連続して「がんばる」について書いています。
実は、出来事があって、思うところがあったからです。

自分は、子どもがもう中学生で、これから将来のことが見えない不安があるけれど、過去の歩んできたことは今の足場になっている。「これまで起きてきたこと」は「何が起きてきたか」を知っている。だけど、当たり前のことだけどカイが生まれた14年前には何もわからなかった。
期待と失望、とにかくわからない……という困惑、眠れない。そして、今、この瞬間に、そういう思いをしている親たちがいる。適切なささえが得られずに、混沌の中にいて不安で叫んでいる子どもたちがいる。
10年前よりは、はるかに制度的な支援が充実して来ました。情報も探せば多すぎると思うぐらいあふれている。だけど、必要な人に届いているかというとそれは別の問題だ。

「こんなに充実してきているのに。探せば見つかるし、申請すれば得られるのに。なんで?」という素朴な疑問が投げかけられることもある。

それは、「探せない事情」がある、からです。

実は、親の会とか、自助グループで出会える「仲間たち」というのは、その時点で「ある条件をクリアした」人たちなのだということ。「アクセスできた人たち」どうしの会話では、「アクセス出来ない人たち」の存在や事情が抜け落ちる。

その場にいないから、見えなくなる。

では、「アクセス出来ない」事情とは何か?

育児に困ったときに、保健所などで相談することができる。
育てにくさは、生来の何らかの原因があるかもしれないと思う。
そして、その原因を医師が見つけてくれる可能性がある。
小さい頃から、見た目ではわからない「障害」があるということ。
わが子は、その障害をもっている可能性があること。
障害が理由で、育てにくさになっている。
そして、その育てにくさには、専門的な「コツ」が必要だということ。
その「コツ」を教えてくれる場所がある。
障害のある子どもを支えるための福祉サービスがあること。
その福祉サービスは、市役所での「申請」が必要だけど、
市役所に、相談に行けば、やり方を教えてくれること。
いろいろなことが難しくて、考えることができない状態は、もしかしたら、親自身の病気かもしれないこと。
親の病気を治療する、そのための病院があること。
──こういうことを知ることは、だれにでもできることではなかったりします。

また、
誰か教えてもらったけれど、働かなければならず、実際に足を運ぶ時間がない。
サービスにはお金がかかると思っていて、自分には払うお金がないから無理とあきらめている。
自分の親(祖父母)が「障害」を認めない、反対をして診察を受けさせてもらえない。
──など、アクセスをできなくさせる事情もあります。

社会から「見えなくなった人」は、「いなくなった」わけではない。誰からも手を差し伸べられず、孤立して途方に暮れている。
子どもの障害だけじゃなく、複合的な要因が重なっている場合が多くて、子どもがサポートを受けられるようになるためには、ときほぐして、それぞれの要因に複数の支援者が関わる必要がある。そのためには「発見される」必要があるのに、「見えない」から「ない」ことにされている。

子育ては、家庭だけで抱え込まないでいいんだよ。

子育てだけじゃない。
「生きること」を、家庭だけで抱え込まなくていい。

最初は恥ずかしいかもしれない。抵抗はある。だれでもそうだ。でも、ここまで必死でがんばってきた自分をほめて許してあげよう。
また、がんばるときは、じきに来るから。

「白旗」をあげる勇気をもとう。



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