人間は生身の存在だから、常に壊れ続け、それを補う修復と回復を必要としている。
エネルギーは失われ、細胞は死に、器官は摩耗する。
だから、食べて、寝て、細胞をつくり、再生する。
痛んだ心は、そのままにせず、やわらかく包みこみ慰撫が必要だ。
生命の危機が近づくと、熱がどんどん奪われていく。冷えて、こわばって、動けなくなる。温めないと。
温かい食べ物、おふとん、お風呂。
脆さとか弱さとか。ひとりの人間の生身の限界を前提として、仕事や生活を考えて、制度をつくっていかないといけない。
14時間労働、3か月間休みなし。だとか。人間は機械ではないから。傷つき壊れてしまう。
そういう至極まっとうな指摘が、逆に新鮮に思えてしまうじぶんも、身体性を失ったグローバリズムに洗脳されているのかも。
『脱グローバル論』を読んでの感想。
・216ページ 内田樹
・218ページ 内田樹
脆さとか弱さとか。ひとりの人間の生身の限界を前提として。周囲からしたら「問題があるひと」で「なんでそんなことしたの?」とか思われてしまう場合でも、血縁や地縁のある「現実の身内」には見捨てられても、なお、「まぁ、しょうがない。なんとかしよう」と見捨てず手を差し伸べてくれる存在。
「身内」を極限まで拡大した「家族」的国民国家なんてきしょくわるい、と思ってきたけれど。人生、弱さを抱え、個人ではなんともならない、崖や落とし穴に落ちる現実がある。「助けて」とすがれる、「しゃあない、おまえは国民だから」と無条件で手を差し伸べてくれる国であってほしい。
胸苦しいニュースを、見ながら思う。
エネルギーは失われ、細胞は死に、器官は摩耗する。
だから、食べて、寝て、細胞をつくり、再生する。
痛んだ心は、そのままにせず、やわらかく包みこみ慰撫が必要だ。
生命の危機が近づくと、熱がどんどん奪われていく。冷えて、こわばって、動けなくなる。温めないと。
温かい食べ物、おふとん、お風呂。
脆さとか弱さとか。ひとりの人間の生身の限界を前提として、仕事や生活を考えて、制度をつくっていかないといけない。
14時間労働、3か月間休みなし。だとか。人間は機械ではないから。傷つき壊れてしまう。
そういう至極まっとうな指摘が、逆に新鮮に思えてしまうじぶんも、身体性を失ったグローバリズムに洗脳されているのかも。
『脱グローバル論』を読んでの感想。
・216ページ 内田樹
国民国家というのは、親族を地域共同体、さらには国家という量的・水平的に拡大していった制度ですけども、幻想的には「拡大家族」です。国民たちは幻想的にも「一家」を形成している。だから、この列島に住む1億3,000万人をどうやって食わせるか、つまり、幼児や老人や病人や働きのないなまけ者を含めて、身内をどうやって食わせるかということが国民経済の根本的な発想になる。確かに国民国家は古めかしい制度ですし、政治的幻想ではあるんですけれども、いいところもある。それはこの政治的幻想が生身の人間のサイズ、生身の人間の寿命、生身の人間身体能力というものを勘定に入れて制度設計されているという点です。人間をモデルにして、制度が構築されている。生きてせいぜい80年、1日に8時間は寝たい、1週間にせめて1日はオフが欲しい、飯は三度食いたい、たまには温泉にも入りたい、そういう生身の人間の欲求や言動を基準にして、社会システムができている。
それに対して、グローバル資本主義は「人間じゃないもの」をベースにして、制度を作る。「人間じゃないもの」と言うより、「一時的にならなれるけれど、長期にわたってそうであることはできないもの」と言うべきでしょうか。時給800円で、1日14時間働いて、3カ月間休みを取らない労働者とか、あれもこれも人が持っているものは皆欲しがって、一生かかっても返せない借金を抱え込んでも買い物をする消費者とか。そういう人ばかりでできている世界のグローバル資本主義の理想社会のわけです。だから、そういう社会を目指して社会改革を推し進める。でも、生身の人間は、80年間そういうふうには生きられない。どこかで倒れてしまう。
・218ページ 内田樹
まず食わせなくちゃいけない身内がいて、彼らを食わせるために仕事を作り出す。そういう順番で平川君は考えていた。生産性とか効率とか利益率と違うところで、人間は経済活動や企業活動を行うこともある。それを支えているのは、身内という概念ですよね。身内というのは、ずいぶんと曖昧な概念であって、どこからどこまで身内に含まれるのか定かじゃないんですけれど。頼ってくる奴がいると、とりあえずそれは身内である、と。たぶん国民国家では伝統的にそういう考え方をしてきたんじゃないでしょうか。腹を減らして奴がいたら、とりあえず食わせてやろうよ、と。そういう惻隠の情があらゆる制度設計の根本にあった。
脆さとか弱さとか。ひとりの人間の生身の限界を前提として。周囲からしたら「問題があるひと」で「なんでそんなことしたの?」とか思われてしまう場合でも、血縁や地縁のある「現実の身内」には見捨てられても、なお、「まぁ、しょうがない。なんとかしよう」と見捨てず手を差し伸べてくれる存在。
「身内」を極限まで拡大した「家族」的国民国家なんてきしょくわるい、と思ってきたけれど。人生、弱さを抱え、個人ではなんともならない、崖や落とし穴に落ちる現実がある。「助けて」とすがれる、「しゃあない、おまえは国民だから」と無条件で手を差し伸べてくれる国であってほしい。
胸苦しいニュースを、見ながら思う。
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