昨日の記事(支援者と親の間に流れる川)は、やっと書けました。時間がかかりました。

無茶過ぎる願いですが、親は、無意識に支援者に「親代わり」を期待している。そこから来る温度差、ギャップが断絶を生んできた。

このことが明確に整理できたのは、わたしにとっては大きな気づき。

こんな無茶なことを親が願っていると、気がついていない支援者もいるかもしれない。ビジネスライクな人が増えてきているから。
だが、真剣に親と向き合い、支援者のあるべき姿を考えたことがあれば、このあまりにも重い「願い」に気づき、逃げ出したくなったことがあるだろう。

そこで、支援者が「私は親代わりにはなれないのです」とはなかなか言えない。
だから、書いた。

親としては、この気づきはつらいことであったし、書きあぐねたのもそれが理由だ。痛くて、つらくて。いったいどうしたら安心できるのか。そういうことを思いながら、迷いながら書いた。

こうやって、一度悟りを開いた気になっても、「親代わりを願う思い」は止められないものです。
だから、思いはあってもいい。それでも親側が、無限に支援者に期待することは踏みとどまろう。
支援者には支援者だからできることがある。それは、親と同じに、無限に責任を背負い込むことではないんだ。そういうことを伝えたいです。

そして、今度は、支援者が果たすべき「機能」について、具体的に考えたい。
その中には、カオス状態の親のむきだしの「願い」をどう受け止めるかについても、機能としてなければならないだろうと思います。

今回の記事は、まず一度「絶望」というか、あきらめることがスタートだよねという主張。
支援者は、ちゃんと考えてる。ちゃんと考えている支援者はいる。
だから、一緒に場というか機能を編み上げていこうよということです。