昨日の『言い残しておくこと』紹介記事をFacebookでシェアしたときに、わたしが書いたコメントを載せておきます。
・人を殺さない人権は、国家から人を殺すことを強制されない自由として構成可能だと思う。

・戦争犯罪人を認めることは、命令であっても拒否する「義務」があるとしなければ理が合わない。

→そして、殺さない人権を認めることは、国家が戦争を遂行することを不可能にするところまで行き着く可能性がある。根源的な転換をもたらすんだ。

「戦争に行きたくないのは、自分勝手」という論が一定のアピールを持つとしたら、それは「国家の命令で人を殺す義務」を想定しているからで、鶴見さんの主張はその真逆をいっている。
わたしは、殺さない人権を支持する。

もう一箇所『言い残しておくこと』から引用します。
なぜ人を殺すのはよくないかというと、たとえ反戦運動にしても、殺すという暴力を容認すると、自分たちの仲間に対する一種の暴力的な支配が出てくる。自分の思想を暴力に拠って守り押しつけるというところまでいくのに歯止めがなくなっちゃうと思う。わたしはそれが嫌なんです。

敵を殺してもいいという考え方は、結局は味方そのものに対しても暴力的になってくる。また自分に対して暴力的になっていく。自己欺瞞を暴力によって支えて、自分のなかに生じる疑いも全部暴力的に圧殺してしまおうというタイプになりやすい。その意味で暴力は否定していきたいという気持が強いですね。

敵に対する暴力は結局仲間に対する暴力的支配につながり、自分個人に対する暴力的支配につながる。 p.290

「敵」というのは戦争の敵に限られない。主義の敵、思想の敵、運動の敵、信仰の敵……すべての敵に対して、「敵だから殺してもいい」と容認したらどうなるのか? 

実は、「敵」の範囲は自明ではない。思想には幅がある。運動には方針・やり方に幅がある。信仰には解釈がある。何でもそうだ、「正しい」としたものから外れたものは「敵」認定できる。それが、仲間であっても。自分であっても。

「敵を殺してもいい」=「存在を抹殺してもいい」の逆のいき方を考えてみたい。
困難かもしれないが、そっちのほうが多様で、生き生きと命が繁茂するような、そういういき方がいい。
言い残しておくこと
鶴見俊輔
作品社
2009-12-16