「救う」とか「救われた」とか、援助に携わっている人たちは、この言葉を使うことには用心深い。

困難な状況に陥ってしまった人が、社会とつながり直して、生きていきたいと思えるようになるために奔走をするのだが、無力感を感じない人はいないと思う。
それに。立ち直ったとき、援助者とは無関係に、時機が来て、自らの力で立ち上がっただけだ、と客観視できる援助者は思うだろう。

昨日、CBR公開研究会で、草の根ささえあいプロジェクトの活動報告があった。その後のグループに分かれて話し合いをした。
その時に「ボランティアで、いったい何をモチベーションに活動をしているのですか?」という問いかけがあった。草の根ささえあいプロジェクトのメンバー何人かが、答えようとした。
「今までの支援の現場で『わかっているけど、制度がないから、仕方がないよね』とあきらめてきた。もう、あきらめたくないと思った」
「……当たり前のことをしているだけで(その後無言)」
「がんばっているというよりか、楽しいからやってます」
 僕は、「自分は2年間草の根ささえあいプロジェクトの活動を見てきたけど、自分は、障害を持つ子の親ということがきっかけになっていて、自分が活動していること自体は自然に思える。だけど、他のメンバーについては、もちろん当事者性を持つ者もいるけれど、なんというか──少しバカなんだと思います。損得が考えられないというか。でも、こういう人たちが、『福祉マインド』のある人たちなんだと思うようになりました」

その後、30年以上NGO活動に携わってきた人と話をした。CBRは、福祉は公的な制度のみで支えられなくてもいい(というか公的な制度が不十分な国の状況において)様々な主体が担い手となって、援助を必要とする人を支えていくことを志向するものだから、非営利組織やボランティアグループとの相性がいい。参加者も、研究者や学生などの他に、背筋のピンとした活動をしている方たちも多かった。
「お金も時間もないので、草の根ささえあいプロジェクトには、委託事業の部分以外で、専従の職員を雇うことができない。その中で、できることは限られている。孤立している人は膨大にいる。その中で、草の根ささえあいプロジェクトが関われる人は本当にわずか。行政が関与していく必要性を感じる」と僕が話した。
大先輩は即座に、「『そこを行政ができない、他の主体がやったほうがいい』ということを認知してもらいたい。その認知に基づいて、他の主体の活動を国や市が援助するかたちがいい」と応えられた。

そのとおりだと思った。国や市が支援するとなると、対象者、提供者の要件、提供サービスの質・内容、料金の設定を定めなければならない。制度がその「領域」を埋めることによって、改善することはもちろんある。一方で、その「領域」に自生していた活動を追い出してしまう影響もある。「今は、障害者のボランティアをしたくても、その場が少なくなった」という言葉もあった。

CBRマトリックスを眺めていて、そこに掲げられた多くのことを、障害者の親の会など自助グループが埋めてきた歴史を思い起こした。
今は、その成果が、制度化につながっている。多くの、自助では提供できなかったサービスが全国で提供されるようになった。
そして、それでも制度と制度のはざまや、離れたところに、ボランティアや非営利組織の活動が張りだしていっているんだと実感した。

思い込みかもしれないけれど。時代がだんだん暗くなっていく。
一隅を照らすことでしか、明るくすることはできない。

補足記事があります。



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