと思います。ただ、そのチャレンジには「勝算」がなくてはならない。報われないチャレンジはしたくない。チャレンジドという言葉にある種の強制を感じてしまうのは、チャレンジを要求しておきながら、その結果が報われるか否かについて誰も保障できないということがあるのではないでしょうか。
Posted by souji at 2007年04月04日 02:56
こんにちは
あるひとつのケースとしてですが
息子は広汎性発達障害の小学2年生で、色々な事にチャレンジ
しているチャレンジャーです。
以前相談に行った発達障害の専門家から驚かれるくらい
色々な事が出来ます。自転車に乗って安全に外を移動したり、料理を作ったりします。
でも、親や周囲は協力を惜しみませんでしたが彼は
苦しいとか無理してではなく、したいから、という熱意でハンデを克服しています。
そしてそれを楽しんでいます。
苦労や努力イコール苦痛という考えはどうなのでしょうか?
障害があるから何かをチャレンジすることは苦労
というのが、なんか納得いかないときがあるのです。

Posted by ぷう at 2007年04月04日 20:47
息子だけではなく
小学校の先生が知識の乏しい私の考えに賛同くださって
ハンデをもってる子たちも健常者と同じ、
伸びたい・認められたい、という欲求があることを
大切にしていって、可能性に目を向けたら
重度の障害のお子さんの発語や情緒が著しく伸びて
無表情だったのが目もキラキラしてきたんですね。

上手くいえないんですが
健常者の目線で不幸なのが、本人達はそうなのかな
健常者の目線でハンデや出来ない事と決め付けたり
これをさせるのは苦しいと、勝手に決めていいのかな
と疑問に思うことがとても多いのです。

Posted by ぷう at 2007年04月04日 21:09
はじめまして。
愛知県は公明党のお膝元なのでここ数年で活発になってきたのでしょうか。「がんばる」「がんばらない」の話は、福祉を語るとき愛知という独特の土壌や雰囲気で育つ子供とご両親から語られた話を思い出してしまいます。ほかの土地と比べると、ご両親の心理的な負担が大きいような印象がありました。

地域格差が存在しそれらの共通点を間違いなくつかみ取らないと何かが一人歩きしてしまう可能性があるようにも思います。各土地での受け入れ体制と歴史は、子供たちと関係者にダイレクトに反映すると思います。土壌があたたまる時間というものも存在するとも思っています。

たくさん活動をされているご両親はお忙しいだろうなと思います。私の知り合いの方は、活動に忙しく毎日お弁当を食べているとおっしゃっていましたが。そうした点やお子さんの発達についての悩みも含めて、カイパパさんの日記を読みたいなと思いました。
Posted by みか at 2007年04月06日 02:18