それは偶然だった。

たまにしか見ない、このブログのアクセス解析で、「愚痴、内省」で検索した方が「愚痴と内省」という過去記事を訪問されているのを見つけた。

ふと、何が書いてあったかを確かめてみたくなった。

・愚痴と内省
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/50743471.html

2006年9月の記事だった。なんの愚痴だったか、今となっては全く覚えていない。ただ、この時の情景と記事を書いた心の手触りを覚えている。
話終わった後ひとりになって考えて、「一方的な糾弾をしすぎている」自分を見つけた。相手にだって「良い面」や「言い分」があるはずなのに。

そして気づく。「おれは愚痴を言っていた」と。

周囲の不当さを訴えていたつもりが、言葉にして話してみたら、ひたすら自分を正当化し成果があがらないことの責任を他人に押しつけようとしていた。フラストレーションの源は、力不足で変化を起こせない自分自身にあるのかもしれないのに。

愚痴だと自覚した瞬間、気持ちがスッキリとした。自分の未熟さが可笑しくなった。愚痴のイガイガを取り除いたら、そこに内省があった。

そして、驚いたことに、市毛さんからのコメントがそこにあった。
1. Ichige 2006年09月11日 11:12
あぁ、俺もこの歳になってもやってるようなぁ、こういうこと。愚痴と内省……我が身に沁みて読ませていただきました。こういう時、H.Suzukiさんみたいな人がいてくださるって、ありがたいですね。なるほど、煙突か。俺も欲しくなるな、そんな煙突みたいな人。……でも、カイパパの自己表白って、自己にとどまらないで、周りに波及していく不思議な力を持ってるよね。

今年遠くへ旅立たれたぶどう社の市毛研一郎さん。市毛さんは、「毎朝カイパパ通信を開けるのを楽しみにしています」と言ってくれていた。けれども、コメントをつけることはまれだった。トータルしてもたぶん5回くらいだったんじゃないかな。

このブログも12年目に入った。書き綴られた記事たちといただいたコメントがあの瞬間のつながりを空気といっしょに保存してくれているよう。

『ぼくらの発達障害者支援法』をつくっている間、市毛さんはぼくのメンターだった。たくさんの煙を吐き出させてくれた。人生でいちばん成長できた時期だった。ぼくは、このコメントをもらって、そう伝える機会があったのに伝え損なった。その後も、あいかわらず「煙」ばかり吐いて、感謝のきもちを十分に伝えることはしなかった。
言葉にならず胸にうずまく思いは、見えない煙。
愚痴は黒い煙。
煙を出せば「あそこでくすぶっている愚か者がいる」と見つかってしまうが、それをおそれて吐き出さないでいたら窒息してしまう。

愚痴を吐いて吐いて吐きまくって、煙が晴れてようやく自分がみえてくる。
かっこつけず、いい子ぶらずに、「愚痴が始まり」でもいいんだ。

煙を出すには煙突がいる。
メンターは煙突。
煙突はただ「通す」。
煙が空に上がっていけるように。

本当は、市毛さんも煙を吐き出したかったのに、ぼくはじぶんがその聴き手になろうとは思いもよらなかった。

市毛さん、ごめんね。

ぼくはこれからひとの話を聴く人間になりたいと思う。アドバイスとかガイドとかそういうのじゃなく。
耳を傾け、いっしょに面白がったり、怒ったりする、あなたのように。