7月29日に書いた記事「語る資格」は、先日Twitterで、自分がつぶやいたことをまとめたものでした。
「わたしは知っている。なぜなら経験したからだ。あなたは知らない」までは、事実だとしても、そこから「だから、あなたにはそのことについて発言する資格はない」と言ってしまうと断絶が生まれる。

実は、発作的にこの連続ツイートをするきっかけとなった記事がありました。
それが、この記事。

「ここに命あり(1)」
http://blog.livedoor.jp/olivia2013/archives/30868639.html
…その様な経緯を経て、(心臓移植のために渡米した家族の支援する)通訳にと勧められた
際にはあくまでも自分はちょっとしたお手伝い
的なことを考えていたものの、気がつけば
移植現場のど真ん中に立つことになってしまい、
これまで知ることのなかった内部事情を
知ることで、病棟勤務は自分にとって
非常に心的負担の重い仕事となってしまった。

仕事は?と訊ねて来るナースに、病棟勤務は
自分には大変辛い仕事である、と打ち明けた。…

医療スタッフとの断絶、臓器移植を受ける側と「あげる」側、そして医療の断絶。なんとも言えない、「究極の経験」について関わらなければならない光景を思い浮かべて、つぶやきました。

ブログ主のえりさんとは、もう2年くらいTwitterを通じての知り合いです。えりさんが今まで、そして今、経験していることは、私には想像しかできないし、感情をシンクロしてみようとしても、ほんの少ししか分からない気がする。

それでも。きっと、えりさんは、「体験していないものが語る資格が無い」というふうには言わないだろうと思いました。
さて、僕はどうだろう? これまでどうだったろう? これからは? そんなことを思いながら書き、ブログにも残しておこうと思いました。



そして、しばらくの間を経て、続きの記事「ここに命あり(2)」が書かれました。
http://blog.livedoor.jp/olivia2013/archives/30950640.html
…実はナースの中には、やれ忙しい、
大変だ、と、文句や嫌みを訴えてこられる方も
いらしたのだけど、非常に大変な状況の中で
手際良く仕事をこなし、娘を助けて
下さったことへのお礼を伝えた。

うちの娘もまた意識の有無や生命価値が
問われてしまう様な状態にあり、
その様な患者に対する高額医療の必要性に
疑念を抱きつつ治療を行う医療者も居ることは
認識している。

が、それを頭ごなしにあなた方は誤っていると
批判したところで、返って反発を招く様に
仕向けるだけなのではないか。

ならば、皆一体となってひとつの命を守ることに尽力し、
成功したことを祝福し、その喜びと感謝の
声を届けたいと思った。

ここに書いてある「祈り」は、私にもわかる。

「言ったって詮なきこと」そう思って、飲み込んでしまったことば──どこへ行ったのだろう?

呪いと祝いは、紙一重だ。
呪いは自分のなかに「憎い存在」を同居させてしまうもの。
祝いは、自分のなかから、外へ解き放つ。

そうであるなら、祝福を。
憎かったあの人を、私の中から解き放て。

すべての命に祈りを込めて。