虐待の加害が「できてしまう」理由について考えている。

・FNNニュース:山口・障害者施設虐待 内部告発の男性、市の対応の遅さ指摘
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00294475.html

下関の障害者虐待の加害者がテレビのインタビューを受けている映像を見た。虐待などに身に覚えはない、と否定してたのが、映像を見せられて、男は
「(これは、ご自身では?)そうですね。すみません。(だいぶ強い口調だが、これは虐待?)そうですね。本人、僕ですね。(これは虐待では?)なりますね」と話した。

証拠を見せられて、あっさりと認めて「すみません」と言う。テレビのインタビューという非日常な状況で、映像を見せられて答える姿は、あまりにも無防備だった。否定できない証拠があるとわかり、あっさりと認めていた。叩くことが「悪い」ことだと、思ってはいるのだろう。それなのに、なぜ?手が出るのか。

怒号、罵声を浴びせ、崩れ落ちるほど強く平手打ちをする、威嚇して恫喝する、「暴力指導員」は、テレビカメラの前では普通の人に見えた。わたしの中で、そのギャップがもやもやしている。

障害がある人に暴力を振るうことは、「抵抗感」があるはず。そこを踏み越えていくきっかけ、動機、反復される理由が気になる。暴力を「正当化する理屈」がなんなのか?そこを、照射して明るみに出さないと、再発防止はできないんじゃないかと思う。