卒業したお子さんを持つ親の先輩が言う。「学校があるうちはいい。行く場所があって、預かってくれる時間が長いから」と。

「安全な託児」──は、親(特に四六時中子育てに追われる母親)にとっては、はかりしれない意味がある。レスパイト(ひとやすみ)は、誰にとっても必要なものだ。

学校が、「安全な託児」の場であることは貴重だ。極論すれば、今この瞬間だけをみれば、親にとっては、それだけで価値があると言ってしまうこともできる。

だが、視点を変えて、子ども本人にとって、学校が安全な託児の場でしかないとしたらどうだろうか?

どの子にも、育つ権利がある。
権利があるとは、その子に合わせたその子なりの発達が保障されなければならないという意味だ。
子ども本人の学びの場になりえているか? 教師も親も社会も常に問われている。日々絶え間なく。

子ども本人の発達保障──
それを意識したら、「子どもは親の所有物」であるとか、「学級は担任の独立国だ」といった(無意識にある)独善が、勘違い以外の何物でもないとわかる。

目の前の、成長したがっているこの小さな人が、どんなサポートがあれば、成長することができるのか?

「安全な託児の場」にとどまっていていいわけはないし、無理やり定型サイズの靴に合わせるために指を切り落とすような矯正をしてはいけない。

親は、問われている。
教師は、求められている。
成長を助けてください。
ぼくはどんなおとなになれるのでしょうか?