「わたしは知っている。なぜなら経験したからだ。あなたは知らない」までは、事実だとしても、そこから「だから、あなたにはそのことについて発言する資格はない」と言ってしまうと断絶が生まれる。

実際に経験できたことは、それぞれわずかでも、一人ひとりが得た経験を、知識にして、それをシェアしてここまで人類はやってきた。物の言い方が下手くそで反感を買ったり、伝え方が未熟だとしても。
「そのことを話す資格がない」という断定は、対話を抹殺するわけで、どうかと思う。

「経験していないあなたに、そのことを語る資格はない」と言った人のその時の心情を想像してみる。きっと、許せないと思う何かがあったのだろう。「知ったかぶりの断定」が先の発言者からあったのかもしれない。無礼や無神経も。

自分にも、そう言ってしまった経験がある。
その時わたしは腹を立てていた。もうこの相手とは対話したくないと思った。だから、対話をシャットアウトするために放った「攻撃の言葉」だった。そして、この「経験」という攻撃には効果がある。未経験者の言葉を奪う効果が。

だが、攻撃した者(わたし)も、冷静になればわかるはずだ。自分が「したという経験」も、ごく部分的なわずかなものだということ。それだけで、その事柄の全てを語れるのかどうなのか。本当はわからない。同じように、限定的な範囲での経験でしかない。

経験者だろうがそうでなかろうが、「わかったようなことを言うな!」という批判は、どちらからでも言うことができる。
そして、その発言をした人は、傷ついている。「傷つけられた」と思っている。

理解の架け橋を落とすのは簡単だ。というより、必ず崩れ落ちていく橋を、日々ことばを尽くして直し続ける行為だけが、橋を保つのだろう。