4月23日に参加した「穴を見つける会」。一週間かけて、報告を書いてきました。(記事(1)(2)(3)(4)(5)

なぜこんなに長々と書き綴ってきたか。会の趣旨を理解せず、「戸枝さんと永田さんに会えるから行こう」と気軽に参加してみたのですが、ずいぶんともやもやと考えさせられたからです。

今記事を読み返してみて、ようやく昨日の(5)あたりで、会の目的が自分なりに見えてきました。
「自分には関係がない」と思えば、「あー楽しかった」で終わったと思いますが、そうはいかなくて、ぐじぐじと考えさせられました。

もやもやするのにはわけがある。今日はそのわけについて、自分の感想を書いて、考えてみます。

「穴にいる人」を書きだしてみようというのが、最初のワークでした。
私は、色々と考えて、「キラワレモノ」というキーワードで書きました。

この、挑発的なキーワードを出したのは、「愛される人」との対(つい)だと思ったからです。
私も含め、障害のある子を持つ親は、「この子は一生誰かの支援を受けて生きていく。だから、他人から愛される人に育てたい」と考えるでしょう。人生をサバイバルする戦略として…。
(「愛される人」=「他人に受け入れられ易い人でなければ生きづらい」ということ自体それでいいのか?その前提を無条件でよしとするのはどうか?という議論は別の機会に。)

しかし、個人の特性や環境によっては、「愛される」とは限らない。
むしろ、現実には、「キラワレモノ」になり、「それは自己責任だ」としてはじきだされることが多々ある。

会の参加者が書きだした事例には、診断はないが発達障害があるのではないかと思われる能力はあるが対人関係でつまずいて働けなくなってしまった人が複数あげられていた。

話し合っていて、だんだん私は気持ちが重く落ち込んできた。それは、今みんなは「穴にいる人を助けるにはどうしたらいいか」を話し合っているのだけれど、自分は、自分の職場に「キラワレモノ」を許容して受け入れることはできないと考えている。

実際のところ、自分が、「穴に落としている人」だと思ったからです。

今、ほとんどの仕事が、サービス業化しています。顧客満足を高めるため、より複雑かつ柔軟に速いスピードで、仕事の質を上げていかなければなりません。その際に、チーム内でも、対お客様でも、対人関係を抜きには仕事ができません。しかも、「より少ない人数で」という効率化要求と同時進行で。

たとえば、安い居酒屋でも、「呼んだらすぐに注文を取りに来て、ミスなく即ドリンクを持ってくる」サービスが当然だと思っている。ちょっとでも遅いとキレるお客様は神様ですか? ここは、リッツカールトンじゃないのに。でも、「できて当たり前」になってきている。

私たちが、客として期待するレベルがどんどん上がってしまって、提供する側である私たちを追い詰めている。
自分たちで自分たちの首をしめあって、墓穴を掘りあっているようです。

正直しんどいですね。業務遂行能力が高く、かつコミュニケーション能力も兼ね備えたメンバーでなければ、チームは簡単に崩壊してしまうだろう。メンタルヘルスを損なう人たちが増え続ける理由も、同じなのだろうと思います。

私は、会の最後の感想で言いました。

「穴にいる人を救えないとみなさんは言うけれど、日々支援者として救えていることにも目を向けてください。そのほうが元気がでると思うから」

障害のある子を持つ親は、支援の充実を訴えます。「もっとやさしい社会を! この子たちの居場所を!」と。
けれど、一方で、職業人として、“お客様”として、「自分が、この子たちをはじき飛ばす側にいる」ことの自覚もある。
一人の人間の中にある、これは矛盾です。(福祉業界に転職をする親の気持ちもわかります)

「自分がいい仕事をして、国富を増やすことが、巡り巡ってわが子やお友だちが暮らしやすい社会をつくる」というのが、今までの自分に対する説明でした。

が、

どうだろう?

この10年ぐらいで、息が詰まるような生きづらさは加速しているように感じる。

障害のある子を持つ親として、「弱者」の立場だけ主張していればいいとは思わない。私の場合。
二面性があるから。

穴にいる人を考えるとき、私の中には、「罪ほろぼし」──のような意識が、ある、のかな。

最終回の予定でしたが、まだ書くことがあるので、続きます

★連載記事です。(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)