今年も12月になり、この一年間をふりかえってみたりしたくなりました。
先週やっと、プレッシャーがずっとかかってきたプロジェクトが終わったこともあって、とても心が軽くなった。

そのせいだけじゃないけど、
2013年は良い年だった。
悪いことは何も起こらなかった。
そう思う。

「良かった探し」的な思考パターンは身につかず、楽観的ではあるが「アラが目につく」タチの僕が、こう思えるようになったのは、今年、今までにもましていろいろな人たちと出会ったからだ。

直接は一度しか会っていないが、Facebookでつながり、なんだかんだと毎日言葉をかわした人もいる。
知らなかった、聴いたことがなかった心の中の思いを聴かせてもらったりもした。
想像もしなかった経験をしてきたひとや、自分とはかけ離れた考え方や感じ方をするひともいた。おどろくほど"怠惰"でかつ動じないひととも出会った。

外国とのやりとりも多かった。
文化の違いが、クリティカルに仕事に跳ね返るから、肝を冷やすことや怒りに震えることもあった。
だが最終的にはつじつま合わせて一緒に握手して笑ったりした。クソーと思いながら(イライラ焦っていたおれのほうが損している…)と悟ったり。日本の仕事のやり方をそのまま代弁するよりも、自分が「調整弁」となって、架け橋するのがあるべき姿だと思うようになった。やっと。

人間と言っても、けっこうな幅がある。
若い頃は気がつかないが、生まれた街、通った学校、働いている職場、そこで出会えるひとというのは「既にセレクトされている」のだということ。「外」にいるひとたちと出会う機会は本当に少ない。自分から出ていかなければ、出会えない。
出会ったからいいことがあるかというと、不愉快な思いや嫌な気分になることのほうが多い。経験上そうだ。理解し合えない違和は不快なものだ。時間がない生活の中で、わざわざ不愉快な思いをするかもしれない「外」との出会いに時間を使う余裕なんかない。感情が動くことは、ものすごくエネルギーが要る。自分が「変わってしまう危険」だってある。
そのことを、無意識に知っているから、「外」に出会いや経験が待っていると知っていても(知っているからこそ)、それが良いものかどうかわからないし、良いものだとしても「エネルギーを消耗する」と感じて、出かけることを躊躇する。僕はそうだったんだな。

「みんなちがって、みんないい」って、道徳的表明としてはケチのつけようがないと思っているけど、感覚的には、
「みんなちがって、みんなイヤ」がフツウじゃない?と思ってもいた。

僕の場合は、実感として「本当にいろいろなひとがいる」と思えた時に、驚きとあきれと同時に「自由」を感じた。そして、「それはいいことだ」と心から思った。
なぜかというと、出会ったひとたちがみんな生きていたからだ。すごく違っているけど、みんな生きている。スタイルや考え方や反応やルールが違っているけど。何だ、生きているじゃんと思った。
僕が、これが正しい、こうじゃなきゃと思った範囲から外れていても、みんな生きている。その在り方を僕がいいと思うかよくないと思うかは、全く関係なく、それぞれに生きている。

なんだこれ?

と思った。
それが、一人や二人じゃなく、今年は、これまでになく「外」にいるひとたちと出会えたんだ。
その時は気がつかなかったが。「この人が」というのではなく「幅」が少しずつ僕を変えてくれた。どれだけ狭いセレクションされた範囲で、自分は暮らしてきたんだろう?と思う。
その範囲で、これからも生きていくこともできたかもしれないけど、たぶん必然に導かれた──というよりローリングストーンに巻き込まれてしまった小さなみみずみたいな感じで、今のこういう心持ちにいたってしまった。

「みんなちがって、みんなヘン」

ヘンなのは、よくも悪くもない。好きとか嫌い以前に、「違うんだ!」ってこと。いろんなかたちで生きている。それが自由。

すごくすがすがしい。

出来事がどうとかよりも、12月に、こういうことを書き綴る心持ちにあることが2013年が良い年だった証だ。