カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル

〜自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界!〜

ノーマライゼーション、チャレンジド

自閉症を町の人が知っていたら

わたしは、カイパパFacebookページもやっていて、気に入った記事を紹介したり、日々の想いを気楽に書き留めたりしています。
先月書いたある投稿が、わずか3日間で1万人以上に見られるという"事件"がありました。Facebookでは記事がシェアされたり、いいね!されることで、容易に拡散がされると聞いていましたが、その勢いには本当に驚きました。

その投稿は、ブログ「自閉症児 渡の宝箱」の記事、

・自閉症児 渡の宝箱:自閉症の子供がレストランに来たらどうするか?アメリカの警察恐るべし
http://d.hatena.ne.jp/kuboyumi/20140416/1397793621

で紹介されていた動画に関して書いたものです。カイパパ通信にも残しておきます。

この動画は、アメリカのテレビ番組で、町の中で、役者(仕掛け人)を使ってシチュエーションをつくり、周囲の人々の反応を観察する番組です。以前にも、障害を取り上げた回をいくつか見たことがあります。リアルな実験なので、複雑な気持ちになることも多い番組です。



今回の実験も、同じような経験(レストランで大きな声を出してしまったり、風変わりな行動をとってしまったり)があり、人目が気になったり、あやまって回ったりといったことが日常的にあるので、ハラハラしながらみました。

しかし、その結果に、感動しました。レストランにいた町の人々みんながすごかった。
警察官だけではなく、ごく普通の人々が勇気を持って、自閉症をもつ少年、家族を守ろうとしています。

この映像の中で、警察官が、"compassion"という言葉を使います。「同情の気持ちがある」と訳されています。語源は、ラテン語で「一緒に苦しむ」の意だそうです。日本語だと「気の毒に思う」に近い気がします。私は、この感情が、障害をもつ人々を受けいれるカギだと思っています。

障害特性の詳しいことまではわからなくても、何かしらの困難を抱えていることがわかった時、気の毒に思い、自らもその痛みを感じる。そういうcompassionは、赤の他人でも感じることができる。

ラストで女性がインタビューに答えています。彼女は、自閉症の少年の母親で、「昔自分が息子を連れて外食をした時の周囲の無理解と比較して、今回の実験での町の人々の受けとめ方のあたたかさに感動をした」と言っています。「自閉症の理解を広める活動の成果が少しずつ浸透している」と。

何も活動がされていなかったら、変化はなかったことでしょう。小さな積み重ねが継続して、町の人を変えていく。

日本も、きっとこうなります。

熊谷晋一郎氏インタビュー:自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと

昨日レポートを書いた集まり「精神・発達障がいによる社会的孤立を地域でどう支えるか?」に参加して、「自立」と「依存」について深く考えました。このことを考えるとき、必ず思い出すフレーズがあります。

自立は、依存先を増やすこと

熊谷晋一郎さんのこのインタビュー記事は、何度もくりかえしシェアしたいです。
「自立」について、わたしのなかでモヤモヤしていたところに光が差した気がしました。
人間観が変わるような本当に大きな影響を受けています。

・熊谷晋一郎氏インタビュー:自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと
http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/56/jyoho56_interview.htm
 一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。

 東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。

 これが障害の本質だと思うんです。つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。

 実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。

このインタビュー記事は、去年の秋に出て、わたしの周りで、話題になりました。

「当事者主権」のごりごりした主張とはちがったアプローチで、自然にうなずかされる。自分自身に引きつけて納得することができる世界観です(「わたしが自立している」といえるのは、あの人にもあの人にも、あの場所にも、あの組織にも、依存しているからだ)。

今一度噛み締めて、カイのために、仲間たちのために、何ができるかを考えたい。

【ミーム】言葉は「自らを語れ」と命令する

思考するとき、「言葉」を使って考える。
結果まとまったアウトプットは「言葉」の形をしている。
ひとりでノートに書き留めておけば済むこと。
でも、なぜか、他人にも聞かせたくなる。なぜ?

「言葉」は、他人とのコミュニケーションのために生まれてきた。
「言葉」には、宿命的に、他人に聞かれたい衝動が内在されていて、宿り主である人間を衝き動かすのだろう。

ひとり胸の中にしまっておくことは「意味がない」とかではなくて、「耐えられない」。
摩擦や衝突が予見できてもなお、「自らを表出せよ」、と「言葉」が命令するからなのか?



これは、ミーム(wiki)のことを語っている。

まとまらないが、書いておく

2011年にブログ更新を再開してからの、スタイルは──

・書き溜めしない。
・その場で書いて公開する。

です。

心構えとしては、

・記事の完成度は気にしない。
・文体は気分によって変える。
・即興性を楽しむ。

といった感じ。

「ブログ=自ログ(自分のための記録)」であると悟ったので、肩の力が抜けました。

このスタイルは、いいんだけど、「もうちょっと、しっかりとまとめて論じたいなあ…」と思う時もあるのですが、その欲求に応えようと思うと、どうもバランスが崩れるみたい。
中途半端でも、物足りなくても、とりあえず、ちょこちょこ書いておくほうがよいみたい。
(その結果、ずーっと、論じきれずに、頭の片隅で考え続けているテーマ、のようなものが、いくつか溜まっているのですが、まあ、ブロガーなんで。そういうもんですよね)

で、今日メモっておこうと思ったのは。

・Togetter - 「乙武洋匡「僕は、カタワです」」
http://togetter.com/li/152112
2011/06/20 22:35:12
6.相手を傷つける言葉を言っちゃダメ。そんなの当たり前。小学校で習ったでしょ。でも、相手がどんな言葉に傷つくかは千差万別。その関係性から探っていくしかない。そこに思いやりが生まれ、ひょっとしたら愛が生まれる。でも、対障害者には、初めからオールNG。「探っていく」が飛ばされている。

2011/06/20 22:48:22
7.障害者だって、一律じゃない。言葉に無頓着な人もいれば、傷つきやすい人もいる。差別用語って、そんな当たりまえの前提を無視した決めごとのような気がして、僕は好きじゃない。一人ひとり、目の前の相手を見て、感じて、言葉を選ぼうよ。そんなの、相手が健常者だって、障害者だって、同じだよ。

2011/06/20 22:52:58
8.だからね、僕に対して、一見失礼に見えるリプを飛ばす方々に対して、「失礼だ」と目くじらを立ててくださる方がいるけれど、あれ、アリなんです。僕に対しては。みんなも、わかってやってる(方がほとんど)。だからと言って、他の障害者に対して、そんな言葉をかけていいわけではない。人による。

2011/06/20 22:57:31
9.ああ、書き過ぎた。連投ごめんなさい。でも、ええと、僕は「カタワ」です。「カタワ」で、「障害者」で、「障がい者」です。何でもいいです。どうでもいいんです。そんな呼び方――そんなふうに思っている僕のような障害者もいる。そんな言葉に傷つく障害者もいる。そんなことが理解いただけたら。

まず、思ったのは、「乙武洋匡であり続けることは大変だなあ」ということ。

また、乙武さんが『代弁』している(と思われる)ことと、
人々の根深い『偏見』(えーっと、ここでは「口にしてはいけないこと」だと「心に思っていること」だけど「全くの勘違いかもしれない」とも思いつつ「なぜ自分はこんな微妙な感情を抱いてしまうのだろう?」というモロモロを『偏見』と名づけておきます)
を、丁寧に『接続』して、考える必要があるよなあと思います。

あわせて、この記事を載せておきます。

・評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」:世界のナベアツの悲しみと楽しみ
http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/e/8de3067439cf04d7f9f6ce7ffcf890fd
ただし、たとえば障害児や障害児の親が不快な思いをするから、ナベアツはこのネタを封印すべきだとは思わない。
言葉や表現を狩っても不毛であり、一人一人が持っている差別意識を忘れさせているに過ぎない。問題は意識自体の方にある。不格好だとする対象を笑いたい意識は心の中にあるのだから、せめて、それを忘れないことだ。表現を封じて、意識を忘れようとすることの方が醜悪な場合がある。程度の問題でもあるし、社会の受け止め方の問題でもあるが、対象(たとえば笑われる対象)それ自体に向けられた侮辱的表現でなければ、つまり、「ナベアツのアホ」くらいのものであれば、それは許容される方が風通しがいいと思う。不愉快な人は彼を見なければいい(でも、辛いだろうなあ)。

山崎元さんの記事に関連して、ベムさんのこの記事もどうぞ。

・ベムのメモ帳Z:[障害一般]スマザン・ボイルで思ったこと
http://d.hatena.ne.jp/bem21st/20100929/p1
ダウン症をコケにするのもインクルージョンなのだと主張する人がいるとのこと。こんなことを、差別する側の論理や某巨大掲示板の落書きなどではなく、LAのダウン症協会が言っているというのだからちょっと驚いた。

乙武さん、山崎さん、ベムさんの記事、リンクをひらいて全文を読んでいただけたらと願います。

ああ、「もうちょっと、しっかりとまとめて論じたいなあ…」と思う(ちょうど今みたいな時)。
いったい自分は、何を思い、何を語りたいのか……

実は、よくわかんないのです。
少しかなしくて。あんまりハッピーじゃない。
(どちらかというと、ちょっぴりみじめなきぶん。なぜか?は問わない。今は問いたくない)

「強くある」ということは、本当にすごいことで、それも、
「何も感じない」とか「何も期待しない」強さではなくて、
発信するということは、(上の3人のように)、「何かを感じて」「何か(変化)を期待して」前に出るということ。
だと私は思うので。

「血のかよった」、というより、「血が流れた」ことばだと感じるので。

「チャレンジド」をめぐって

ひと月ほど前に、@j_takapyさんが、Twitterで、
2011/05/15 22:04:47
私はこのチャレンジドという言い方に、以前から違和感を感じています。挑戦することを強いられているような気がして。理解不足なだけかもしれませんが。 RT @arai_takatoshi: 障害者のことを“挑戦する使命を与えられた人”という意味で“チャレンジド”と呼ぶそうですね。
とつぶやかれ、私も少しコメントをさせてもらいました。

そのやりとりのまとめ
・Togetter - 「チャレンジドという表現について」

最近「障害があるのは不幸に決まっている」についての感想(なのか?)を書いて、
映画「幸せの太鼓を響かせて〜INCLUSION〜」(感想記事)を観て、
自分が、どんなことを考えてきたか、振り返ってみたくなりました。

実は、「チャレンジド」という用語、コンセプトについては、ブログの初期から何度か論じてきました。

【言葉】チャレンジド=挑戦を受けた人(1) 2004年2月17日
【言葉】チャレンジド=挑戦を受けた人(2) 2004年2月18日
【言葉】チャレンジド=挑戦を受けた人(3) 2004年2月19日
 私にとって、カイを「チャレンジド」と呼ぶことはものすごく自然なことなのです。
「自閉症は文化である」とTEACCH部創立者ショプラー教授が価値転換を図っているように、わが子にとって、この世の中は異文化社会であり、わかりにくく、とても不器用で不利を背負ったカイは、やはり挑戦を受けている。
 そして、限られたツールで、勇敢に立ち向かい、日々成長していく姿を毎日見ている。
「チャレンジド」は単なる言いかえや「だからガンバレ!」といった無神経なスローガンではない。
 そして、特殊な存在を表す呼び方でもない。
 たまたま、偶然性が支配するこの世界で、確率によってチャレンジを受けることになった人々のことです。

この頃は「チャレンジド」というコンセプトはいい!という論じています。
(けど、「必死だな…」という、痛々しさも透けて見えますね)

その後、2007年になって、「チャレンジド再考」という記事を、天竺堂通信の記事をきっかけにして書きました。

・天竺堂通信:チャレンジド考
http://blog.livedoor.jp/tenjikudo/archives/50217332.html
「チャレンジド」の“反対側”にあるものが、言外に否定されている気がするのだ。「『挑戦』という使命や課題、チャンスや資格」があると決め付けることで、それをクリアできない人やクリアしたくない人を、差別することに繋がりはしないか? 「チャレンジドにふさわしい人」と「チャレンジドにふさわしくない人」を生み出す恐れはないか?

私は、「チャレンジド再考」ではこう書きました。
 ハンディのある人ほど「がんばれ」と言われている。多数派の社会、文化、価値観に合わせることを強制される。「歩み寄り」を、より多くもとめられるのは、障害を持っている人たちのほうだ。

 周囲の人たちも、自覚なく、善意の言葉として、「がんばれ」と言ってしまっている。

 だから、「チャレンジド」という、日本語ではない言葉を持ってきたとしても、今のこの国の土壌に置いた瞬間に、「チャレンジド=困難があるからこそ、人よりも余計にがんばらなければならない《義務》を課された人」という意味合い、言葉のにおいがついてしまうのかもしれない。

だいぶ「チャレンジド」ということばにかけた期待がトーンダウンしています。

「チャレンジド再考」に対しては、天竺堂さんから次のようなコメントをもらい、
カイパパさんは「勇敢」や「成長」などの言葉を使っておられますが、ほめればほめるほど“前向きな規制”は強まります。そのジレンマから逃れることは難しいでしょう。
カイパパさんご自身も、実は無自覚に言外で「がんばれ」とおっしゃっておられるのです(激励が悪い訳ではありません、決して)。

「うーん……」と考えて書いたのが、「続「チャレンジド再考」」



「なぜ私はこんなに必死で考えて書いたんだろう?」と思うんです。

それは、私が「親」として、「ブログ発信者」として、自分自身のスタンスを確かめる必要があったからです。

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルのコンセプト(一番最初の宣言)の再確認を、ある周期で、くりかえしやっているのは、その必要に迫られるからです。

「不幸だ」と落ち込むのがイヤだから、「チャレンジだ!」と前向きにふるまってみると、「前向きを強制するな!」と怒られて、「そんなつもりはないよ…」とうなだれていたら、「存在自体が負担…」とか言われて、前からも後ろからも矢が飛んで来る気分になって、「もうどうすりゃいいの〜」とか、くりかえし思ってきたんです。

ブログ再開して半年がたち、ちょうどコンセプトを確かめる時期なのかもしれません。

【感想】幸せの太鼓を響かせて〜INCLUSION〜

映画「幸せの太鼓を響かせて〜INCLUSION〜」を観てきました。

ドキュメンタリーです。生身の人間に密着した撮影をしています。

太鼓が凄い。

でも、映画の中で、少年刑務所の受刑者からの感想文にもあったように、年間130公演もこなし、プロとしてお金を稼いでいる人たちに対して、「すごい」とか「上手い」とか言うのは失礼な気がしますね。
子どもの頃から練習を積んで、技術を磨いてきて今があるのだな、と尊敬します。

映画は途中から、瑞宝太鼓(グループ名)のリーダー河本さんのお子さん、四歳のゆうき君にフォーカスが置かれていきます。
それは、監督が、映画を撮り始めた最初からの意図ではなかったんじゃないかな?と私は想像します。
瑞宝太鼓を取材していくうちに、カメラがぐんぐんとゆうき君に近づいていく──印象を受けました。

知的障害のある両親から生まれた子──発達が気になる子。
本人はいたって明るく元気いっぱい!
両親の努力、優しさ。見守る周囲の人々のまなざし。

保育園の保育士さん、発達支援のSTさんやOTさんたちは、共通した表情をしていました。

ゆうき君がこれからどれだけ発達をしていくのかわからないけど、自分たちにできる支援をやれるだけやろう。
容易ならざる道を想像はしてしまう。けれど、幸せを祈ってやまない。
──そう語っているようでした。

知的障害のある両親による子育て。とても「特別なこと」に思える。
でも、きっと誰もが、一度しかない人生を、薄氷を踏むような思いをしながら前に進んでいることは同じだ。
たくさんのひとに、支えられて生きていることも。






ああ、これは。

コロニー雲仙解体後、施設を出て、「ふつうの場所で、ふつうの暮らしを」するようになって、今どうしているか?を活写した映画なんだ。
──ということに、エンドタイトルで「田島良昭」さんの名前を見て、やっとはっきり気づきました。

「INCLUSION」のサブタイトルは、その意味が(も)込められているのか…

田島良昭さんはこういうかたです。↓
ふつうの場所でふつうの暮らしを―コロニー雲仙の挑戦〈1〉くらす篇 (コロニー雲仙の挑戦 (1 くらす篇))
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たのしく働き、いきいき暮らす―コロニー雲仙の挑戦〈2〉はたらく篇 (コロニー雲仙の挑戦 (2 はたらく篇))
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驚いたことに、私は、この映画の主人公である岩本友広さんに既に出会っていました。
平成16年3月、やはり私たちが親になっている岩本友広君という、彼はプロの和太鼓集団「瑞宝太鼓」の団長なのですが、彼が10年間恋愛して、結婚しました。
田島良昭著『施設解体宣言から福祉改革へ』P.19から引用。

今、本をパラパラ見ていて気が付きました。7年前にぶどう社の市毛さんからいただいた本です。


この映画は、「知的障害者の太鼓グループの感動物語」として観ることももちろんできますが、観ればきっと気づきます。
ものすごく、様々な、生きることの喜びや悩みやつまずきや、ひとの優しさや強さやかなしみをつつみこんでいるんです。
テーマはしぼりこまれていません。観るひとによって、感じることは違うでしょう。(私のこの感想記事も、著名人のコメントと比べると、あまりにも違っていて、「あれ?」とセルフつっこみしたくなります。)

でも、それは、現実の暮らしに、個々の人間に密着しているからですね。「テーマ」に沿って生きているわけではないもの。

以上が、映画の感想です。




でも、極私的なことを言うと──映画の最初から最後まで、「うちの子の知的障害は重いんだ…」と思い続けて観ていました。

あらためて、愕然としました。

続「チャレンジド再考」

■続「チャレンジド再考」

 前回の記事「チャレンジド再考」に関連して、たくさんのコメントとTrackbackをいただきました。ありがとうございます。これをきっかけに、私が感じたことをシェアします。

 まず、天竺堂さんからのコメントへの反応です。天竺堂さんからは、「前向きな規制」という考え方を教えていただきました。
ですから、障害者に意味を限定した呼称である「チャレンジド」を積極的に使うことは、やはり障害者に新たな定義を押し付け、生き方に“前向きな規制”を与えてしまうことにつながりはしないか…と私は危惧します。呼称を使う側に特殊化の意図が無かろうと、それが障害者を指す以上、結果的に特殊化は避けられないのです。
 天竺堂さんからコメントをいただいて、うーむ、と考え込んでしまいました。どこかに、すれ違いがあるような…、私が言いたかったことと受け止められ方にギャップがあるような違和感がありました。
 それで考えてみました。
カイパパさんは「勇敢」や「成長」などの言葉を使っておられますが、ほめればほめるほど“前向きな規制”は強まります。そのジレンマから逃れることは難しいでしょう。
カイパパさんご自身も、実は無自覚に言外で「がんばれ」とおっしゃっておられるのです(激励が悪い訳ではありません、決して)。
 この部分を、繰り返し読んでみて、「ああそうか」と気がつきました。

 私が、「勇敢」「成長」に驚き、感動している相手は、私の息子「カイ」その人なんです。
 論じている対象が、私の場合、「障害者一般」のカテゴリーを指しているのではなく、カイのことを具体的にイメージしてお話をしています。

 父親として、カイの成長に驚きながら、「チャレンジに満ちた新しい世界」を一緒に生き抜いていこうという決意──これは、私自身に対する「前向きな規制」なんでしょう。(自分で決めたことだから、余計につらいともいえます)

 私の願いは、カイを認めて、取り巻く環境を暮らしやすいものに変えていきたいということ。
 世間一般に対して「チャレンジド」という言葉を強制して、「みんな、前向きに生きろよ!」と主張しているつもりはないんです。

 次に、かへる日記さんが書いてくださったこの記事から。

・かへる日記 (FRGFRG304):「チャレンジド」であるが故にある「がんばらない」という選択肢も
http://d.hatena.ne.jp/ngmkz/20070401/1175422875
「チャレンジド」と「がんばらない」というものは、衝突するとは思っていないんです。

「チャレンジド」というのは、「(もう既に)挑戦している」という意味だろうから、それに対して「がんばらない」というのは自己選択としての考え方になるんだと思うんです。

社会的の構造や環境によって「チャレンジド」な状態にある方々をそう呼ぶこと自体は、とくに違和感ないっていうのがぼくの感想です。
 「チャレンジドな状態にある」という言い方は、「不利な条件で、社会参加を強いられている」ということの客観的な表現として、わかりやすいと思いました。

 かへるさんの勤務する風の工房では、「有給休暇カード」を本人にお渡ししていて、休みたい日もしくは前日にそのカードを出してもらう仕組みを導入されているそうです。

 自閉症の人は、「休む」ということができにくい、決められたルーティンを「何としてもやり遂げなければならない束縛・こだわり」に転化しまうことが多い特性を考えたとき、「がんばることをやめられない」素直さ、「おりることが、できにくい」危うさに注意を払っていかなければならないんだなと思いました。

 もうひとつ、五つの霞さんが、私の「「がんばれ」って言わないで 「がんばらないで」と言わないで」に対して反応してくださった記事。

・特別支援学校って…へぇ、そうなんだ: いつまでがんばる?どこまでがんばらせる?
http://d.hatena.ne.jp/fivefogs/20070402/p2
教員は生徒たちにどこまで頑張らせればよいのでしょうか? 生徒たちは何歳になるまで頑張ればよいのでしょうか?
ペースが分からない、ゴールが見えない、そんな世の中で「Challenged」と言われても、どうしたものやら右往左往してしまいます。
 霞さんは、障害児教育20年のキャリアを持つ先生です。学校の先生も悩んでいる。何を? どこまで? いつまで? がんばらなくちゃならないんだろう? うーん…。と切なくなってしまいます。

 この霞先生の記事に、S嬢さんがTrackbackをされていて、これが、素晴らしい内容です。もうタイトルだけで、私が言いたかったことを端的に伝えられています。全文をぜひ味わって読んでいただきたいのですが、全部ゴチックで引用したいくらい響いた箇所を引用します。

・S嬢 はてな:がんばること自体は悪くないよ、悪いのはがんばらせられることだと思う
http://d.hatena.ne.jp/satomies/20070402/p4
 「ありのまま」という言葉だけで成長の可能性を投げてしまうのは支援の怠惰だし、本人置き去りの課題の提示と強制は本人自身を育てない。何かができるようになることが大事なんじゃない、自分という存在を大事にできるかということが大事なんだと思う。何かに向かい合っていこうとすることは、自分自身を大事にするために進む道だと思う。

 知的障害児に向かい合うときに、問われているのはこちらの知的能力。タイミングの研究、モチベーションの芽の養成や把握、達成感を獲得するためにやるひとつひとつのステップの細かい分解。本人のリアクションに対する細かい分析と対処。

 がんばることもがんばらないことも選択は自分。がんばらせられることは心を死なせる。そういうことが大事なんだと思う。



 それと。障害を克服するためにがんばるんじゃない。生きることを楽しむためにがんばるんだと思うし、そういう支援ってヤツをわたしは選びたいと思う。
 S嬢さんがここで語られているメッセージは、親として、一番近くにいるサポーターとして忘れてはならない心構え・スタンスです。親だからこそ、冷静になれなくて、なかなかできにくいことなのだけれど(特に、「強制」と「自発」の間の揺れ惑い)。

「生きることを楽しむ」というスタンス、果たして親自身が、そのように生きているだろうか? それって、すごく大切なことだよね。でも、自信を持って、「はい」とは言えない。なぜ?……

 今回の「チャレンジド」を巡るやりとりのおかげで、自分が書いた過去記事を読み返す機会になりました。原点を再確認する意味で、次回の記事で、カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルのコンセプトについて書きたいと思います。

「チャレンジド」再考

■「チャレンジド」再考

★「チャレンジド」という概念により「否定」される存在?

 前回の記事で、私が「チャレンジド」について書いた記事を紹介したところ、S嬢さんからTrackbackで、以下の記事の紹介を受けました。

・天竺堂通信:チャレンジド考
http://blog.livedoor.jp/tenjikudo/archives/50217332.html
「チャレンジド」の“反対側”にあるものが、言外に否定されている気がするのだ。「『挑戦』という使命や課題、チャンスや資格」があると決め付けることで、それをクリアできない人やクリアしたくない人を、差別することに繋がりはしないか? 「チャレンジドにふさわしい人」と「チャレンジドにふさわしくない人」を生み出す恐れはないか?
 なるほど。こういう受け止め方もありますね。(この記事は、コメント欄も含めてお読みになっていただくとよいかと思います。)

 Trackbackをいただいた、下記のかへる日記の記事も、この天竺堂通信さんの記事を踏まえて読むと主旨が理解しやすいです。

★「がんばらない」と「チャレンジド」の概念は衝突する?

 かへる日記さんは、ご自身の職場である風の工房の基本コンセプトが「がんばらない」であることを紹介してくださっています。

・かへる日記 (FRGFRG304) - がんばらない
http://d.hatena.ne.jp/ngmkz/20070327/1175008178
その当時の代表である関さん曰く、「障碍者はいつも頑張れや頑張ってと言われている。けど、頑張らなくてもその人らしい生活というのは出来るんじゃないか?」ということみたいです。
 同感です。

 「チャレンジド」という言葉が、「頑張れ!」といわれているようで疲れてしまう、というご指摘は、初期の頃に、Atopic Informationさんからいただいていました。

・Atopic Information:ラッキーウーマン
http://www.atopic-info.com/archives/000442.html
正直なところ、このパターンの「ポジティブシンキング」に向かわせる言葉や新語、造語というものに私は胡散臭さを感じる。有無を言わせずしんどい自分に鞭打つ或いは苦役を強いるような感じと言えばよいだろうか?
 それに応えるかたちで、私は「チャレンジド=挑戦を受けた人」の一連の連載記事を書きました。こんな結論をラストに持ってきています。

・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル:【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(3)
http://blog.livedoor.jp/kaipapa2shin/archives/136116.html
「自閉症は文化である」とTEACCH部創立者ショプラー教授が価値転換を図っているように、わが子にとって、この世の中は異文化社会であり、わかりにくく、とても不器用で不利を背負ったカイは、やはり挑戦を受けている。
 そして、限られたツールで、勇敢に立ち向かい、日々成長していく姿を毎日見ている。

「チャレンジド」は単なる言いかえや「だからガンバレ!」といった無神経なスローガンではない。
 そして、特殊な存在を表す呼び方でもない。
 たまたま、偶然性が支配するこの世界で、確率によってチャレンジを受けることになった人々のことです。
 私が言いたかったことは──

・不利を背負わされた人が、限られたツールで、勇敢に立ち向かい、日々成長していく姿に対して、尊敬の思いをもっている。
・ただ「生存する」ためだけでも、苦痛や苦労、不便を強いられている中で、生き抜いていくことだけで、「すごい!」という畏敬の念をいだいている。

「だから、これ以上のムチャな要求はやめよう。君が生きているだけで、すごいことだ!」
「苦もなくできてしまうメインストリームの人たちが、これ以上《がんばれ》なんていう資格あるのかな?」
 という思いも込めて、書いたつもりです。

★「がんばる」ことを強制する風土のなかで

 けれども、現実はどうだろう?
 ハンディのある人ほど「がんばれ」と言われている。多数派の社会、文化、価値観に合わせることを強制される。「歩み寄り」を、より多くもとめられるのは、障害を持っている人たちのほうだ。

 周囲の人たちも、自覚なく、善意の言葉として、「がんばれ」と言ってしまっている。

 だから、「チャレンジド」という、日本語ではない言葉を持ってきたとしても、今のこの国の土壌に置いた瞬間に、「チャレンジド=困難があるからこそ、人よりも余計にがんばらなければならない《義務》を課された人」という意味合い、言葉のにおいがついてしまうのかもしれない。

 こういったことを、再認識できました。

 過去記事を掘り起こして、Trackbackをさせていただいてよかったです。S嬢さん、天竺堂さん、かへるさんありがとうございました(^^)

★「がんばれ」って言わないで 「がんばらないで」と言わないで

「がんばれ」に関連しては、やっぱりこの記事をあげておかないわけにはいきませんね。初期の頃からの愛読者様にはお馴染みですが、私の中に、いつもある思いというか、葛藤ということで、紹介をしておきます。

・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル:「がんばれ」って言わないで 「がんばらないで」と言わないで(2004年05月29日)
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/742875.html
がんばりすぎてしまう親をだれが救ってくれるの?

切れた輪

■切れた輪

チェーン、鎖の輪がある。
強い力で引っ張られた――

どこで切れるか?


「一番弱い輪」が切れる。


切れた輪のことを、「弱いヤツ」と同じチェーンの他の輪があざけり、
「お前のせいで切れた」とののしる。

だけど、もし、その輪が「強くて」切れなかったとしたら――




「次に弱い輪」が切れる。



それは、あざけり、ののしった輪かもしれない。

チェーン









【関連過去記事】
・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル:【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(1)(2004年02月17日)
https://image.blog.livedoor.jp/kaipapa2shin/archives/129656.html

【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(3)

opinion

【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(3)

【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(1)
【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(2)
 からの続きです。

★7 「チャレンジに満ちた新しい世界」
 私のサイトのサブ・タイトルは「自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界」です。これは、天から降ってきたように、スッと思いつきました。これでいいのかどうか検討を加えてみましたが、タイトルと合わせて私のやろうとしているコンセプトは「これに尽きる」と決定しました。

 私にとって、カイを「チャレンジド」と呼ぶことはものすごく自然なことなのです。
「自閉症は文化である」とTEACCH部創立者ショプラー教授が価値転換を図っているように、わが子にとって、この世の中は異文化社会であり、わかりにくく、とても不器用で不利を背負ったカイは、やはり挑戦を受けている
 そして、限られたツールで、勇敢に立ち向かい、日々成長していく姿を毎日見ている。
「チャレンジド」は単なる言いかえや「だからガンバレ!」といった無神経なスローガンではない。
 そして、特殊な存在を表す呼び方でもない。
 たまたま、偶然性が支配するこの世界で、確率によってチャレンジを受けることになった人々のことです。

★8 ノーマライゼーションの思想との関係
 ノーマライゼーションの思想は、
・一定の確率で、障害をもった子どもは生まれる
この社会は、初めから障害を持つ人も含んでいる。したがって、特別な場所に隔離するのではなく、同じ地域で「あたりまえの暮らし」ができる社会が「ノーマルな社会」なんだという考え方です。
 チャレンジドとノーマライゼーションの思想は互いに相通じる、対概念のようなものだと私は考えています。

★結語
 というわけで(長かったですねぇ)、カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル〜自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界〜は、チャレンジドという思想・ことばを積極的に使っていきます。

【連載記事】
【言葉】チャレンジド=挑戦を受けた人(3) 2004年2月19日
【言葉】チャレンジド=挑戦を受けた人(2) 2004年2月18日
【言葉】チャレンジド=挑戦を受けた人(1) 2004年2月17日

【付記】
(1)「障害者」という用語・用字について
 ただし、「障害者という言葉」で私が書いたように、障害者という用語も必要に応じて使うことをためらいません。その理由は、
・「障害者」という用語・用字は法律用語であり、日常用語である
・私は、「障害者」という言葉を「(様々な条件によって)生活に不便を感じている人」というニュアンスでとらえている
したがって、私個人としては、「差別語としての臭い」はついていないと判断しているからです。
(参考)
【用語】障害者
【用語】言葉ににおいがしみつく
(2)Silent Voiceに実際にアメリカ社会で生活されて感じ取った「チャレンジド」の意味について記事があります。ぜひお読みください。
 ・"Challenged"とは
 ・神から与えられた試しとして障害をとらえる

(3)Atopic Informationが「チャレンジド うーむ深い」で提起されている問題意識――
それでも差し引いて「やっぱりしんどい。」という部分があるのである。ましてや肉体的、精神的にボロボロの状態のときは、奮起する気そのものがそがれる「ネガティブスパイラル」によけいに陥ることもある。平常時においてさえ、これだけで奮起できるほど単純には割り切れず同時に戸惑う自分もいる。そんなに大衆の心を打つ必要があるのだろうかとか、裏を返せば、そこまで情熱を持ち、自分を、他人を鼓舞し続けねばならなければならなくなる状況というものがよけいに哀しくなるのである。思い通りにならず一生涙し続けるのか、「そんなのは嫌だ。」と何とかしようと努力することに、レベルや量に個人差はあったとしても疲れるのも人間だ。そして、その限界を知ることもまた頑張りすぎてつぶれてしまうのを防ぐバランス感覚も同時に必要なのかもしれない。

「そうは言っても、〈ガンバレ!〉と言われた気がして疲れてしまう状態についてどう考えるのか?」については、3か月達成の日に記事を書く予定です。あらかじめ言っておきますが、私にも答えはありません。今考えている試行錯誤について書きます。

【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(2)

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【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(2)

(この記事は【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(1)からの続きです。)

★4 キリスト教世界の言葉
 チャレンジド”challenged”は受身形です。「挑戦を受けた者」という意味です。チャレンジャー=「個人の自由意志で挑戦する者」ではありません。
そうだとすれば、誰から、何から挑戦を受けているのでしょうか?

 アメリカはキリスト教的倫理観で形作られた社会ですから、ここで意識されているのは、「神からの挑戦」ということでしょう。
 私は信仰を持ちません。しかし、以下の立論には共感を覚えました。それは、私が福祉の倫理的根拠だと思う「立場の互換性」(後述)に通じるからです。

★5 「くじ引き論」〜キリスト教世界の価値観
 この立論は、2002年のつぼみパパメーリングリストでASAJIさんが提起され、話題になりました。要旨は、次のとおりです。
○キリスト教世界では、次のような発想があるから、障害者に対して親身になった福祉が行われているのではないか(仮説)
・障害は、誰かしらに必ずもたらされる不可避なもの
・「くじ引き」をするように、誰が背負うかを決定づけられる(それは神によって)
・そうであるなら、障害者は、他の「健常に生まれた」人のために、(ある意味)犠牲となった人といえる
  →だから、社会(コミュニティ)が責任をもつのだ

★6 立場の互換性(交換可能性)=福祉を支える倫理的根拠
 私は、理屈っぽい人間です。自分の子どもが「福祉の受益者」になるという事態に直面して一所懸命考えて「結局これだな」と思ったのが、「立場の互換性」の理論です。
○障害者は「特殊な存在」ではない
・人間はだれもが加齢や病気、事故によって障害者となりうる
  =今、「健常」な状態だとしても将来はわからない
・また、一定の確率で障害をもった子どもが生まれる。
  =あなたも「障害児」の家族になるかもしれない
→全ての人が、福祉の受益者となりえる=つまり、いつか立場が換わりうるということ(立場の互換性)
  =それは遅かれ早かれいつか来ることであって、現在福祉の対象となっていることを恥じたり、卑下したりする必要はない
 言い換えるなら、福祉は、「全ての人のためのセーフティネット」なのです。これがなければ、人は安心して子どもを産むことも暮らしていくこともできない。

【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(3)へ続きます!

【参考過去記事】
 立場の互換性について
【基礎知識】WHOの新しい障害の定義:「国際生活機能分類ICF」
・ICF公式サイト http://www.who.int/icidh

【基礎知識】WHOの新しい障害の定義:「国際生活機能分類ICF」

【基礎知識】WHOの新しい障害の定義:「国際生活機能分類ICF」
(International Classification of Functioning, Disability and Health)
ICF公式サイト
 私の「立場の互換性」の議論は、WHOの新しい障害の定義がヒントになっています。私は、ICFの内容を坂井聡さんの講演会で知りました。
 坂井聡さんの著書『自閉症や知的障害を持つ人とのコミュニケーションのための10のアイデア』(9から11ページ)から解説を引用します。
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【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(1)

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【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(1)

 この記事は、下記のシリーズに連なるものです。
【用語】障害者 2003年12月29日
【用語】言葉に「におい」がしみつく 2003年12月14日
【用語】メインストリームの子どもたち 2003年12月07日
【思想】ノーマライゼーション 2003年11月30日
 長文のため、3回に分けて連載します。

★1 はじめに〜「チャレンジド」という言葉を意識するまで
・私は高校生のとき1年間アメリカ・ノースカロライナ州に留学していました。
・”the challenged”という言葉には、そのとき出会っていたかもしれませんが、印象は残っていません。
・2年前に仕事で、あるプロジェクトの翻訳見直しをした際に、アメリカ人スタッフが当時使っていた「知的障害」(訳した当時は「精神薄弱」)の訳語――”mental retard”は悪い印象を与えると主張しました。

 彼は、”mental disability”か”intellectually disabled”が適切だと言い、”intellectually disabled”を使うことにしました。
一般的に障害児を表す場合に「handicappedはどうか?」とたずねたところ、今は”the challenged children”という表現がpolitically correctだと思うという返事が返ってきました。ハンディキャップも使われるけれど、「不利」「苦手」に着目した表現なので、どちらかというとチャレンジドの方がよいのではないか、というのが彼の解説でした(注)。

 私はそのとき既にカイの自閉症の診断を受けていたので、チャレンジドという表現が記憶に残りました。

(注)”mental retard”も”mental disability”も”handicapped”も普通に使われている用語です。たとえば、歴史のある団体スペシャルオリンピックスの公式ウェブサイトを見ると、”mental retard”という用語で統一されています。
The term "mental retardation" is used throughout this site because of its
specific meaning in clinical and academic settings. Other terminology –
including cognitive delay, intellectual disabilities, intellectual
handicaps, learning disability, mental disabilities and mental handicaps –
is used around the world.


★2 竹内ナミさん『ラッキーウーマン』と出会って
 この本は、私の高校時代からの恩師が「これはぜひ読んでほしい」とオススメしてくれました。さすがに私の恩師、素晴らしく刺激的で、勇気と知恵をたくさんもらいました。
 竹中ナミさんの活動は、「私はすべての障害者を納税者にしたい」というケネディ元大統領のスローガンからきっかけを得て、「チャレンジド」がキーコンセプト(これなしでは活動が成立しない不可欠の概念)としています。
 それでは、この本の中で、チャレンジドはどう説明されているか見てみましょう。
 ところで、「チャレンジド」って知ってはりますか?
 これは、障害を持っている人を表すアメリカの新しい言葉で、正式には「ザ・チャレンジド(The challenged)」といいます。
「神から挑戦という使命や課題、あるいはチャンスを与えられた人々」という意味がこめられていて、15年くらい前から使われはじめました。
「すべての人間には、生まれながらに自分の課題に向き合う力が与えられている。しかも、その課題が大きければ大きいほど、向き合う力もたくさん与えられている」
 という哲学にもとづいて生まれたそうです。
 アメリカでは「チャレンジドが働き、タックスペイアー(税を払う人)になる」というのは当たり前のこと。(略)
(プロップ・ステーションの)キャッチフレーズは「チャレンジドを納税者にできる日本!」

 どうです? 勇気が出ませんか?
「チャレンジド」という言葉は、竹中ナミさんのオリジナルではなく、最初に紹介した人でもないでしょう。しかし、ナミさんは、チャレンジド・ジャパン・フォーラムを企画・成功させた人であり、彼女が設立したプロップ・ステーションは、これまでの「保護の対象として障害者を見る福祉観」とは異なる、IT技術を活用したエンパワメントを実現しています。彼女が、「チャレンジド」の言葉普及の立役者であると思っています。

★3 Atopic Informationの言及
 ――とごく一般的な紹介でとりあえずはとどめておこうと思っていたのですが、Atopic Informationが、私のこの記事に反応して以下のような言及をされました。
正直なところ、このパターンの「ポジティブシンキング」に向かわせる言葉や新語、造語というものに私は胡散臭さを感じる。有無を言わせずしんどい自分に鞭打つ或いは苦役を強いるような感じと言えばよいだろうか?
おそらく世の中がこういう方向に向かってほしい、あるいはそういう世の中にしていきたいという意志表示を含む理念のようなものとして掲げられているものなのだとは思うが、自分の中には「うん、これは確かに大切なことなんだろうな」と感じながらも、やはり無条件に「うん、うん」と頷けないのは私が弱い、あるいは甘えただからかもしれない。人間いつもそう強くはないもんだ。
日常生活や仕事においても、目標なりノルマというものがある。もう少し言葉を変えれば課題という人もいるかもしれない。課題や目標を達成したときの達成感に喜びを感じることができるコンディション(肉体的にも精神的にも)を維持できているときにはこれはプラスに働くが、そのコンディションが崩れたときには歯車が狂ったように苦痛や自身への厳しい制約や障壁となり、自分を壊す刃ともなりうる。(※チャレンジドという言葉には)おそらくそれをも見据えての想いがこもっているのだろうなと勝手に想像してみた。

 Atopic Informationの松岡さんは、アトピー性皮膚炎患者本人の立場から、1995年から「ステロイド薬害」について戦ってきた方です。リンク集の中で特別に「setsujitsu(切実)」というカテゴリーに登録しているサイトの一つでありその活動に注目をしています。
 傍観者が「言葉の言いかえって、なんかヤな感じだよね〜」と言うのとはまるで違います。この率直な違和感(ためらいと考察)に対して、私はきちんと応えたいと思います。

【言葉】チャレンジド=挑戦を受けた人(2)
へ続く)

竹中ナミさん講演会 一宮で開催!

ラッキーウーマン

■竹中ナミさん講演会 一宮で開催!

 私が今いちばん会いたい人――
『ラッキーウーマン』の著者、竹中ナミさん――がなんと今週愛知県一宮市で講演会をされます!
 さとままさんが教えてくださいました。詳細は下記のとおりです。
 カイパパは絶対に行きます!
 みなさんもぜひ聴きに行きましょう。これからの私たちの子どもの未来のヒントが見つかります。
【詳細】
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【用語】「障害者」

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【用語】「障害者」

 カイパパ@4歳自閉症男の子の父親です。カテゴリー「オピニオン」では、私が考えている意見や視点をささやかに表明します。

これまでの関連記事

(1)2003年12月7日記事 【用語】メインストリームの子どもたち
(2)2003年12月14日記事 【用語】言葉に「におい」がしみつく

reiさんのblog(lame)で12月14日記事への感想をいただきました。ありがとうございます

★これまでの記事のふりかえり
 12月7日記事で、私は「健常児」という呼び方を「メインストリームの子どもたち」(多数派、主流の子どもたち)と呼ぼうと提案しました。
 12月14日記事では、「いくら中立的な表現でも、差別的な意味を込めて使い続ければ言葉ににおいがしみついて差別語になっていく」認識についてお話しました。

★「障害者」という呼び方をどう考えるか
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【用語】言葉に「におい」がしみつく

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【用語】言葉に「におい」がしみつく
 カイパパ@4歳自閉症男の子の父親です。日曜日は、ちょっぴり「よそゆき」な感じで、オピニオンと題して私が考えている意見や視点をささやかに表明しています。

★はじめに
 先週のオピニオン(2003年12月7日記事「メインストリームの子どもたち」)で、私は「健常児」という呼び方を「メインストリームの子どもたち」(多数派、主流の子どもたち)と呼ぼうと提案しました。一方で、「障害児」という呼び方については触れませんでした。
 今回は、障害児という呼び方を議論する前提について考えていることを書きます。

★あるエピソード
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【用語】メインストリームの子どもたち

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【用語】メインストリームの子どもたち

 カイパパです。おはようございます。
 今日は「言葉」についてお話します。

★メインストリーム・チルドレン
「メインストリーム」という英語を聞いたことがありますか?

 直訳すると「主流」ですね。「多数派」という意味もあります。

 自閉症カンファレンスNIPPON2003でエリック・ショプラー博士が「発達障害のない子どもたち」のことを”Mainstream children”と表現していました。

 日本で使われる「健常児」という表現と一線を画していて「おお!」と思いました。

 「健常児」と「障害児」という表現には○と×の価値判断があるように感じます。
一方、「メインストリーム」は、「多数派」という意味です。「多数派」「少数派」は統計的な意味であり、価値の高い・低いではありません。「少数派=悪い」ではないですよね?

★自閉症の文化とメインストリームの文化の橋渡し
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【思想】ノーマライゼーション

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【思想】ノーマライゼーション

★はじめに

 私は、我が子の障害を知るまで、ハンディキャップや福祉の世界についてよく知りませんでした。少しずつ学ぶ中で、「ノーマライゼーション」という思想の意味を知り、感動した瞬間がありました。

★ノーマライゼーションの思想の出発点

 ノーマライゼーションは、それまで一般的に正しいとされてきた「障害者は一般社会から隔離された(保護された)場所で暮らすべきだ」という思想に対するアンチテーゼとして提唱されたそうです。

 ノーマライゼーションの思想は、
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