生活書院サイトに連載されている福井公子さんですが、今回は、大切なことが書かれすぎています。

・「障害のある子の親である私たち──その解き放ちのために・11」福井公子さん
http://www.seikatsushoin.com/web/fukui11.html

今回の連載は、3つの章立てがしてあります。それぞれについて、簡単な要約と感想を書きます。

ひとつめの章「勝ち組・負け組」では、「自立」を「自活」と同義に捉えることで健常者中心の価値観にからめとられていることを指摘しています。

この文章で紹介されている当事者のことば──
「オムツを替えて貰う時、腰をうかせようと一生懸命やることが(障害者にとっての)労働だ」

これは、市場では価値があるとは評価されない、しかし、生存のためにできることをやる(つまり、生きることそれ自体が)労働だ、と言っています。

『枠組み外しの旅』(竹端寛2012)からの孫引きですが、横塚晃一『母よ!殺すな』から引用をします。
なぜ彼女が殺意をもったのだろうか。この殺意こそがこの問題を論ずる場合の全ての起点と鳴らなければならない。彼女も述べているとおり「この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ」とおもったという。なおるかなおらないか、働けるか否かによって決めようとする、この人間に対する価値観が問題なのである。この働かざる者人に非ずという価値観によって、障害者は本来あってはならない存在とされ、日夜抑圧され続けている。」

ここで語られている「彼女」とは、1970年に2歳の障害児をしめ殺した母親のことを言っています。横塚氏は、脳性マヒ者の当事者会「神奈川県青い芝の会」のメンバーとして、この母親への減刑嘆願運動に対して異議申立てをしたのでした。

福井さんは、その当事者運動を意識して、こう結んでいます。
 かつて障害者運動を進めてきた当事者の方々は、効率や生産性を重視する健常者中心の労働環境をきっぱりと否定し、独自の労働観を貫いてきました。それがいつの間にか健常者中心の価値観にからめとられているのではないでしょうか。


この指摘は、正しい。だがしかし。だがしかし…。中学生の息子を持つわたしには、カイにとって、居心地のよい場、いきいきできる機会は、どこに見い出せばよいのか……? もっともっと、わたしは色々な人と語り合って、学びたいし、考えたい。

2つめ「私たちのこと」では、日常の暮らしの中で、親が「親だから…」ということで、自らの思いを吐き出せず溜め込んでいる。その結果、社会は何も変わらず、「障害者の親」という立場から自由になることができないことを、バスに間に合わなかったときのエピソードとおしゃべり会での吐き出しを紹介して、示しています。本当に、そのとおりだ。

3つめ「家族支援ワークショップ」では、福井さんが、親が集まり、親どうしが思いを共有しあう「おしゃべり会」をファシリテーションやコーチング、アサーションの技法を取り入れて実践していることを紹介します。
そう。単なる井戸端会議では飽きたらなくて、意味のある時間を共に過ごし、親のセルフヘルプの場をつくるためには「やり方」がある。そして、その「やり方」は持ち運び可能、伝えることが可能な方法なのだと示してくださっています。

これは、わたしも、ぜひとも自分が(仲間と一緒に)やりたいことです。うん。

3つの章それぞれが重くて。ふだんわたしが考えないようにしている(目を背けている)現実について、深い共感と(ではどうしたらいいの?という)根源的な問いかけ(自問)を投げかけてきます。それは、とても胸の苦しいことなのですが、福井公子さんという先輩お母さんが、今こうやって立っているじゃないか!と勇気もくれます。

ぜひ読んでいただきたいです。この連載は、過去記事が蓄積されないので(出版が待ち遠しいです)8月中に見に行ってくださいね。

・「障害のある子の親である私たち──その解き放ちのために・11」福井公子さん
http://www.seikatsushoin.com/web/fukui11.html