論理的であることによって損なわれるもの、失われるもの、忘れられるもの、見えなくなるものについて。

論理的でありたいと思って努力して考え続けて「論理的な結論」に達する。鮮やかな一筆書きのように一気に説明できる。その時できる死角(盲点)がある。
論者にとっては、自明な結論とそこに至る論理であるため、他の道筋とゴールが見えなくなってしまう(意識から消去されてしまう)のだ。

すると何が起きるか。「説明」が、「説得」になってしまう。(だって、正しいんだから!)

競走馬が目隠しされて一心不乱にゴールを目指すように、決定した論理の道を駆け抜ける。

イメージ。
生い茂った木を、刈り込んで剪定して幹だけにしたのが、結論とそこまでの論理。
切り捨てられた枝葉については、「切り捨てた」記憶があるからまだよしとしよう。

問題は、他の「木々」の存在だ。

一人の人の心には、木が一本生えているだけじゃない。様々な木々が、自由な形で生えているんだ、きっと。
だから、時として同じ人間なのに、真逆とも思える人間性の発露があったりする。それは、たくさんの異なる木々が共生しているから。ジャングルまではいかないが、里山ぐらいの群生はある。

けれども、一本の木だけ丹精こめて整えると、その木しか見えなくなる。自分の中にはこの木しかない! このまっすぐに筋の通った木しか!!

もう、見えなくなってるから、自分では気づけない。だから、他人が必要。対話することで、目かくしが外れる。

論理にこだわる人が陥りがちかも。
論理を、主義や主張に置き換えても同じかな。
自戒を込めて書いた。