ピッタンさんへのコメントを書いていて、途中から「これは記事であげておきたい」と思ったので、書きます。

>ピッタンさんへ

訪問ありがとうございます。

私は、何をしていいのか迷いながら、ほぼ毎日書き続けてきました。

定まらない思いで、時間もかけられず、つらつらと書いているだけです。

もっと書きたいことがあるのだけれど、エネルギーが足りなくて、あきらめているような…。

ただ、毎日記事を書くことで、訪問してくださる方々とどこかで思いがつながっていると思えることが自分には大事で。

その思いというのは、痛みだったり、かなしみだったり、不安だったり、憤りだったり──こんな感情が──直接は書かなくても、関係の無いことをつづっていても、通奏低音として記事には流れていると思うのです。少なくとも、自分には、わかる。

何を感じ、何をしたか、日常を綴りながら、記録として残っていきたいと思っています。

3月11日から3週間が経ちました。

気仙沼に行ってきた人が撮影した動画を今日見ました。
言葉が出ませんでした。
先日、職場のアルバイトさんの友人の中学生のお子さんが、気仙沼で亡くなったと聞いていました。どんな状況だったかも聞きました。何も、言えませんでした。たぶんアルバイトさんも、つらい思いを、誰かに吐き出さずにいられなかったのでしょう。黙って聞きました。

ビートたけしさんが「週刊ポスト2011年4月1日号」の中でこう言われています。
今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。

じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。

人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。
本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。

一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことの方がずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

自分が無事でよかった。自分の大事な人が無事でよかった。そう思う気持ちがあります。
「亡くなったかたや、大事な人を亡くしたかたに対する想像力を」と言うだけなら易しいけれど、私には難しい。

悲しみの大きさに、圧倒されてしまうから。

今日このうたに出会いました。

HumbertHumbertの「喪に服すとき」です。 (YouTube動画
いつまでも眠ろう
何度でも生きよう
いつか再び巡り会える日まで

もうじき日は落ちて
闇があたりを包むだろう
私は目を閉じて
心に鍵をおろす

いつまでも眠ろう
何度でも生きよう
いつかふたたび巡り会える日まで

もうじき日は落ちて
闇が全てを隠すだろう
私は耳を塞ぎ
固く口を閉ざす

いつまでも眠ろう
何度でも生きよう
いつか再び巡り会える日まで

今宵小さな火をたいて夜中灯し続けよう
貴方が迷わぬように
貴方が凍えぬように

おかしいかもしれませんが、

いつまでも眠ろう
何度でも生きよう
いつかふたたび巡り会える日まで

こう祈りたいです。