昨日書いた記事「自助、ボランティア、制度」に、カイパパFacebookページでご質問をいただきました。私自身、考えを深めることができたので、そのやりとりを記事にして、補足にしたいと思います。

公助・共助は理解できますが、タイトルに自助とされてる意味が私には解りにくかったです。

自助と書いたのは、セルフヘルプグループのことが、頭にあるからです。社会資源が何もない中で、自分たちで(たとえば自閉症親の会)でできることを始めた。それは、互助と言ってもいいのですが、互助よりも前の、本当に小さな、仲間のための自助グループをイメージしました。

また、現在草の根ささえあいプロジェクトがやっている小さな活動は、「出会ってしまったから、ささえあいが始まっている」偶然性が強く働いているもので、これは、互助と呼ぶのもしっくりこないよう感じがします(「共助」という概念は、私はよくわかりません。最近耳にしますが)。

ボランティアは他人の為にするものでなく、自分の成長のためという意味でしょうか?(自助のことが)ボランティアを受ける側を指すとは思いにくかったもので。

ボランティアが「自分の成長のため」という発想はしませんでした。
結果的に、そういう成長が起きることはありますし、自然と起きてくるものだと認識していますが、「自分の成長をボランティアの第一の目的にする」のは、支援される人に対して失礼ではないかと思ってしまいます。親という当事者性をもつ身としては「私は、あなたの成長のために、困難な状況にいるわけじゃない」と思ってしまうややこしさもあって…

「一方的に支援される」立場に置かれ続けることは、けっこう苦痛で、辛いものなんです。

だからこそ、当事者も、家族も、自分にもできることはないか?と動き出しているのです。このことは、過去記事でも書いたことがあります(「時空を超えて届く救い」)。

草の根ささえあいプロジェクトの名前が、「支えあい」となっているのは、相互に支えあっていきたい意思を表しています。
そのあたりは、なぜか理由を言語化できないのですが、私の中では、「互助」というより、「自助」に近いです。
自分の力で、少しかもしれないけれど、自分にできることをする。助けてくれた人を助ける──ところまではいかないかもしれないけれど、何かしらの影響を与えることができるようになるイメージです。

昔、私も余裕がなかった頃はハリネズミのようになっていました。「手を、さしのべる」という態度が、嫌でたまらないと思った時期も正直言ってありました。
だけど、当事者も、だんだんと他人の手をにぎることができるようになります。その、プロセスがあるんだと思います。
同じように、支援者も最初は自己愛(?)からスタートしたかもしれないけれど、じょじょに「自分事」になっていく。そういう相互作用のプロセスを、私も体験して来ました。

だから、わかりあうための、溜めの時間みたいなものを、お互いに許しあえたらいいなと思います。衝突はあっても、気がついたら、「どちらかが一方的に与える関係ではなく、ささえあいになっていた」みたいなね。これを実際に体験すると、やっぱり変わってくるんです。

人は、憎たらしいけど、いいもんです。



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