少し早いですが、今年のしめくくりのごあいさつをさせていただきます。

2016年は個人的には身体の調子も回復し、良い年でした。このブログでも、出会ったことのない方々とも有意義であたたかい交流ができたことに感謝しています。ありがとうございました。

今年7月に起きた「相模原事件」のことについて触れないわけにはいきません。思いつくままに並べていきます。

・直後に起きたメディアによる「犯行動機」のたれながしによる心理的な追い込みが起きた。
・リオオリンピック後、ぱったりと止まった報道。NHK以外で取り上げるマスメディアはなくなった。
・隔離された特殊な場所で起きた、特殊な傾向を持つ人が起こした特殊な犯罪、としてメインストリームの中では忘却のかなたに流されていくことで決まったように感じる。
・「名前を持たない」人たち。「存在」を奪われたようだ。個人として、悼むことができない。
・街を歩くことに恐怖を覚える、身の危険を感じるようになったという当事者の思い。失われた社会への信頼・安心感。この事件は、加害者、被害者の範囲が、自然に拡大していくようなおそろしさがある。
・事件は固有・個別の物として語られるべき。同時に「社会」に敷衍して語られなければならない。なぜ?
・タブーがタブーでなくなる時、かろうじて残っていた「規範」が消失する。偏見・差別に基づく憎しみが表舞台に出てくる。犯罪行為ではなく、政治的な主張として立ち現れ、それが「排除を正当化する」統合(皮肉)の旗印になったら?
・当事者団体、親の会などからあがった意見表明は、事件(報道)へのカウンターとなって傷ついた心を癒やした。社会の「傾き」を修復する機能を果たした。
・「良識」や「規範」を、もう一度語り直すべき。だが、この土俵にあがること自体が苦しい。

あの事件が起きた日から、頭にもやがかかったようで不調が続きました。夏の間ずっとでした。秋口になってようやく心身の調子がマシになってきて、「物が考えられる」ようになったと思って、初めて不調に気づきました。わたしごときの心身の不調など、どうでもいいことではありますが、いったいどれだけの人たちが動揺し、傷つき、失われた時間を過ごしたのだろうか……そう想像したりします。

まとまった論考をすることは未だできません。傷ついているのだと思います。

「人は許すことなんかできない。ただ、忘れるだけだ」そう聞いたことがあります。
わたしが3か月経って調子が回復したのも、単に「忘れた」からにすぎないのでしょう。

特殊な場所で起きた、特殊な傾向を持つ人が起こした特殊な犯罪。わたしもそう思いたいのです、心の底では。自分の周りでは決して起きない。降りかからない。社会は安定したまま揺るぎない。

「障害の有無にかかわらず
 国民が相互に人格と個性を尊重して
 安心して暮らすことができる
 地域社会」 
(障害者総合支援法第1条より抜粋)

普段ならこんな「お題目」に心を動かされることもないのですが、しがみつきたい。切実に大事にしたい。
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<追記>
──先ほど、名古屋市緑区で起きた「心中」子殺し・自死事件のことを知りました。

ここでくだくだしく御託をならべること自体が──障害のことを、深刻なネガティブなものとして流通させてしまっているのかもしれませんね……

逆に、「こんなに幸せに生活しています!」なんてアピールも、まぶしくて弱っている人を、かえって追い詰めているかもしれない……

何もかもが無意味に思える。

無力だ。


人が人としてありのままで尊重される
生きることは、誰のゆるしも必要ない
「おたがいさま」で生きていこうよ

ころさなくていい
しななくていい
いきていこうよ

お願いだから