・「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって 前田拓也 / 社会学
http://synodos.jp/info/17888

この記事を読んだ。社会学者へのインタビューで構成された記事。的確で適度な距離感があって、読んで頭の中が整理された。
「障害者役割」とは、ある社会関係のなかで、障害者が暗黙のうちに周囲からそのように振る舞うことを期待されている役割を指す概念です。言い換えれば、社会のなかで暗黙につくりだされていく「障害者らしさ」「あるべき障害者像」のことだと言ってよいでしょう。

社会学者の石川准さんは、「愛やヒューマニズムを喚起し触発するように振舞うこと」「愛らしくあること lovable」「”障害を補う” 努力を怠らないこと」だとしました(石川 1992: 118)。

もうずいぶんと長いこと、「24時間テレビ」的なものへの違和感、嫌悪について、自分の周りでは話し合われてきたのだけれど。
「感動ポルノ」というキャッチーなキラーフレーズが生まれたこととバリバラが風刺をしたために、今年はこれまでで最高に批判的言説があふれた。

僕は一応そういう議論を眺めながら、なんとも言えない憂鬱な気持ちにとらわれていた。以前のように、持論を打つようなことはしたくなかった。ただ、かなしい、切なくなる感情の中にありました。
7月のあの事件の影響下(ダメージ)にずっと置かれていたこの夏だったせいもある。

「差別」はつよい言葉だけれど、少なくとも「偏見」は根強く広くあって、それが「壁」をつくる。壁ごしに、障害者を「みる」一番ポピュラーな手段が24時間テレビで。
「障害」を「乗り越えて」「努力して」「夢」を「かなえる」という全てに地雷が埋まっているようなコンセプトのもとに制作された番組は、「感動」「しろよ」と「強いてくる」。

映し出されている人は、本当にうれしそうで。個人の喜びや幸せを、良かったねとおもう。
だけど、いくつも重ねて繰り出される番組構成を見ていると、確かにある特定の「あるべき障害者像」が、これでもかと刷り込まれてくる。そして、僕は疎外感を感じる。