今日学んだ知見をメモ──

正常化の偏見について

・文部科学省 原子力安全課 原子力安全ネットワーク>原子力防災基礎用語集>人間行動・心のケア>正常化の偏見
http://www.bousai.ne.jp/vis/bousai_kensyu/glossary/se04.html
異常事態が発生しても日常的なスキーマによる解釈をやめず、事態を楽観視して深刻に受けとめないことを、災害心理学の分野では「正常化の偏見」または、「日常化バイアス」(normalcy bias)と呼んでいる。

災害心理学という分野があり、そこでは「正常化の偏見」についても研究されていて、「原子力防災研修」などでは教えられている。

次の記事は、2006年に書かれたITのセキュリティ対策の記事です。

・「自分だけは大丈夫」,セキュリティ対策を妨げる「正常化の偏見」 - 記者の眼:ITpro
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/OPINION/20060726/244325/
津波が来るのに避難しない?

 片田氏は,一刻を争う災害時の避難に関しても,正常化の偏見が見られることを,以前実施した調査研究を引き合いに解説してくれた。2003年,ある沿岸地域で震度5強の大きな地震が観測された。同地域は,過去に何回か津波によって犠牲者を出している,いわゆる「津波常襲地域」である。実際には地震による津波は発生しなかったものの,過去の経験に基づけば,住民は大きな地震から津波の襲来を想起し,避難することが予想される地域である。

 そこで,片田氏が2003年の地震発生時におけるその地域の避難状況を調べてみたところ,興味深い結果が得られた。3000名を超える住民への調査では,確かに87.1%の住民が,地震発生時に津波の襲来を思い浮かべたという。そして,全体の25.4%が「津波が来ると思った」,38.4%が「来る可能性は高いと思った」と回答した。回答者の過半数は,津波の襲来を予想していたのだ。津波常襲地域だけのことはある。

 だが,津波を警戒して実際に避難したと答えた住民は,わずか1.7%に過ぎなかったという。1.7%である。ほとんど避難しなかったといってもよいだろう。その行動の裏付けとなったのは,正常化の偏見であるという。「津波によって身に危険が及ぶと思ったかどうか」の問いに,「危険は及ばないと思った」との回答が24.1%,「危険が及ぶ可能性は低いと思った」が25.5%で,およそ半数は「自分は大丈夫」と思ったようだ。
(とてもよい記事ですので、全文もぜひ)

「正常化の偏見」または「日常化バイアス」は、自分のこれまでの経験に即して考えてみても、ものすごく思い当たります。

異常事態を異常事態ととらえる感性が麻痺して、働かないような…。

異常事態を認めることが、恐ろしいからでしょうか?
日常の出来事ととらえて「やりすごそう」としてしまうようです。

そうすると、実際の異常事態に対する初動が遅れてしまいますし、取り返しのつかないロスを生むことになります。

私が以前書いた記事「全ては日常になっていく」 では、強い「日常の復元力」のことを書きました。

文脈は真逆ですが、異常事態をも「日常化」してとらえてしまう精神構造を、人は持っていて、
そのことが、危険を「危険」としてとらえる感性を麻痺させてしまうことを自覚しておかなければならないと思いました。



正常化の偏見の話ではありませんが、関連で紹介。
この本の紹介記事は衝撃的でした。一読の価値ありです。

・吉村昭『三陸海岸大津波』 - 情報考学 Passion For The Future
http://www.ringolab.com/note/daiya/2011/03/post-1409.html
三陸海岸は昔から何度も大津波に襲われている。記録にあるだけでも、西暦869年から2011年までで21回に及ぶ。1千年以上にわたっておよそ50年おきに被害をこうむってきたことになる。本書では作家 吉村昭が、直近の明治29年、昭和8年、昭和35年の大津波について、綿密な取材をもとに、その全容を綴ったドキュメンタリ作品。初版は昭和45年6月。