岩手から帰ってきて、どこか地に足がついていないような感じがします。ブログを書くリズムをどこかに失ってしまったようで、「書きたい」というモーメントが訪れてくれません。
岩手は、5月11日と12日の2日間行って来ました。最初の日は陸前高田市を地元の方に案内をしてもらいました。2日目は盛岡を中心に、全くの観光を楽しみました。全体として、岩手が大好きになって、また来たいと思って帰って来ました。
ところが、どうにも、調子が出ません。
イライラしたり、ぼーっとしたり。疲労感がずっとあります。もやもやする思いが、心にとごっているのです。
陸前高田市で撮影してきた写真をここに載せておきます。
案内をしてくれた友人は、「半年ぶりの訪問だけど、ものすごく風景が変わった」と語っていました。半年、一年経ったら、また変わっていくのでしょう。写真は全て、2年2か月後の5月11日(月命日)の撮影です。
案内してくださったかた(この方もご家族を亡くしている…)の説明に、驚きの声をあげるだけで。何を言っていいかわからない──どころか、何を感じたらいいのかがわからなかった。今も…
「ここまで津波が来た。逃げられるわけがないんです!」
という強い言葉が、耳に残っています。
整理がつかないまま、こうして記事にして「放り出している」ようで、やっぱりもやもやしています。
たぶん、ひとりでは抱えきれないこの感情を、聞いてほしいだけで、非常に自分勝手ながら、書かせてもらいます。
陸前高田は、ごくごく普通の、平凡な街だったのだと思います。
地震がなかったら、わたしはたぶん一度も足を踏み入れることはなかったでしょう。
今だって、友人の導きがなかったら、僕なんかは立ち入る勇気がありませんでした。
本当にたくさんのかたが亡くなった場所でした。それは、2年経っても、見ればわかる。
今やっと実感しているのは、あの海岸はお墓だったのだと。
花もたむけず、写真を撮ってきた自分が情けなくて申し訳ないです。
弔う準備もせずに、ただ行けばいいと。そんなことでは、足りなかったのだと今は思っています。
ごめんなさい。せめて手を合わせればよかった。
岩手は、5月11日と12日の2日間行って来ました。最初の日は陸前高田市を地元の方に案内をしてもらいました。2日目は盛岡を中心に、全くの観光を楽しみました。全体として、岩手が大好きになって、また来たいと思って帰って来ました。
ところが、どうにも、調子が出ません。
イライラしたり、ぼーっとしたり。疲労感がずっとあります。もやもやする思いが、心にとごっているのです。
陸前高田市で撮影してきた写真をここに載せておきます。
案内をしてくれた友人は、「半年ぶりの訪問だけど、ものすごく風景が変わった」と語っていました。半年、一年経ったら、また変わっていくのでしょう。写真は全て、2年2か月後の5月11日(月命日)の撮影です。
陸前高田市役所の外観。プレハブの庁舎。
JR陸前高田駅(Wiki)。線路は復旧していません。BRT(バス)で運行。
向こうに見えるのは、「花を植えるプロジェクト」のひとつで、黄色い花がたくさん咲いていました。
米沢商会のビル。この記事を読んでください。
瓦礫は固められていました。
案内してくださったかた(この方もご家族を亡くしている…)の説明に、驚きの声をあげるだけで。何を言っていいかわからない──どころか、何を感じたらいいのかがわからなかった。今も…
「ここまで津波が来た。逃げられるわけがないんです!」
という強い言葉が、耳に残っています。
整理がつかないまま、こうして記事にして「放り出している」ようで、やっぱりもやもやしています。
たぶん、ひとりでは抱えきれないこの感情を、聞いてほしいだけで、非常に自分勝手ながら、書かせてもらいます。
陸前高田は、ごくごく普通の、平凡な街だったのだと思います。
地震がなかったら、わたしはたぶん一度も足を踏み入れることはなかったでしょう。
今だって、友人の導きがなかったら、僕なんかは立ち入る勇気がありませんでした。
本当にたくさんのかたが亡くなった場所でした。それは、2年経っても、見ればわかる。
今やっと実感しているのは、あの海岸はお墓だったのだと。
花もたむけず、写真を撮ってきた自分が情けなくて申し訳ないです。
弔う準備もせずに、ただ行けばいいと。そんなことでは、足りなかったのだと今は思っています。
ごめんなさい。せめて手を合わせればよかった。
Tweet
東日本大震災の記録集を購入しました。
幸い死者は出ませんでしたが、こちらの被害も相当なものであったと改めて知りました。
私は語り部になります。
今あるこの命は、当たり前ではなく
生かさせていただいているということに
感謝しながら進んでいきたいと思います。