僕たちは、子どもの頃からいろいろな方法で学んできた。
特に人生や生き方のようなものについては、先人たちの体験談や映画や物語などから学ぶことが多かった。
同時に、自分自身が生きる体験を通じて、身につけた。

他人から得たものと自分自身が得たものでは、ずいぶんと価値が違う。もちろん、自分が体験から学んだことのほうが強く残る。
だが、特に若い時、生きた時間がまだ短い間。学校と家との往復や、職場と家との往復であったりと、さほど経験のバリエーションは豊富にあるわけじゃない。他人から得る「膨大で」「多彩な」擬似体験も、バカにできない。

想像したこともないような出来事に遭遇したとき、他人の体験談や指南を参照しようとする。
その時は、やはり、似た出来事に遭遇した人の話を探すだろう。そして、そこからヒントを探す。具体的な「やり方」を知識として知ることも重要だが、
それだけじゃなく、「心情」──いかにしてくぐり抜けてきたのか?についても合わせて吸収しようと思う。

当然、他人だから、合う/合わないの相性もあれば、信頼できる/信頼できないといった違和感もある。

衝撃的な出来事に出会い夢中で学んでいるあいだは、そうでもないのだけれど、ある程度落ち着いて周りが見えるようになると、新しい自分なりの世界観(のようなもの)ができてくる。
そうなると、ふしぎだね。その世界観を語りたくなる。自分の体験と他人の体験談がブレンドされたもの。

世界観はミームだから、自らを複製しようとがんばる。

多いのは、「これが真理だ」という主張。

その根拠は?と問うと、色々な理由をあげるが、つまるところ「実際に体験した私が言うのだから信じろ」に行き着く。これは説得力がある。ある程度は。ある程度というのは、主張する人の体験(これには他人の体験もブレンド)が、同じ条件で同じ人がくぐり抜ければ同じ世界観に辿りつくであろうといった程度には、だ。
一般化できるか?といったら、それは限定的だと思う。

そこで、そのことに自覚的なミームは、「これはあくまでもぼくの体験。信じるか信じないかはあなたの自由」というアプローチを行う。自らを真理だと主張しないだけで、言っている根拠は同じなんだけど、押し付けがソフトになっている分、受け容れられやすい。だが、そこに落とし穴があるなあと思った。

同じように「その主張は一般化できるのか?」のチェックが、受け入れる前に問われなければならないのだが、ガードが下がってしまって、「私は賛同します」とカンタンに「真理」として受け入れてしまったりする。
根拠は、「実際に体験した私が言うのだから」に尽きていることは同じなのに。

いちいちフィルターを通すのはメンドクサイから、まるごと「この人の言うことは信用する」と決めてしまうほうがラクはラク。
でも、大きく間違わないためには、正しいとする射程範囲(どこからどこまでが実際に再現可能な体験であり、どこからがその体験から敷衍して拡大適用している部分か)を見極めたい。

「あの人がくぐり抜けてきたことに感動し、尊敬する」ことと、その人の主張全てを「真理」と受け入れることは区別できるから。