
脱「貧困」への政治 (岩波ブックレット)
穴を見つける会に参加してから、貧困をテーマにした本を固め読みしています。
この本は、岩波ブックレットなので、非常に薄くて、内容もシンポジウムの記録なのでとても読みやすかったです。
自分が、ぼんやりと感じていたことに、鋭い光が当てられたような感覚を覚えました。
貧困のことを論じるのは勉強中で、まだ荷が重いのですが、山口二郎さんのこの言葉が心に残りました。
・「プレカリアートの乱? 21世紀日本の若者と貧困 パネルディスカッション」:『脱「貧困」への政治』P.43
「これは人災だ」という感覚
先程の議論にも出てきた派遣切りですが、なぜいまごろ騒ぐのでしょうか。そもそも派遣労働の拡大とか労働の規制緩和というのは、不景気の時に簡単にクビを切れるようにするためにやった。だから、いまこそ労働の規制緩和は完結したのです。「成果」が上がっているわけですよ。
私は派遣切りで騒いでいるテレビや新聞などメディアの人に言いたい。経済財政諮問会議や規制改革会議で、例外なき規制緩和の旗を振ったやつを連れてきて「この状況をどう思うんだ」って聞いて欲しい、と。竹中平蔵や宮内義彦、八代尚宏などは「これこそおれたちが目指していた社会なんだ」と言えるのか。
ともかく、これは絶対に人災です。だからまず、「これは人災だ」という感覚を持って世の中を見なければいけない。そこから始めなければいけないと思います。
社会は常に変化し続けています。
変わっていっている実感は誰しもあると思います。
が、その変化が「何」?なのかを言語化することはとても難しい。
ましてやその変化の「原因」を特定(とまではいかなくても仮定)することはさらに難しい。
しかも、それが、災害や事故のようなものではなく、数年という時間をかけて「結果」の現れてくるものだとすると、「原因」を探ろうとする思考回路が全く働かなくなってしまう…。
「時代の変化」だと、ただ受け容れ、流されていく──これは、「子どもの思考」なんでしょうね。
子どもでいる間は、無力で、「変えられるもの」がほとんどない。だから、与えられた状況のなかでやっていくしかない。子どもは、その思考に適応して、生活をしている。
大人になるということは、「変えられるもの」と「変えられないもの」を区別して、自分が決められることに取り組めるようになることだと思います。
「社会」と呼ばれる大きなものでも、制度の変更によって、変えられる。
変えられるものだから、「選択」によって、成功も失敗も起こり得る。
「選択」は自然に起きるものではない。「誰か」が、選択をしているんだ。
原因は何か? 誰がやったのか? 何を意図していたのか? を振り返って検証することは、怒りにかられ「血祭り」にあげる対象を探すためじゃない。
この検証の放棄は、「社会が変えられる」という大人の力と自覚の放棄につながる。
社会は複雑だから、単純なひとつの原因や主体に帰結できることは稀ですが、結果からたぐっていって、からみあった糸をほぐし、「これなんじゃないか?」を見つける試み。
見つけたと思う原因もまた「仮説」に過ぎないという自覚を持ちながら、オルタナティブな(別の)選択を選びなおして、社会の変化を起こす試み。
この繰り返しを、「意味がある」と信じてやり続ける。それが、大人なんだと思います。
「これは人災だ」という感覚と聞くと、他責的に響くかもしれませんが、
実は、それが「社会は、人によって変えられる」という大人の思考につながっていて──
子どもだったら、社会の変化を天災のようにとらえ、無力感で何もできないでしょうが、
もうそろそろ大人になりたいと思う今日この頃です。
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