「肉親じゃなくても、友達ではなくても、手は差し伸べられる」の記事で紹介したハバネロさんの記事を読んで、思い出したシーンがあります。

3月のライオン 5 (ジェッツコミックス)
3月のライオン 5 (ジェッツコミックス)
クチコミを見る

将棋の棋士を描いたマンガ『3月のライオン』第5巻の中で、
主人公の桐山くんがお世話になっているうちの次女ひなちゃん(中学生)が、
クラスでいじめられている友達をかばって、今度は自分がいじめの対象になってしまうエピソードが登場します。
桐山くん自身も小学生時代から学校で無視され続け、今(高校生)にいたる過去がある。

「かばうとひなちゃんがやられるよ。だから、関わらないほうがいいよ」という「忠告」のとおりになって、ひなちゃんは泣きじゃくりながら叫ぶ。
ひ…ひとりぼっちになるの。こわいよう…
ほんとはずっと恐かった

でもっっ
でもっっ

こうかいなんてしないっっ しちゃダメだっ
だって私のした事はぜったい まちがってなんかない!!

この言葉を聞いて、桐山くんは──
その時 泣きじゃくりながらもそう言い切った彼女を見て
僕は かみなりに撃たれたような気がした

不思議だ ひとは
こんなにも時が 過ぎた後で
全く 違う方向から
嵐のように 救われることがある

桐山くんが、なぜこんなに衝撃を受け、救われたと感じたのか?を考えてみました。

子どもの頃の、つらい記憶や体験を、もう過去のこととしてやり過ごして忘れ去ったつもりでいても、傷はかさぶたがかかっているだけで、そこにあった。あり続けていたんだ。
だから、過去の痛みは現在の痛みとして、凍結されたまま残っている。
あってはならないできごとや不正に遭遇した。
それによって、傷つけられ、ねじ曲げられた自分がいる。もうもとに戻すことはできない。
だから、忘れるしかない。あたかも無かったことであるかのように。
笑って、なにもなかったかのように。「ふつうのようにくらすふつうのひと」みたいに。

それが、「乗り越えた」ことなんだろうか?
一般的には、「Yes」だ。
「ふつうのようにくらすふつうのひと」に見えるようになれば、「乗り越えた」というしかない。
他人には分かるわけないし、自分も忘れている。傷はもう、見た目にはわからなくなっている。

だけど、そのできごとの前後で、まるで別の人生のように変わってしまった経験は忘れられないし、消せない。不可逆的に変えられてしまった。そこで分岐して、「それまでどおりの人生」を歩む自分が別にいるんじゃないか?みたいな妄想をしたりして。

でも、ふだんは忘れているんだ。「乗り越えた」から。

そこに、唐突にあらわれる「救い」
それを、3月のライオンのこのシーンは描いている。

ひなちゃんは自分が正しいと思ったことを必死でした、だけ。
桐山くんとは関係がない行為。

だけど、桐山くんにとって、不正に立ち向かい、いじめられている友達を守った彼女の行為は、幼い桐山くんを救ってくれたと同じ意味をもった。桐山くんの「今」の中に、救われたい傷があるから。

私も、これに似た、衝撃的な「救い」を実感したことがあります。



──障害のある子の「親」が、プロの「支援者」の立場になっていく姿をたくさん見てきました。
私は、思うのです。

「親」たちは、

あの時、救ってほしかったけど救われなかった「自分」を
時空を超えて、救うために

今、あとから来るひとたちを救おうとしているんじゃないかと。