■「偽」

「偽」が今年の漢字だと聞いた。

「偽」が露見する事件がたくさんあった。
それは、長年やり続けていたことが今になってわかったという根深いものだった。

他人事ではなく、想像力を働かせて考えてみる。



関与した個人の責任は、当然問われなければならない。

一方で「慣例」に流されてしまうのが、通常の人間であるなら、
「流れ」を止める仕組みを、流されないようにつかむための安全柵を、作らないといけない。

当事者に「正しくないこと」だという意識はあっただろう。
(だから隠してきた)

しかし「悪いことをしている」という意識は薄かったのかもしれない。
(だから、継続されていた)




「必要悪」という言葉がある。
この言葉は一面の真理を、的確に表現している。
そして、どこかしら、世の中のことを分かった「オトナ」な雰囲気をもっているように思う。

だが、この言葉を、
「必要」にウェイトを置いて受けとめるか、
「悪」のほうにウェイトを置いて受けとめるかで、対応は全然違ってくるのだと知った。

「必要」に重きを置く人は、自らの規範意識を麻痺させていく方向へ行く。
「悪」に重きを置く人は、良心の痛みを、仕組みの改善につなげることができる。




とはいえ、
気がついたときには、すっかり自分の手が汚れてしまった状態になっていたとしたら?

この場合、処罰を行うことが、その人自身をリセットし「救う」ことになるのだろう。
逆に、免れてしまうと、罰を受けることが「できず」、一生引きずって行くことになる。

罰が救いになることだってある。




それにしても、

「抜け道」的なやり方が仕組みとなっていた場合には、自浄はできないんだな。

他者の糾問を受けて、血を流して、変わるしかない。
この血は、「瀉血」なんだと思う。流されなければならない血。
引き受けなければならない痛み。

健康体を取り戻すために──


だがしかし、このショックに耐えられない場合も、あるだろう。
…その時に、死が選択肢とならないよう──ナイーブかもしれないが──祈りたい。

生きていればこそ、だもんね。



【参考記事】・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル:愛と誠
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/50340324.html
2005年の漢字「愛」に関連して書かれたものです。なつかしいな。もう2年経つんだぁ。