言い残しておくこと
鶴見俊輔
作品社
2009-12-16


今日読んだ本。
鶴見俊輔さんのことは気になりつつも、今までちゃんとその軌跡を読んだことがなかった。

・鶴見俊輔氏死去 万引き・退学…小学校卒でハーバード 行動派知識人

『言い残しておくこと』は、これまでの鶴見さんの著作やインタビューをもとに、人間形成(生い立ち)、行動とその理由、交友関係などについてまとめられています。亡くなった今この本を読むと本当に遺言として語りかけてくるような感じがする。

印象に残ったのは、母親との関係。「でかい家、裕福な家の子どもは必ず悪人になる」という信念を持つ母親に、殴られ「お前は悪い子だ」と徹底的にダメ出しをされ続け、育てられた。
私にとって、おふくろはスターリンなんです。彼女が正義も道徳も独占している。 p.13

私はゼロ歳のときから、おふくろに殴られながら、「おまえは悪い人間だ」といわれつづけた。だから、自分は悪い人間だ、というのが私のなかに生じた最初の考えなんです。 p.14

当時私はまだ言葉をもってないから、おふくろに言い返せない。そこで行動的に抵抗するんだよ。つまり悪い人間として生きる。この流儀は、85年の間通していて、全然ブレない。それが、私の信仰といえば信仰でしょう。 p.14

一生分、愛された。それは、窒息しそうな経験だった。 p.20

これは──「虐待」ですよね。
鶴見さんはそこから逃れ生きのびるために、不良になった。自殺願望が常につきまとっていた。

母親がどう鶴見さんの人間形成に影響を与えたかを示すくだりがある。

キリスト教も、イスラームも、マルクス主義も、ウィメンズ・リブも、You are wrong (おまえが悪い)と迫る思想に対して──
私はI am wrong だから、もしそれらから「おまえが悪い」といわれても抵抗しない。この対立においては結局決着はつかないんですよ。私がYou are wrongの立場に移行することはないし、You are wrongは私の説得には成功しないから。p.15

これはどういうことか?

教義や主義が「正しい」とするものに拠って、「おまえは間違っている」とジャッジして批判をしてくる。だが、あらかじめ「自分が正しいとは思っていない。私は悪い人間だ」と認める(=居直る)ことで、あらゆる宗派が持つ「正義」を無効化できる──ということかな。

一方、I am wrongの人間である以上、他人に対して「正義」の押し付けをすることができないという歯止めとしても働く。

そのことは、鶴見さんが中心となったベ平連(wikipedia)の運動にも反映されていたようだ。
そもそもベ平連というのは、ファリブリズム、まちがい主義なんです。このファリブリズムという言葉、もともとはプラグマティズムの創始者の一人、チャールズ・パースがつくったもので、まちがいからエネルギーを得てどんどん進めていく、まちがえることによって、その都度先へ進む、それが何段階かのロケットにもなっていくわけです。 p.121

この運動論は、今の安保法制反対運動にも通じている話だと思う。

この本は、どの部分をとっても、傾聴に値し、いろいろな人と話し合ってみたいと思うことばかりなのだが、わたしにとって新しく目を開かれたことを引用しておく。
わたし個人の目標は、戦争中は自分の問題なんで、「殺せ」という命令が下ったときに、それを拒む人権なんだ。日本での良心的兵役拒否の問題につながる、一種の石を打っているつもりなんだ。だけどいまのところ人権が、そっちのほうほ人権にいかない。バラバラになっているんだ。だけど、百年、二百年のなかには、自分の命を守るということと、人を殺さない権利を持つということとは合流せざるをえないと思うんだ。この二つは人間の人権としては一つの輪になっているはずなのに、いまのところはバラバラ。 p.293

日本は戦争裁判というのを受け入れたんだから。そう考えれば、あれの論理的な系としては、自分が不当と思う戦争については、自国の命令についてでも、個人は拒否する義務があると。それが論理的な系なんだ。そうでなければ戦争犯罪人なんてありえないじゃないですか。
 p.295

(戦争裁判のときのレーリングという最年少のオランダの判事が)いまの説を、東京裁判の国際シンポジウム(1983年)で出したんですよ。つまり、「戦争裁判を認めるということは、個人が自分がよくないと思う戦争に対しては、自国の命令に対しても断る義務がある」と。つまり権利というのはなくて、義務というのがあると。そこが重大なんだな。 p.295

この思想を、戦後70周年の今日、読めてよかった。