昨日レポートを書いた集まり「精神・発達障がいによる社会的孤立を地域でどう支えるか?」に参加して、「自立」と「依存」について深く考えました。このことを考えるとき、必ず思い出すフレーズがあります。

自立は、依存先を増やすこと

熊谷晋一郎さんのこのインタビュー記事は、何度もくりかえしシェアしたいです。
「自立」について、わたしのなかでモヤモヤしていたところに光が差した気がしました。
人間観が変わるような本当に大きな影響を受けています。

・熊谷晋一郎氏インタビュー:自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと
http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/56/jyoho56_interview.htm
 一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。

 東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。

 これが障害の本質だと思うんです。つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。

 実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。

このインタビュー記事は、去年の秋に出て、わたしの周りで、話題になりました。

「当事者主権」のごりごりした主張とはちがったアプローチで、自然にうなずかされる。自分自身に引きつけて納得することができる世界観です(「わたしが自立している」といえるのは、あの人にもあの人にも、あの場所にも、あの組織にも、依存しているからだ)。

今一度噛み締めて、カイのために、仲間たちのために、何ができるかを考えたい。