昨日のプロジェクト部の教育班のキックオフで、教育班リーダーの花島さんが「教育座談会」とネーミングしたことには意味があると思いました。

教育に関しては特に、みんな色々な経験をしてきている。挫折のなかった人はいないと思います。
だから、とてもセンシティブで、かんたんに本音を話すことができません。
「困っている」とか「こうして欲しい」とか、口にだすこともいけないんじゃないか?とまで思っている場合もあります。

「子どもを人質に取られているから」という言葉を、親同士で話しているときに、よく聴きます。

この言葉が、親の心理を象徴しているように思います。
つまり、「親が親として思っていることを自由に言ったり、行動することができない」という囚われている感覚です。

コミュニケーションが妨げられている状態に長く置かれていると、自由な心の表現がしづらくなってきます。「言ってはいけない」という禁止が、自らの中に規範として「内面化」されていくからです。

だから、「教育を良くするためにアクションを起こす」前に、この「言ってはいけない」という自らがかけてしまった鍵を解錠しなければならないのだと思います。

そのためには、テーマも「願うこと」といったふわっとしたものにして語り合ってみる場がこわばりを解くためにとても意味がありますね。茶話会や座談会のようなものを、何度も積み重ねていくことで、自由な話し合いができるようになっていけるでしょう。そうなれば、本来もっていた「力」が発揮できるようになると思います。

わたしがやりたいこと、果たしたい役割は、こういうエンパワメントなんだな。それは、ずっと変わりません。昨日も、会の最初とくらべて明るくなったみんなの顔をみて、感動をしていました。この人は、こんな表情で笑うんだなとか。変わるんですよね。

次回の開催も楽しみです。