1月28日に「あいち人権講座」での湯浅誠さんの講演を聞きに行ってきました。
湯浅さんは、草の根ささえあいプロジェクトができるきっかけをつくった人。この4年間様々なかたちで関わってくださっているわたしたちの「アニキ」的存在です。

昔は笑顔の写真はない戦闘的なイメージだった湯浅さんでしたが、イメチェンをして、イメチェン後の講演を聴くのは初めてだったのですが、語り方を変わっていました。聴衆の反応を見ながら、やさしく、わかりやすく、笑顔を見せながら語ります。まるで漫談みたい? 別にギャグを言うわけではないのですが、人柄が伝わってきて、じんわりと心があたたかくなります。

テーマは「人権」でした。「人権って、どこかにかわいそうなひとがいるから、みんなでやさしくしましょうってものじゃないですよ」と湯浅さんは言います。どういうことでしょう?

とても響いたお話を、みなさんにもシェアします。脳みそテープをもとに報告しますので、文責はカイパパにあります。

◆映画「みんなの学校」の紹介
 まず、湯浅さんイチオシの映画の紹介から始まりました。
 大阪市にある大空小学校では、全ての子どもたちが同じ教室で学ぶ。様々な困難を抱えた子どもたちが、周りにどんな影響をもたらすかを紹介している。示唆に富んでおり、ぜひ観てほしい。
(名古屋での上映は、3月以降にシネマテークにて。)

・みんなの学校
http://minna-movie.com/

 なぜこの映画をおすすめするか。湯浅さん自身の体験にそくして語られました。

◆湯浅さんのお兄さんのお話
 お兄さんには障害がある。子どもの頃は歩けたが、成長するにつれ筋肉が衰えていった。立てなくなった。
 お兄さんが子ども同士の草野球に参加したときの話。お兄さんは車いすで打席に入る。代走がホームベース近くに控えていて、お兄さんが打ったら代走が走る。ピッチャーは3メートル近づいて、下投げで投げる。お兄さんが参加できず、ただ観ているよりも、仲間に入れて一緒に遊んだほうが楽しい。だから、ルールを変えることで、お兄さんも参加して楽しめるようにした。
→子どもは、目の前にあらわれた課題を自分たちで解決する。

「野球のルールブックに書いてあるから」と決め付けてしまったらできないこと。
お兄さんがいることで、当たり前を当たり前と考えず、ルールを見直したり、新しく作ったりすることができた。

障害がある子が入ることで、みんなで考える。授業で学ぶのとちがって、その中を「生きる」ことで学ぶ一例。どうやったらうまくいくか? 正解がないから、その都度学びなおす。

学校に限られない。地域や職場、サークルでも同じ。「困った人」はどこにでもいる。「困った人」は実は「困っている人」。「困っている」ままにせず、乗り越えていく、新しいルールをつくれるか?
色々な人がいて、色々な人の多様性をつつみこむような地域は強い。
人権は、「かわいそうな人がいるから、みんなでやさしくしましょう」というものではない。自分の問題として向き合って、いろんな人がいろんな対応力を持っているヴァリエーションを増やしていく。それが、人権のまちづくり。

<2015.02.05追記>
このあたりのお話を、湯浅さんご自身がお書きになっています。

・社会活動家 湯浅誠:「身体で学ぶということ」毎日新聞「くらしの明日」に寄稿(2月4日掲載)

◆新人の生活相談員のお話
 湯浅さんは貧困に悩むひとたちの相談支援にずっと関わってきた。新人の生活相談員さんのお話。新人は、通りいっぺんの対応しかできない。すると、相談に来た10人のうち2〜3人は相談に来なくなってしまう。これをどう解釈するか?

Aさんの場合:「本当に困ったらまた来るでしょ。相談に来ないのは何とかなったんでしょ」(相手の問題)
Bさんの場合:「相談の時、別の言い方ができたら結果がちがったかもしれない」(自分の問題)

Bさんは、そこから改善の努力を始める。試行錯誤して、ある時相談者に「伝わった」という瞬間が訪れる。「わかった!!」と相談者の顔の輝きが変わる。⇒Bさんの自信がつく。Bさんからは、「大丈夫だオーラ」が出てくる。そうすると、相談者もBさんに対しては心を開きやすくなる。

一方のAさんは、「相手の問題」だから努力をしない。いつまで経ってもうまくいかない。Bさんの成功を見てなんというか? 「Bさんは相談者に恵まれている」。……あくまでも、「他人のせい」なんですね。

【課題を抱えた人を目の前にして】
 「自分が対処できる」と思う人(Bさんのように)
     ↓
 対処するため「考える」「工夫する」
     ↓
    成長する

一方、Aさんのように
「対処できないから排除する」と思う人
     ↓
解決できないという不安
     ↓
(1)キレる。or (2)見なかったことにする。

排除を続けると…
 「困った人」は「さらに困った人」となり、ついには「手のつけられない人」になってしまう。
 みんな本当は知っていた。見て見ぬふりをしてきた。向き合えなかった。

◆東日本大震災の被災地でのお話
 被災者は最低3度コミュニティーを壊されている。
 (1)避難所へ入るとき→(2)仮設住宅に移るとき→(3)復興住宅に移るとき。
 この過程は、わかりやすくいうと「だんだん壁が厚くなる」。プライバシーの面ではうれしいこと。しかし、関係が希薄になることも。だから、「壁に負けない関係づくりを」と言われている。

 では、心のケアのために、何ができるか?
 精神科医がカウンセリングで役に立ちたいと被災地に入りました。「何か相談したいことはありませんか?」と呼びかけても、誰も来なかった。「困っている人はいない」ということ? そうではない。心の相談をすることへの抵抗感があるのだろう。
 そこで工夫を考えた。

⇒齋藤環さんの例
 「医者です。血圧測定をします」と呼びかけた。
 血圧計は、古い機械を持っていった。しゅぽしゅぽして、測る時間がかかる。その間に話をする。

⇒足湯サービスの例(学生ボランティア)
 足湯はツール。1クール=15分間。ボランティアはその間話しかけることができる。気づいたことは書き起こされて、地域や行政に届けられる。

「大丈夫ですか?」と聞かれて「大丈夫です」としか答えられないのが多くの人。本当のことを話してもらうための工夫が必要。

◆「声なき声」をひろう工夫をする
「ひろえっこない」とか「声がなければ困りごとはない」という開き直りでは、問題は問題のまま沈降する。
 状況に合わせて、ルールやツールを自分たちで考えて作り出して、問題解決していく力。そういう力を備えた地域は強い。それが、人権のまちづくり。

◆感想
じぶんたちで、ルールやツールを考えてつくりだして解決していく──実は、この「じぶんたちで変えていいんだ」と思えないところが、一番の障壁だったりします。
「これは行政のやること」であったり「前例があるから変えられない」であったりと「じぶんたちで」というところに頭が行かない。でも、まちの主人(オーナー)は、わたしたち自身なんですよね。

平易なことばで、「オーナーシップ」や「エンパワーメント」のことを、語っているんだなぁ。
「たしかに、そういうまちのほうがいいな」と自然に思わせる語り。聴く気持ちにさせる話し方。これまでは届かなかったひとたちのところへ届かせようとしているんだと思いました。