カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル

〜自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界!〜

オピニオン・意見

「生きていていい」なんて。

相模原事件から1年が経った。言及する記事や番組が多く流れている。
が、じぶんからは言葉が出てこない。

それでも、ひとつだけ記しておきたいことがある。

「生きていていい」という表現に、痛みを感じます。

「生きていていい」とは、だれが、だれに許可を求めているのか? だれが、だれにゆるしを与えているのか?

わたしも、そう「言って」しまいそうになる。そう「言った」ことが何度もある。「生きていていいよね」と。
いわざるを得ない心情がわかる。そう「言う」人が、やむにやまれぬ気持ちであったり、やさしい同情心から「言って」いることも知っている……

でも、そう「言う」ことで、無意識に生命の価値づけをしていることを認めているのではないか。いや、じぶんが生命の価値付けを、認めているわけではないかもしれないが、この「世間に生命の価値付けが存在すること」を認めているのだ(認識という意味から、仕方が無いと受容する意味までスペクトラムはある)。

・「生きていていい」という表現は、「排除する社会(人の集団)への異議申し立て」である。
・決して「排除する社会(人の集団)」に対して、ゆるしを求め、おうかがいを立てるものではない。

この表現を、目にするたびに、そう確認をしないとわたしはつらい。
というか、再確認をしたとしても、苦い痛みは消えない……

わたしのなかにある、生命の価値付けの認識、「居場所がない・奪われる」というおそれ、そういった不安が刺激されるから。

「生きていていい」なんて。

言わなくてもいいはずなのに。

【ラジオ・要約】「ストリートで出会う 自閉症」4月8日放送回 音源公開

多文化ラジオ番組「People Junction」2017年4月8日放送回
「ストリートで出会う 自閉症」

 最初から聴く(YouTube)
【インデックス】クリックしてその位置から聴けます
1 はじめに 1:16
2 テーマ「ストリートで出会う 自閉症」について 3:01
3 4年前の事件「バスでのできごと」 5:24
4 再び読まれるきっかけ 20:00
5 「見えない存在」にされている〜相模原事件 24:52
6 実は、出会っている 29:00

町で、自閉症の人を見かけたことがありますか? そのとき、あなたはどんなことを感じますか? 4年前に起きたある事件を題材に、カイパパの思いを語ります。そこから、昨年7月におきた「あの事件」についても……。
ストリートで出会う、ってどうしたらいいんだろう? 自閉症をまったく知らない、そんな人にもぜひ聴いていただけたらと願っています。


■はじめに
(パーソナリティー 川口)
本日は、先週に引き続き、ゲストに自閉症の息子さんを持つカイパパさんをお招きしてお話をお伺いします。

(カイパパ)
カイパパと申します。17歳の知的障害を伴う自閉症のある息子がいます。息子の名前がカイと言って、その父親ということでカイパパと名乗っています。2002年から愛知県自閉症協会・つぼみの会で活動をしていて、2014年からは自閉症の人の権利擁護に取り組むプロジェクト部の部長を務めています。2003年からブログ「カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル」を始めて、今も続けています。2005年には『ぼくらの発達障害者支援法』を出版しました。

(川口)
前回は、4月2日の世界自閉症啓発デーにちなんで、「自閉症、はじめまして!」と題して、自閉症の特徴と学び方のスタイルについてお話を伺いました。

(カイパパ)
どうしても短い時間で伝えられることは限られているので、興味を持ってもらえて、自分でも情報を探してもらえるとうれしいなと思います。

・【ラジオ・要約】「世界自閉症啓発デー 自閉症、はじめまして!」4月1日放送回

■テーマ「ストリートで出会う 自閉症」について
(川口)
今回のテーマは、「ストリートで出会う 自閉症」なんですが、これはどういう意味を込めたものですか?

(カイパパ)
第2回のテーマを、いろいろと考えました。
「ストリートで出会う」という言葉に思い入れがあって。私がブログを始めた当時はブログ自体が目新しくて数もまだ少なかった。障害や福祉の関係のブログを見つけては、相互にコメントをつけたりして、交流をしていました。
そのなかで「ストリートで出会いたい」というタイトルを使っているブロガーがいました。その人は支援者の立場だったのですが。「支援する/される関係」「上下関係」ができてしまうことへの違和感を表明していて、「ストリートで出会うように、日常の中で、平場で、あなたに出会いたい」という意味を込められたタイトルでした。
そのメッセージを聴いて、とても印象に残っていて。自分は当時「親=保護者」だから「守らなきゃ!」という意識がとても強かった。目の前のわが子をひとりの人間として、ひとりの子どもとして見ること、「自閉症のカイ」ではなくて「カイには自閉症もある」という見方に変わった。

■4年前の事件「バスでのできごと」
(川口)
カイパパさんのブログの記事にわたしがとても印象に残っている記事があります。4年前にあった関西地方であった事件に関するものがありますね。野球部員が路線バスに乗車してきた自閉症のある男性にいやがらせをしたことをスマートホンの動画アプリで撮影して公開し、仲間内で面白がっていたという事件でした。

(カイパパ)
この事件の報道は、いわゆる「ベタ記事」で小さな記事だったんですが、新聞社のネットに掲載され、広がった。この事件を知ったときはショックでした。
なぜショックを受けるかというと、驚いたからではなくて「よくあること」だからです。この事件はたまたま高校が生徒の行為を発見し、きちんと処分をしたから報道された。しかし、他にも、とりあげられることもなく日常的にある、こういった嫌がらせはあるんです。だから、「やっぱりな」という印象で「がっかりする」ようなショックでした。

(川口)
この事件を受けて、カイパパさんが書かれた記事があります。よかったら、読んでいただけますか?

(カイパパ)
黙っているのも嫌だなあと思いつつ、どう伝えたらいいか悩みつつ書いた記事です。

(読み上げる)
「バスでのできごと(野球部のみなさんへ)」

(川口)
この記事には、たくさんの読者からのコメントもついていますね。その中から、ひとつ紹介させていただきます。
(ブログ記事のコメントを紹介)
とても胸に響きました。
私は自分に子どもができて、ただでさえこんなに子育ては大変なのに、障害を持ったお子さんを育てていらっしゃる親御さんの苦労は計り知れないと思い知りました。
そして、深く尊敬の念を抱いております。
そんな風に思っていても、何の助けもできない自分がいます。
苦労されている親御さんを見ると、何が本当の意味での助けになるのか...など考えますが、現実は何もできません。

社会が安心できる場だと信じれるようにすることが、大切なのですね。
体は大きくても幼児の心...そう思うと、不安感が痛いほど分かる気がします。

自閉症や知的障害のある方が、どんなことが問題で、どんな風に感じていて、どんな対応をされることがベスト(ベター)だと感じられるのか...など、社会一般にもっと広まって、認知されていく必要があると感じています。

まとまらないコメントになりましたが、とても大切な気付きを頂いたこと、一言コメントを残させて頂きたく思いました。

ご子息様の、一歩一歩確実な成長(たとえどんなにゆっくりだとしても)、きっとカイパパ様たちには、この上ない喜びでしょうね。
私も、失礼ながら図々しくも、ご子息様の成長を願わせて頂きます。

全ての人が、もっと住みやすい社会になりますように。

(カイパパ)
とてもありがたいコメントです。

(川口)
反響も大きかったのでは?

(カイパパ)
反響が凄かったです。3日間で1万5千人ぐらいこの記事を閲覧しに来てくれました。伝わったのかなあと思いました。が、実は不安もあって。
この時の記事には、カイの写真をアップしたんです。これもすごく悩んで。まだカイが小さかったころはブログでも彼の写真を紹介していたんですが、中学生になって自我が芽生えてきているので、親が勝手にアップすることは控えるようにしていたんですが、読んだ方にイメージを持ってもらう、想像してもらうためには、この写真がいるだろうと思い切って、使わせてもらった。
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(カイパパ)
なによりもこの記事を書いた理由は、高校生に、想像してほしい、ということを伝えたかったからです。
このバスで通勤している男性も、間違いなく、すごく長い時間をかけて通勤できるようになったと思うんです。
それをバカにしてからかって、笑う。仲間内のノリだったと思うんですが。

自閉症の人の行動は、ぱっと見、奇妙で、こわいとか、滑稽だとか思うかもしれない。
だけど、日々の暮らしがあって、愛し愛されて生きている。ひとつひとつのできるようになったことが、誰かの支えがあったから。
それを知ったら、見方や接し方が変わるんじゃないか。
だから、カイのことを書くことで伝わるといいなと思ってこの記事を書きました。

(川口)
手紙のスタイルで書かれたのは?

(カイパパ)
どう伝えるかについては悩みました。最初はすごい怒りを覚えて。
通勤できるようになって、すごいこと。だけど、こだわりがあって、
それを面白がっていたずらをするのはけしからん!と書くこともできた。

でも、時間をおいて考えて、高校生のことが心配になった。
弱い者いじめをする。幸せな状態だったらしないんじゃないかな? いじめをするそういう心理状態は、ストレスがたまっていたり、抑圧されていたり、自分自身の中で持って行きどころのない攻撃性が出てきたんじゃないか。
そういう状態の人に怒っても仕方がないと思いました。

「こうやって愛されてるってすごいことじゃないか?」って伝えて、自分自身も愛されて育っていることに気づいてもらえたらいいなと思って、手紙のかたちで書きました。

■再び読まれるきっかけ
(川口)
この記事は4年前に書かれた記事ですが、今年になって、また読まれることになったきっかけがあったそうですね。

(カイパパ)
そうなんです。1月になってブログのアクセス数をみたら突然増えていたのに気がつきました。
その時、RKB毎日放送の神戸金史記者がFacebookでこの記事をシェアしてくださって。それがまた反響を呼んで、再び、多くの人に届きました。

4年経って、高校生は、もう高校生ではなくなっていますよね。今頃、どうしているかな?と思って新たに書いた記事があります。

(読み上げる)
Re:バスでのできごと(野球部のみなさんへ)


(川口)
やさしい、記事ですね。

(カイパパ)
神戸記者が取り上げてくれたのは偶然じゃないと感じていて。
神戸記者も、自閉症のお子さんをお持ちの父親です。相模原事件の3日後に、メッセージを出されて、それがすごく響く内容で、世界中に届いて、秋にはそれをまとめた本にもなりました。



■「見えない存在」にされている〜相模原事件
(川口)
相模原事件とおっしゃったのは、昨年7月に相模原にある知的障害者入所施設「やまゆり園」で起きた、障害者の殺傷事件のことですね。

(カイパパ)
はい。最初に事件を知ったとき、いったい何が起きたんだろう?と戸惑いを覚えました。でも、事件を知るにつれて、これは偶然ではない、通り魔的なものではない、明らかに知的障害者をターゲットにした、強烈な悪意を持った事件が起きたとわかりました。

今ようやく公判がスタートしたところで、事件の真相について、私は語る言葉を持っていないのですが。

今日ここでお話ししたいのは、この事件で被害を受けた方々が匿名のままだということ。神奈川県警は当初から氏名を伏せています。
実名報道の是非は議論があるところです。しかし、社会に影響のある事件については、人々が知る必要があるということでマスメディアは報道をしている。ところが、被害者が障害のある人だと、メディアも匿名でよしとしていることに、差別を感じました。

相模原事件のことを考える会を開いたときに、私の友人が、彼女はクリスチャンなのですが、「神様に亡くなった方の魂のことをお祈りしたいのに、名前で呼びかけることができない」と言われて。そうか、名前がないと追悼することもできないんだと思いました。

知的障害のある人が山奥に隔離されて、見えない存在にされている。
「それじゃいけない。住み慣れた地域で暮らせるようにしよう」と「施設から地域へ」という運動が始まっていて。少しずつ、地域移行は進んでいますが、まだまだです。

匿名報道は、障害を持っていることが恥だ、隠したいことだと世間では今でも思われていることが明らかにしたと感じています。

■実は、出会っている
(カイパパ)
今日、ストリートで出会うというテーマにしました。
みなさん、実は出会っているんです。
子どもの頃を思い出してみて、近所や学校に、障害のある子がいませんでしたか?
いつまで、その子は一緒に過ごしていましたか? 
いつの間にか、出会わなくなってしまった。

今、どこでどうやって暮らしているんだろう?
そんな想像をしてもらえたら、町で出会う人を、もしかしたらあの時の○○ちゃんかもしれないと重ね合わせたりして。困っていたら、手をさしのべようとか思える。
そうなったらいいなと願っています。


【参考サイト】
・NHK 19のいのち ─障害者殺傷事件─
http://www.nhk.or.jp/d-navi/19inochi/
今回の事件で、警察は犠牲になった19人の方々のお名前を公表していません。
19人おひとりおひとりに、豊かな個性があり、
決して奪われてはならない大切な日常があったはずですが、
私たちはこれまで十分にお伝えすることができずにきたと思っています。
そして、過去に例をみない凶悪な犯罪の衝撃は、事件から時がたつにつれて
社会から薄れていっているように感じています。

私たちは、失われた命の重さを伝え、その痛みを少しでも想像し、
みんなで受け止めていくことで、
再び悲劇を生まない社会を作っていきたいと考えています。
19人の方々を知る人たちが語ってくださった思い出のかけらを集めて、
確かに生きてきた「19のいのち」の証しを、
少しずつここに刻んでいきたいと思っています。

【告知】4月8日(土)ラジオ放送「ストリートで出会う 自閉症」

多文化ラジオ番組「People Junction」2017年4月8日(7:30am-8:00am) 放送
「ストリートで出会う 自閉症」


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 4月1日の第1回「世界自閉症啓発デー 自閉症、はじめまして!」をお聴きいただきありがとうございました。(聞き逃した方はこちらの要約記事をどうぞ!

 次回の放送は、4月8日土曜日7時半から。テーマは「ストリートで出会う 自閉症」です。

 町で、自閉症の人を見かけたことがありますか? そのとき、あなたはどんなことを感じますか?
 4年前に起きたある事件を題材に、カイパパの思いを語ります。そこから、昨年7月におきた「あの事件」についても、あなたと一緒に考えたい。

 ストリートで出会う、ってどうしたらいいんだろう? 自閉症をまったく知らない、そんな人にもぜひ聴いていただけたらと願っています。

【ラジオの聴き方】
「People Junction」HP内の「東日本チャンネル」(▶)をクリック!ネット環境があれば世界中どこにいても聴くことができます。(PCだと左サイドバー、スマホだとずーーーっとスクロールして下の方にあります。)
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
「People Junction」HP 
http://www.yumenotane.jp/people-junction

ラジオでお話しします! 4月1日&4月8日

インターネットラジオ「多文化ラジオ番組 People Junction」に出演させていただきます。

・第1回(4月1日放送)テーマ「世界自閉症啓発デー 自閉症、はじめまして!」
・第2回(4月8日放送)テーマ「ストリートで出会う 自閉症」
 放送時間は、朝7:30〜8:00

よかったら聴いてくださいね♪

【ラジオの聴き方】
「People Junction」HP内の「東日本チャンネル」(▶)をクリック!ネット環境があれば世界中どこにいても聴くことができます。スマホでもパソコンでも。
■「People Junction」HP 
 http://www.yumenotane.jp/people-junction
People_Junction

<以下は、多文化ラジオ番組 People Junctionのページから引用です!>
【シェア歓迎❇️4月第1・2週の放送告知❇️】
多文化ラジオ番組People Junctionをいつもお聴きいただきありがとうございます。次回の放送は4月1日(土)です。次回は、4月2日の「世界自閉症啓発デー」にちなんで、『ぼくらの発達障害者支援法』の著者である「カイパパ」さんをスタジオゲストにお迎えし、2週にわたって「自閉症」をとりあげます。ぜひお聴きください。
■ 第1回 4月1日㈯ AM 7:30-8:00 放送
 「世界自閉症啓発デー 自閉症、はじめまして!」
■ 第2回 4月8日㈯ AM 7:30-8:00 放送
 「ストリートで出会う 自閉症」
【出演】
 カイパパ さん
  ∇ Blog「カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル」
    http://kaipapa.livedoor.biz/  
  ∇ カイパパさん Facebook 
    https://www.facebook.com/kaipapa2shin
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【ラジオの聴き方】
「People Junction」HP内の「東日本チャンネル」(▶)をクリック!ネット環境があれば世界中どこにいても聴くことができます。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
「People Junction」HP 
http://www.yumenotane.jp/people-junction

2016年12月30日

少し早いですが、今年のしめくくりのごあいさつをさせていただきます。

2016年は個人的には身体の調子も回復し、良い年でした。このブログでも、出会ったことのない方々とも有意義であたたかい交流ができたことに感謝しています。ありがとうございました。

今年7月に起きた「相模原事件」のことについて触れないわけにはいきません。思いつくままに並べていきます。

・直後に起きたメディアによる「犯行動機」のたれながしによる心理的な追い込みが起きた。
・リオオリンピック後、ぱったりと止まった報道。NHK以外で取り上げるマスメディアはなくなった。
・隔離された特殊な場所で起きた、特殊な傾向を持つ人が起こした特殊な犯罪、としてメインストリームの中では忘却のかなたに流されていくことで決まったように感じる。
・「名前を持たない」人たち。「存在」を奪われたようだ。個人として、悼むことができない。
・街を歩くことに恐怖を覚える、身の危険を感じるようになったという当事者の思い。失われた社会への信頼・安心感。この事件は、加害者、被害者の範囲が、自然に拡大していくようなおそろしさがある。
・事件は固有・個別の物として語られるべき。同時に「社会」に敷衍して語られなければならない。なぜ?
・タブーがタブーでなくなる時、かろうじて残っていた「規範」が消失する。偏見・差別に基づく憎しみが表舞台に出てくる。犯罪行為ではなく、政治的な主張として立ち現れ、それが「排除を正当化する」統合(皮肉)の旗印になったら?
・当事者団体、親の会などからあがった意見表明は、事件(報道)へのカウンターとなって傷ついた心を癒やした。社会の「傾き」を修復する機能を果たした。
・「良識」や「規範」を、もう一度語り直すべき。だが、この土俵にあがること自体が苦しい。

あの事件が起きた日から、頭にもやがかかったようで不調が続きました。夏の間ずっとでした。秋口になってようやく心身の調子がマシになってきて、「物が考えられる」ようになったと思って、初めて不調に気づきました。わたしごときの心身の不調など、どうでもいいことではありますが、いったいどれだけの人たちが動揺し、傷つき、失われた時間を過ごしたのだろうか……そう想像したりします。

まとまった論考をすることは未だできません。傷ついているのだと思います。

「人は許すことなんかできない。ただ、忘れるだけだ」そう聞いたことがあります。
わたしが3か月経って調子が回復したのも、単に「忘れた」からにすぎないのでしょう。

特殊な場所で起きた、特殊な傾向を持つ人が起こした特殊な犯罪。わたしもそう思いたいのです、心の底では。自分の周りでは決して起きない。降りかからない。社会は安定したまま揺るぎない。

「障害の有無にかかわらず
 国民が相互に人格と個性を尊重して
 安心して暮らすことができる
 地域社会」 
(障害者総合支援法第1条より抜粋)

普段ならこんな「お題目」に心を動かされることもないのですが、しがみつきたい。切実に大事にしたい。
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<追記>
──先ほど、名古屋市緑区で起きた「心中」子殺し・自死事件のことを知りました。

ここでくだくだしく御託をならべること自体が──障害のことを、深刻なネガティブなものとして流通させてしまっているのかもしれませんね……

逆に、「こんなに幸せに生活しています!」なんてアピールも、まぶしくて弱っている人を、かえって追い詰めているかもしれない……

何もかもが無意味に思える。

無力だ。


人が人としてありのままで尊重される
生きることは、誰のゆるしも必要ない
「おたがいさま」で生きていこうよ

ころさなくていい
しななくていい
いきていこうよ

お願いだから

責任を負うのは誰か/認知症男性JR事故死 最高裁判決

重要な判決が出ました。

・認知症男性JR事故死 家族側が逆転勝訴 最高裁 / 毎日新聞 2016年3月1日
http://mainichi.jp/articles/20160301/k00/00e/040/236000c

この判決によって、これからは親族の監督義務のみで損害をカバーしていくのではない「別の方法」が講じられるようになるといいと思います。
保険、フェンスなどの物理的安全策などの企業努力、声かけ、見守り、、、いろいろあるでしょう。

「家族だけ」では負いきれない。だから、「広く薄く」社会での負担を考えていく。(例「企業努力」は運賃に反映されていく)


──と言っても、家族が「監督義務者」として認められる場合は多くあります。この事件でも、仮に同居していたのが高齢の妻ではなくて息子たちだった場合は民法714条第1項を類推適用して「監督義務者」として賠償責任を負ったかもしれません。
(特に、同居の障害のある子を監護している親たちは、高い確率で「監督義務者」として認定されるのではないかと予想します。)

判決文の全文が読めます。

・裁判所:裁判例情報:最高裁判所第三小法廷 2016年3月1日判決
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=85714

最高裁判所はあくまでも今回の個別具体的な事件の判断を下しました。
裁判所が立法をできるわけではありません。

上に書いたような「努力」を企業や社会が講じるためには、法的な整備が必要だと思いました。

(参考)上記判決文から引用
したがって,精神障害者と同居する配偶者であるからといって,その者が民法714条1項にいう「責任無能力者を監督する法定の義務を負う者」に当たるとすることはできないというべきである。

ウ 第1審被告Y1はAの妻であるが(本件事故当時Aの保護者でもあった(平成25年法律第47号による改正前の精神保健及び精神障害者福祉に関する法律20条参照)。),以上説示したところによれば,第1審被告Y1がAを「監督する法定の義務を負う者」に当たるとすることはできないというべきである。
また,第1審被告Y2はAの長男であるが,Aを「監督する法定の義務を負う者」に当たるとする法令上の根拠はないというべきである。

(2)ア もっとも,法定の監督義務者に該当しない者であっても,責任無能力者との身分関係や日常生活における接触状況に照らし,第三者に対する加害行為の防止に向けてその者が当該責任無能力者の監督を現に行いその態様が単なる事実上の監督を超えているなどその監督義務を引き受けたとみるべき特段の事情が認められる場合には,衡平の見地から法定の監督義務を負う者と同視してその者に対し民法714条に基づく損害賠償責任を問うことができるとするのが相当であり,このような者については,法定の監督義務者に準ずべき者として,同条1項が類推適用されると解すべきである(最高裁昭和56年(オ)第1154号同58年2月24日第一小法廷判決・裁判集民事138号217頁参照)。

その上で,ある者が,精神障害者に関し,このような法定の監督義務者に準ずべき者に当たるか否かは,その者自身の生活状況や心身の状況などとともに,精神障害者との親族関係の有無・濃淡,同居の有無その他の日常的な接触の程度,精神障害者の財産管理への関与の状況などその者と精神障害者との関わりの実情,精神障害者の心身の状況や日常生活における問題行動の有無・内容,これらに対応して行われている監護や介護の実態など諸般の事情を総合考慮して,その者が精神障害者を現に監督しているかあるいは監督することが可能かつ容易であるなど衡平の見地からその者に対し精神障害者の行為に係る責任を問うのが相当といえる客観的状況が認められるか否かという観点から判断すべきである。

【プロジェクト部】今年をふりかえり、2016年を展望する

年末らしく、愛知県自閉症協会・つぼみの会プロジェクト部の今年をふりかえり、2016年の展開を展望する記事を書きました。読んで、関心を持っていただけるとうれしいです!

・今年をふりかえり、2016年を展望する
http://tubomiproject.blog.jp/archives/51494200.html

自分のなかに居座る他人

このところ(何年も)、「内面化する」ことが気になっています。

社会の価値観を自分のなかに取り込んで、自分の価値観とすることは、ごく当たり前に起きることだけど。それが、本来の自分の望むこと、こっちへ行きたい、という自由を引きとどめるかたちで機能することがある。

「世間の目」なのに、内面に取り込まれているから「自分の意思」でストップをかけていると思っている。実はそれは「フタ」であって、フタをされた中には望みが抑圧されている、みたいな。

今朝書いた文で、この「内面化」をイメージとして伝わるようにやっとできた気がします。

「自分のなかに居座る他人」

他人の評価にとらわれる、ということは、自分の中に「他人」を入れて監視をさせることだ。
それは仮想の「他人」だから対話もできない。無慈悲に自分を踏みにじる。
自由に生きるには、「他人」を自分の中から追い出すこと。「外」においておくことだ。

人を殺さない人権

昨日の『言い残しておくこと』紹介記事をFacebookでシェアしたときに、わたしが書いたコメントを載せておきます。
・人を殺さない人権は、国家から人を殺すことを強制されない自由として構成可能だと思う。

・戦争犯罪人を認めることは、命令であっても拒否する「義務」があるとしなければ理が合わない。

→そして、殺さない人権を認めることは、国家が戦争を遂行することを不可能にするところまで行き着く可能性がある。根源的な転換をもたらすんだ。

「戦争に行きたくないのは、自分勝手」という論が一定のアピールを持つとしたら、それは「国家の命令で人を殺す義務」を想定しているからで、鶴見さんの主張はその真逆をいっている。
わたしは、殺さない人権を支持する。

もう一箇所『言い残しておくこと』から引用します。
なぜ人を殺すのはよくないかというと、たとえ反戦運動にしても、殺すという暴力を容認すると、自分たちの仲間に対する一種の暴力的な支配が出てくる。自分の思想を暴力に拠って守り押しつけるというところまでいくのに歯止めがなくなっちゃうと思う。わたしはそれが嫌なんです。

敵を殺してもいいという考え方は、結局は味方そのものに対しても暴力的になってくる。また自分に対して暴力的になっていく。自己欺瞞を暴力によって支えて、自分のなかに生じる疑いも全部暴力的に圧殺してしまおうというタイプになりやすい。その意味で暴力は否定していきたいという気持が強いですね。

敵に対する暴力は結局仲間に対する暴力的支配につながり、自分個人に対する暴力的支配につながる。 p.290

「敵」というのは戦争の敵に限られない。主義の敵、思想の敵、運動の敵、信仰の敵……すべての敵に対して、「敵だから殺してもいい」と容認したらどうなるのか? 

実は、「敵」の範囲は自明ではない。思想には幅がある。運動には方針・やり方に幅がある。信仰には解釈がある。何でもそうだ、「正しい」としたものから外れたものは「敵」認定できる。それが、仲間であっても。自分であっても。

「敵を殺してもいい」=「存在を抹殺してもいい」の逆のいき方を考えてみたい。
困難かもしれないが、そっちのほうが多様で、生き生きと命が繁茂するような、そういういき方がいい。
言い残しておくこと
鶴見俊輔
作品社
2009-12-16

LAW NOT WAR

The HourというBBCのドラマを観ている。

1956年のエジプトへの英国の軍事介入(スエズ戦争)に反対するデモで、"Law Not War"というプラカードがたくさん掲げられていた。

「世界大戦後は平和主義だった英国が、国連憲章に違反して侵略を始めている」と野党党首が演説している。

総理大臣は「私は平和主義者だ。この行動は平和のための戦いだ」と国民に語りかける。

BBCには政府から報道内容に圧力がかけられる。

いつの時代でも、どこの国でも、同じことが起きると思った。その時に、抵抗の盾になるものが法だ。

Law Not War!

【追記】
DVDを見なおしたところ、LAW NOT WARでした。修正しました。

【想い】発達障害者支援法施行10年を経て

昨日、「発達障害者支援法施行10年を経て」というテーマで、お話をする機会がありました。
他人に聴いていただくことで、じぶんじしんが、「こんなふうに感じて、こんなことを考えていたのか」という気付きがあり、整理をすることができました。専門的な検証といえるものではなく、イチ親が感じている肌感覚にもとづく雑感に過ぎませんが、以下にまとめてみました。

やはり10年の流れは大きい。社会の変化、経済環境、技術の変化、いろいろなものが影響しあって、発達障害者をとりまく状況は変化をしています。

発達障害者支援法(条文)の制定の当初は、「まず、ここに身体/知的/精神障害に加えて、『発達障害』という障害があります」ということを公に認知して、支援の必要性を国が認めた」という意義が最も大きかったわけです。そして、この10年で、「発達障害」という障害の(少なくとも言葉レベルでの)認知は進みました。また、障害者自立支援法の支援対象の障害類型にも認められて、具体的なサービスも受けられるようになりました。

当事者のエンパワメントという意味でも、「わたしは発達障害の当事者です」とカミングアウトする人たちに出会うようになりました。「当事者会」が全国で増えてきていることも、希望を感じる動きです。

発達障害者支援法が力点をおいた、早期発見し早期に療育につなげることも10年で進みました。また、教育現場でも、発達障害のための加配をつけることなどはふつうのこととなりました。特別支援教育に関わる教員で「発達障害って何?」という人は、さすがにいなくなったでしょう。

大学などの高等教育機関でも、発達障害のある学生の存在が認知されて、支援の必要性が認識されて、(遅ればせながら)具体的な取組みも先進的な学校では始まっています。これも、10年前には考えられなかったことです。

ここまで語ってきて、気になることは、「大人になってから」のことです。
発達障害者支援法は、「生涯にわたる支援」を実現するための法律ですが、就労については条文も少なく、具体的な支援を定義するものではありません。
発達障害のある人が、社会に出て、それまでの「教育を受ける立場」から、「じぶんが働く=サービスを提供する立場」になる時の大きな変化に適応できずに、居場所が確保できなくなってしまうことについては、今も有効な策がうたれていないのだと思います。

現在の社会状況のなかで、ほとんどの分野で、業務が高度化・複雑化し、高いフレキシビリティやコミュニケーション能力を素早く求められるようになってきています。そこから、はじき出されて、容易には職を得て定着することができなくなっている。
──しかし、これは、発達障害のある人に限った話ではありません。若者にとっての就労・定着の難しさに対する支援策のなかに、「発達障害のある人」に合わせたメニューが当たり前のように盛り込まれることが望まれています。

また、障害者差別解消法が来年4月から施行されます。これの職業分野での具体化として、改正障害者雇用促進法が同じく来年4月から施行されます。この中で、「合理的配慮」の提供義務が定められています。これも、発達障害に限定(特化)したものではありませんが、当然に発達障害のある人にはその人にあった「合理的配慮」が求められることになります。

ここまで考えてきて、お伝えしたいことは、

・発達障害者支援法は、発達障害のある子どもが成長し、大人になってから社会に適応できるよう、「成長過程の支援」を主に保障していく意義がある。

・社会に出てからの、就労支援や就労定着は、若者支援や障害者雇用促進の(発達障害に特化したものではない)より広い支援のなかに「きっちり発達障害者の存在が位置づけられて、個々のニーズに合わせた」支援が受けられるようになるとよい

ということです。

現在、「発達障害の支援を考える議員連盟」が、発達障害者支援法の改正について提案をまとめているとお聞きしています。どのようなものが出てくるか期待して見守りたいと思います。

法制定までの過程、期待を知るために。

ひとりの人間の生身の限界を前提として

人間は生身の存在だから、常に壊れ続け、それを補う修復と回復を必要としている。
エネルギーは失われ、細胞は死に、器官は摩耗する。
だから、食べて、寝て、細胞をつくり、再生する。
痛んだ心は、そのままにせず、やわらかく包みこみ慰撫が必要だ。
生命の危機が近づくと、熱がどんどん奪われていく。冷えて、こわばって、動けなくなる。温めないと。
温かい食べ物、おふとん、お風呂。

脆さとか弱さとか。ひとりの人間の生身の限界を前提として、仕事や生活を考えて、制度をつくっていかないといけない。
14時間労働、3か月間休みなし。だとか。人間は機械ではないから。傷つき壊れてしまう。
そういう至極まっとうな指摘が、逆に新鮮に思えてしまうじぶんも、身体性を失ったグローバリズムに洗脳されているのかも。

『脱グローバル論』を読んでの感想。


・216ページ 内田樹
国民国家というのは、親族を地域共同体、さらには国家という量的・水平的に拡大していった制度ですけども、幻想的には「拡大家族」です。国民たちは幻想的にも「一家」を形成している。だから、この列島に住む1億3,000万人をどうやって食わせるか、つまり、幼児や老人や病人や働きのないなまけ者を含めて、身内をどうやって食わせるかということが国民経済の根本的な発想になる。確かに国民国家は古めかしい制度ですし、政治的幻想ではあるんですけれども、いいところもある。それはこの政治的幻想が生身の人間のサイズ、生身の人間の寿命、生身の人間身体能力というものを勘定に入れて制度設計されているという点です。人間をモデルにして、制度が構築されている。生きてせいぜい80年、1日に8時間は寝たい、1週間にせめて1日はオフが欲しい、飯は三度食いたい、たまには温泉にも入りたい、そういう生身の人間の欲求や言動を基準にして、社会システムができている。

それに対して、グローバル資本主義は「人間じゃないもの」をベースにして、制度を作る。「人間じゃないもの」と言うより、「一時的にならなれるけれど、長期にわたってそうであることはできないもの」と言うべきでしょうか。時給800円で、1日14時間働いて、3カ月間休みを取らない労働者とか、あれもこれも人が持っているものは皆欲しがって、一生かかっても返せない借金を抱え込んでも買い物をする消費者とか。そういう人ばかりでできている世界のグローバル資本主義の理想社会のわけです。だから、そういう社会を目指して社会改革を推し進める。でも、生身の人間は、80年間そういうふうには生きられない。どこかで倒れてしまう。

・218ページ 内田樹
まず食わせなくちゃいけない身内がいて、彼らを食わせるために仕事を作り出す。そういう順番で平川君は考えていた。生産性とか効率とか利益率と違うところで、人間は経済活動や企業活動を行うこともある。それを支えているのは、身内という概念ですよね。身内というのは、ずいぶんと曖昧な概念であって、どこからどこまで身内に含まれるのか定かじゃないんですけれど。頼ってくる奴がいると、とりあえずそれは身内である、と。たぶん国民国家では伝統的にそういう考え方をしてきたんじゃないでしょうか。腹を減らして奴がいたら、とりあえず食わせてやろうよ、と。そういう惻隠の情があらゆる制度設計の根本にあった。

脆さとか弱さとか。ひとりの人間の生身の限界を前提として。周囲からしたら「問題があるひと」で「なんでそんなことしたの?」とか思われてしまう場合でも、血縁や地縁のある「現実の身内」には見捨てられても、なお、「まぁ、しょうがない。なんとかしよう」と見捨てず手を差し伸べてくれる存在。

「身内」を極限まで拡大した「家族」的国民国家なんてきしょくわるい、と思ってきたけれど。人生、弱さを抱え、個人ではなんともならない、崖や落とし穴に落ちる現実がある。「助けて」とすがれる、「しゃあない、おまえは国民だから」と無条件で手を差し伸べてくれる国であってほしい。
胸苦しいニュースを、見ながら思う。

WAR IS OVER! (If You Want It)

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Yokoさんが、このポスターを、色々な場所で、さまざまな方法でシェアして欲しいと呼びかけています。100以上の言語のバージョンが用意されています。

わたしは、30年くらいの間、"WAR IS OVER"を「戦争は終わった」だと思っていました。今回、日本語版で「戦争は終りだ」とあるのを見て、はっとしました。

「戦争は終わった」だと、だれかが終わらせたという客観的事実を聞いた、みたいな印象です。
「戦争は終りだ」は、じぶんが、「もう終わりだ」と宣言している。これが、正しい訳(というかYokoさんが出しているメッセージそのもの)だったんだと知りました。
「あなたが望めば(If You Want It)」は、「戦争は終りだ」とセットで意味が通る。「戦争は終わった」じゃない。

このことに気づいたから、ブログに載せました。

日本自閉症協会「自閉症・ 知的障害者等の選挙権行使への支援を求める声明」

12月14日(日)に衆議院議員選挙があります。

昨年(2013年)5月に、成年被後見人の選挙権の回復等のための公職選挙法等の一部を改正する法律が成立、公布されました。

・総務省:成年被後見人の方々の選挙権について
http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/touhyou/seinen/

障害のある人が、通常の方法で投票ができないからといって選挙権行使できないようでは、選挙権は絵に描いた餅です。
選挙権は固有の権利です。本人意思の確認が不可欠なことは言うまでもありません。
すべての投票所において、必要な支援を提供して、本人意思の確認を丁寧に行っていただくことを要望します。

日本自閉症協会から12月10日付けで「 自閉症・ 知的障害者等の選挙権行使への支援を求める声明」が出されています。12月7日に、自閉症・知的障害のある青年が期日前投票に行き、本人の意思を確認する方法が見いだせないとして、投票補助を断られたことを受けてのものです。

・日本自閉症協会: 自閉症・ 知的障害者等の選挙権行使への支援を求める声明(PDF)
http://www.autism.or.jp/action/2014/20141210.pdf

以下は抜粋引用です。
投票時に自書できない人には、2名の投票補助者がついて代理投票してもらえるが、投票補助者は投票所の事務員に限られるため、選挙人本人との意思疎通が重要である。

長年実施している東京都国立市では、まず公報紙全体を本人に見せ、次にゆっくり開いて指さしてもらう。指さしが不確実ならもう一度繰り返す。これで確定できないときには、付き添い者等との事前協議で、白紙投票としている。

2013年の総務省自治行政局選挙部長通知「成年被後見人の選挙権の回復等のための公職選挙法等の一部を改正する法律等の施行に伴う取扱いについて」には、「投票を補助すべき者が選挙人本人の意思を確認できないときは、投票できないものであること」と記載されている。
 総務省に「投票できない」の意味を質問したところ、白紙投票とするには本人意思の確認が必要なため、棄権扱いとなるとの回答であった。

しかし、本人意思を投票補助者が読み取れない場合は、それは本人意思が不十分なときもあろうが、逆に投票補助者が本人の意思を読み取る能力に欠けるときもある。総務省通知の「投票を補助すべき者が選挙人本人の意思を確認できないときは、投票できないものであること」という規定は、本人の選挙権を剥奪するものであり、容認出来ない。
 すでに本人が投票所に来ているのであるから、投票する意思があると解すべきであり、「棄権」ではなく「白紙投票」とすべきである。

詳しくは声明全文(PDF)をご参照ください。
ひとりの人として、選挙に参加することをあきらめさせないでください。

名古屋市障害者基本計画(第3次)(案)について意見提出しました

名古屋市障害者基本計画(第3次)(案)について(パブリックコメント)、以下のとおり意見を提出しました。

名古屋市健康福祉局障害福祉部障害企画課 御中

 この計画は、人が幸せになる権利が、様々な理由で妨げられている現状を変えていくための計画であると理解しました。

「第2章 重点的に取り組むべき施策」の5つは、まさしく重点的に取り組み、実現すべきことだと考えます。このうち、第1と第2に関連して、意見を述べます。
第1 障害を理由とする差別の解消を進めるとともに、アクセシビリティの向上と権利擁護の推進を図ります。

第2 生涯を通じて安定した地域生活がおくれるよう、当事者主体の総合的な支援を進めます。

<地域生活について>第3章5 生活環境 (2)住宅・住環境の整備の推進

 NHKで、地域にグループホームを建てようとした際に住民からの反対運動が起きて建設できなかった全国での事例が報道されていました。「住む場所」は、人が生きるうえで最も基本となるものです。「障害がある人が近くに住むことは迷惑だ。やめてほしい」と妨害する行為は差別です。

 名古屋市は、偏見や差別をなくす施策に取り組んでいると思いますが、啓発に留まらず、地域住民の間で起こる差別事例に対して、「差別は許さない」スタンスで仲裁を行う仕組みの実現を、計画に盛り込んでいただきたいです。
 また、問題がこじれる前に、早い段階から、グループホーム建設を名古屋市として支援する体制を整えることも必要と考えます。

 グループホームや一人暮らしなど自立した生活を希望しているにも関わらず、家族介助によって暮らしている人たちが多くいると思います。何から始めたらよいかがわからないため、声を出せていません。そこで、名古屋市として、障害を持つ本人および家族が持つ「誰と、どのような住まいで、暮らしたいか」について実態調査を行い、ニーズ把握を行うことを計画に取り入れていただきたいです。

 愛知県が「既存の戸建て住宅をグループホーム等として活用する場合」に、建築基準法の用途変更手続きについて規制緩和に取り組んでいます。名古屋市としても、同様の規制緩和に取り組み、グループホームの建設を側面的に支援してください

 グループホームの量的充実を計画のなかに取り入れるべきです。

<意思決定支援>

 障害があるために、情報にアクセスできず、十分な理解ができず、自らの意思で選択することができないことが多くあります。
 計画(案)第3章(2)情報・意思疎通の支援の充実.Α嵜靴燭憤媚彖堕婿抉隋意思決定支援」について、期待をしています。

 日々接している支援者が「言語での表出ができないから、意思が存在しない」と決め付けていないか自ら問い、「必ず、この人の意思があるはずだ」と考えて、意思を汲み取るための創意工夫をすることが大切だと考えます。市が新たな意思疎通支援・意思決定支援を検討するに当たって、支援者が集まり、情報交換やお互いのスキルを向上させる場を設ける取り組みを提案します。

<権利擁護>

 障害者虐待防止法が制定され、名古屋市での取り組みも今後進んでいくと思います。
 「理解ができない環境に長時間おかれ続けること」も虐待です。本人の感じていることを想像し、本人を主体とした支援が当たり前に行われるように、療育、教育、就労、生活のすべての場面で周囲の人々の関わり方を見直していく必要があります。
 権利擁護と意思決定支援は表裏一体のものです。障害のある人の意思を引き出し、しっかり聴ける人材を養成してください。

 計画(案)「第3章7 差別の解消・啓発(1)‐祿欧鰺由とする差別の解消と権利擁護事業の推進」には、障害者虐待相談センターの窓口の充実が書かれています。
通報に迅速に対応することはもちろん重要ですが、千葉県袖ヶ浦福祉センターでは、施設の中で行われている虐待について通報がなされず放置されていました。通報を待っていては救済されない場合があります。
 そこで、虐待の危険がある施設や支援機関(ヘルパー事業所なども含む)に対して、第三者監査の仕組をつくり、虐待を早期発見し救済することを計画に盛り込むべきと考えます。

【意見募集】名古屋市障害者基本計画(第3次)(案)

名古屋市が、「名古屋市障害者基本計画(第3次)」について、意見募集(パブリックコメント)をしています。期限は、1月31日までです。

・名古屋市公式ウェブサイト:名古屋市障害者基本計画(第3次)(案)について
http://www.city.nagoya.jp/kenkofukushi/page/0000054377.html
名古屋市障害者基本計画(第3次)(案)についてのご意見を募集します。
 名古屋市では、平成16年4月に名古屋市障害者基本計画を策定し、障害のある人もない人もお互いに人権を認め合い「共に生きる社会」の実現をめざして、ノーマライゼーションとリハビリテーションの理念のもと、その実行に努めてまいりました。
 現在の計画の計画期間が平成25年度までとなっていることから、平成26年度から平成30年度までを計画期間とする名古屋市障害者基本計画(第3次)(案)を策定いたしました。
 この計画(案)につきまして、ご意見がございましたら、「ご意見記入用紙」にご記入の上、お送りくださいますようお願いいたします。

平成26年度からの5年間の計画になります。こういう機会は貴重です。計画に目を通し、ひとことでもいいから、わたしたちの意見を届けましょう。

わたしは、「第2章 重点的に取り組むべき施策」の5つは、まさしくやるべきことだと考えます。

第1 障害を理由とする差別の解消を進めるとともに、アクセシビリティの向上と権利擁護の推進を図ります。

第2 生涯を通じて安定した地域生活がおくれるよう、当事者主体の総合的な支援を進めます。

第3 雇用・就業に関する支援を拡充します。

第4 障害者を支援する人材の育成や確保を図ります。

第5 地域における防災対策を推進します。


第2章の内容4ページ(第2章のPDF)だけでも、読んで、希望を伝える価値がありますよ!

第3章(PDF)には、名古屋市が取り組む(取り組んでいる/これから取り組む)施策が書いてあります。もしも、この中に「これは」と思うものがあれば応援コメントを書くのもいいでしょうし、「あれがない」と思うものがあれば、指摘をして、意見を伝えましょう。

計画(案)と意見はこちらのページから。

・名古屋市公式ウェブサイト:名古屋市障害者基本計画(第3次)(案)について
http://www.city.nagoya.jp/kenkofukushi/page/0000054377.html

国の控訴に思う【成年後見選挙権回復訴訟】

・成年後見訴訟:政府が控訴 選挙権喪失巡り「混乱を回避」− 毎日jp(毎日新聞)2013年3月28日
http://mainichi.jp/select/news/20130328k0000m010027000c.html
 政府は27日、成年後見人が付いた人は選挙権を失うと定めた公職選挙法の規定を違憲と判断した東京地裁判決について、東京高裁に控訴した。新藤義孝総務相は同日、記者会見し、控訴の理由を「今回の違憲判決が確定すると、全国各地の選挙で直ちに成年被後見人の取り扱いが混乱する」と説明した。

この訴訟について、提訴時から注目していました。違憲判決が出て、控訴を見送るかもしれないという観測もありましたが、国が控訴しました。

・成年後見訴訟控訴:法改正、各論で賛否 今国会成立は困難− 毎日jp(毎日新聞) *解説記事
http://mainichi.jp/select/news/20130328k0000m010126000c.html

そもそも、認知に障害がある人が投票できない定めになっていることについて、根源的に感じていることを書きます。

成年後見人をつけられた人の選挙権の話で、二言目には「不正投票の防止」が出てくるのはなぜなんでしょうか?
それを口にして違和感を感じないことが、逆に不思議です。

その人がイメージしている「不正」の内容を具体的に明らかにして語ってほしいと思います。
国は、成年後見選挙権回復訴訟で「不正投票の誘導が行われる恐れがある」と主張しました。

しかし、この主張は、「認知に障害がある人は投票の判断ができず、他人の『あやつり人形』になるに違いない」という決めつけのようにわたしには聞こえます。

この主張を退けた東京地裁判決が正しいと思います。

東京地裁2013年3月14日の判決要旨から抜粋。
■「選挙の公正」を害するおそれがあるか
 能力がない者に選挙権を付与すると、第三者が不正な働きかけをしたり、白票や候補者以外の票を投じたりして不公正、不適正な投票がありうる。しかし、その頻度が相当高く、結果に影響を生じさせかねないなど選挙の公正が害されるおそれがあると認める事実は見いだしがたく、推認する証拠もない。

今回違憲とされた公職選挙法の規定が改正されたとしても、現行の本人確認のやり方や、自筆で候補者名や政党名を書かなければならない選挙は、実質的には選挙権が行使できないひとがいます。

「成年後見人がついたら一律に選挙権停止」なんていう"手抜き"をしている場合ではなく、
認知に障害があっても、選挙権を実質的に行使できるようにする方法のくふうに取り組んでいただきたい。

「投票率が低い」ことが非難がましく言われますが、選挙権があっても投票に行かない人の中には、「わからないから」「行けない」人が相当数いると思うのです。
「投票者フレンドリーな選挙」がいいです。

そして、結局戻っていくのは「私たちのことを私たちのいないところで決めないで」という原則です。

選挙にも参加ができないなんて。
国が、「排除」をして平気な顔をしているような気がしてします。
選挙権のような人権(社会の決定に参加する権利)が、「奪われていても当たり前」とされていることをスルーしてはいけないんだ。そう思います。


<参考にしたサイト>
・障害者欠格条項をなくす会(エッセイ):被後見人の選挙権回復訴訟
http://www.dpi-japan.org/friend/restrict/essay/koukennin01.html

・障害者欠格条項をなくす会(エッセイ):また せんきょに 行きたい
http://www.dpi-japan.org/friend/restrict/essay/koukennin02.html

・「べからず選挙法」の打破を1 成年被後見人の選挙権はく奪は違憲 3・28国に控訴させないためにご協力を - Everyone says I love you !
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/c4c38af9505b065592e16e0af73899cc

衆議院選挙の結果を得票率でふりかえってみた

このブログで、選挙について語ることは初めてですが、どうにも不思議な結果に思えて、データをもとに分析しておきたいと思い、書きました。

まず、2012年衆議院選挙の結果です。
自民294、民主57、維新54、公明31、みんな18、未来9、共産8、社民2、大地1、国民1、無所属5

衆議院450議席中、自民党が294議席(獲得議席率65.3%)を占めました。野党第一党が民主党57議席ですから、自民党の完勝です。

内田樹先生が、小選挙区制のねらいについて、こう書いています。
小選挙区制は得票率と議席率が同期しない制度であり、わずかな「風向き」の変化で、ドミノ倒しのように一政党が地滑り的勝利を収めるように制度設計されている。

…略…

それよりは「わずかな入力差が大きな出力差となる」複雑系モデルの方が、有権者の変化を反映しやすいし、なにより政治家にひりひりした緊張感を与えることができる。
定常的であるより、頻繁に揺れ動く「不安定な政体」の方が「生命」の本態に近いのではないかと、そう考えた人がいたのだろう。
なかなかの知恵者である。

・選挙結果について (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2012/12/17_1053.php

安倍自民党が掲げた政権公約があるわけですが、絶対安定多数の議席を獲得した結果を、国民が「原発推進を選んだ」とか「右傾化した」とか「改憲に舵を切った」といったふうに、急激に大量に価値観を変えたといったふうに受けとめるのは実像に合っているのでしょうか。少なくとも、自分の実感とは大きなずれがあります。

そこで、党派別得票数(どの政党が何票獲得したか)と獲得議席率(当選議席数の全体に占める率)のデータでふりかえってみたいと思います。中日新聞12月17日朝刊に掲載されていた表にもとづいています。
この表によると、自民党の得票率は、小選挙区で43.01%、比例代表では27.66%となっています。それぞれ獲得議席率を並べて見てみましょう。

<自民党>
小選挙区 得票率 43.01% ⇒ 小選挙区における獲得議席率 79.00%
比例代表 得票率 27.66% ⇒ 比例代表における獲得議席率 31.63%

小選挙区の獲得議席率の高さが際立っています。
小選挙区では他候補者より1票でも多ければ議席を総取りする仕組みだからですね。自民党は、得票率2位の民主党(得票率22.81%⇒獲得議席率9.00%)を大きく引き離していますから、小選挙区での結果によって「地滑り的勝利」が起きています。

それから、注目したいのは、公明党の小選挙区と比例代表の得票率の差です。

<公明党>
小選挙区 得票率  1.48% ⇒ 同 獲得議席率  3.00%
比例代表 得票率 11.84% ⇒ 同 獲得議席率 11.86%

これは公明党が、小選挙区での立候補者をしぼりこみ、連立相手である自民党候補への投票に協力しており、比例代表では公明党支持者が公明党にダイレクトに投票しているからではないでしょうか。
小選挙区と比例での投票先の使い分ける投票行動は、意識的に行われているのでしょうし、自民党が公明党と手を結び続ける理由がここから見て取れます。次回の選挙で、公明党支持者が小選挙区で自民党以外に選挙協力をした場合、結果が逆にブレる可能性が高いので、今回自民党が単独過半数を大きく超えていても、公明党と連立政権を組まない選択肢はないのだと予想します。


【参照記事】
 中日新聞の表そのものはウェブに掲載されていないので、参考記事を貼っておきます。

・自民、得票4割で議席8割=小選挙区の特性浮き彫り【12衆院選】:gooニュース(時事通信社配信記事)
http://news.goo.ne.jp/article/jiji_elex/politics/elex/jiji-121217X616.html

「マクルーハンのスマートフォン」を読んで

 昨日の記事は前置きです。最近読んで、目からうろこが落ちた記事を紹介します。

POLAR BEAR BLOG: マクルーハンのスマートフォン

 かいつまんで引用をしようと思ったのですが、断念。どの部分も重要なので読んでから戻ってきてもらえるとうれしいです。


 おかえりなさい。


 個人が発信者として自らの情報を開示しソーシャルメディアにデータを提供する。そこに蓄積された「ビッグデータ」を解析してビジネスに利用しようとする動き(例えば、その人が興味を持ちそうな宣伝を表示したりといった最適化は既に行われています)。個人は、自分のデータを利用されることを知りながら(意識せずに「同意」を与えて)個人情報を書きまくってしまう。

 なぜ? ばかなの? ──ばかなのではなくて、人間が持つ指向性の存在を、マクルーハンは指摘しています。参照記事では、次のようにマクルーハンの主張をかみくだいて説明をしてくれています。

◯人間は「自らの身体の拡張」であるはずのテクノロジーに、自ら(「ナルシズム」の語源となったナルキッソスのように)恋をしてしまう。

◯私たちは自分の拡張(テクノロジー)に「それと知らずに恋をする」。魅せられ、夢中になり、濫用している自分に気づかず、耽溺してしまう。

 なぜ私たちは自動車やテレビが好きか。それは、私たちの身体を拡張したモノだから。ナルキッソスが水面に映った自分自身に恋をするように、「拡張した自分自身」に恋をしてしまう。
 そのことを、マクルーハンは「テクノロジーに対する偶像崇拝」(idolatry of technology)と呼んでいるのですね。

 たしかに。
 スマートフォンって、"超能力"ですよね。テレパシーだとかテレキネシスだとか千里眼とか無限の記憶力だとか。スマートフォンを手にして「なにこれ?便利すぎる」「楽しすぎる」と魅せられ、夢中になり、耽溺してしまっている「わたし」は、より賢く、耳がよく、声が通る存在に拡張された「ワタシver.2」に恋をして抜けられなくなっていく。
 そして、恋する「わたし」は、「ワタシ」に乗っ取られ、自動制御された状態になる。

 その恋は最初「全能感」に近い満足感を与えてくれたが、いつしか「無いと耐えられない依存状態」をつくりあげ、必要もないのにつぶやいたり、不快になるとわかっているのに他人の声を聴き続けることをやめられなくなってしまう。(それが昨日の私の記事にもあらわれていますよね。机に座ってでないとできなかったPCが24時間手元にあるスマートフォンに変わることで24時間自動制御状態になってしまった。情報がオーバーフローしているのにやめられなくなっている)

 「テクノロジーは単なる機械で、たまたま今はハマっているだけ」と思うのは油断かもしれません。スキだらけで危険。「拡張されたワタシ」だから、恋に落ちるのは必然。耽溺して無自覚に自動制御されてしまっているという自覚をしようと自戒。

 ナルキッソスは、水面に映った姿から目を離すことができなくてやせ細って死んでしまうんですよね。


・ナルキッソス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%83%E3%82%BD%E3%82%B9

【これも面白かった】
・「 隠れ貴族」の存在 - 女。MGの日記。
http://d.hatena.ne.jp/iammg/20120701/p1

下村博文衆議院議員(親学推進議連事務局長)のブログ記事

5月26日に下村博文衆議院議員(親学推進議員連盟事務局長)が書かれたこの記事について、

発達障害を予防する伝統的子育てとは | 下村博文

私は、「親学推進議連は、大阪維新の会の条例案を巡る批判を全く理解していないようだ」とTwitterで批判しました。
下村氏の上記記事のコメント欄には批判的コメントが集まっていましたが、6月2日に反応記事が出ました。

5月26日「発達障害を予防する伝統的子育てとは」のブログの​コメントに対して | 下村博文

内容は、長くないので全文をお読みいただけたらと思います。

日本自閉症協会会長の見解を引き、「発達障害は脳の機能的な障害であり、予防という概念が当てはまらないという。そしてこの医学的見解が一般的である」と認め、
次回の「親学推進議連では、このようなことから金子保氏と逆の立場の医学専門家や発達障害児のための団体の代表の方をお呼びし講演をしていただくことにした…。」(この「…」には何が込められているのでしょう…?)と対応をとることについても明らかにしています。

この対応は、「親学」主唱者が撒き散らした「母原病」を想起させる説に染まった頭を、少しでも中和させる意味があると思いますので、評価します。

それから、この一文。
また今後、「家庭教育支援法」を制定し、必要な家庭の支援を国や自治体、またNPO等の民間団体が行えるようにしたいと考えているが、発達障害は家庭教育支援法から除き、関係者の方から他の要望があれば対応すべきこととした。
「家庭教育支援法」案を見てみないことにはわかりませんが、大幅に理念を変えてくるのか? それとも、「伝統的子育て」価値観を強調したもののままなのか? 注目し続けたいと思います。

下村博文議員は、ディスレクシアのお子さんをお持ちとのことを初めて知りました。

なんとも言えない苦さを感じながら、毎度思うことですが、
当事者だから、親の立場だから、といって発言がすべて正しいわけではありません。
ことに、発達障害のあるかたへの支援は、今も試行錯誤の過程にあります。

「発達障害」がひとくくりにはできないこと、
「親」だからとひとくくりにはできないこと、
「政治的信条」は様々だということ(当然のことながら)。

だから複雑。
科学的な見識とプラグマティックなアプローチを基に行動していくしかありません。


<大阪維新の会「家庭教育支援条例案」に対する声明>
 学術系の団体からも声明が出ています。

・2012.05.14 「大阪維新の会」に対する声明文をUPしました。 | 日本児童青年精神医学会
http://child-adolesc.jp/topics/2012.05.14-%E3%80%8C%E5%A4%A7%E9%98%AA%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%AE%E4%BC%9A%E3%80%8D%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A3%B0%E6%98%8E%E6%96%87%E3%82%92up%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82.html

・大阪維新の会・大阪市会議員団が提案した「家庭教育支援条例案」に関する日本小児神経学会の見解
http://child-neuro-jp.org/visitor/iken2/20120525.html

まとめ記事:「家庭教育支援条例(案)」関連

 大阪維新の会で提出が検討された「家庭教育支援条例(案)」に関して、参考記事をまとめておきます。

 カイパパ通信で書いた記事は以下の3つです。
 
・大阪維新の会「家庭教育支援条例(案)」に反対します(2012年5月6日)
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52395036.html

・「家庭教育支援条例(案)」高橋史朗氏緊急声明に思う(2012年5月8日)
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52396482.html

・怒りではなく(震え、こわばり、緊張)(2012年5月9日)
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52396714.html

 ここからが参考記事。まず、lessorさんの記事から。

・大阪市「育て方が悪いから発達障害になる」条例案について - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20120502/1335985207
 私が最初に条例案の存在を知った記事です。この記事に込められた、やるせないぐらいの憤りが胸に突き刺さりました。

・たとえ85000回読まれたって - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20120506/1336325304
 lessorさんのTwitterやFacebookで拡散され、条例案の存在を広く知らしめましたが、この記事が書かれた5月6日時点ではマスコミ報道はほとんど無く、そのことに対する絶望感が綴られています。マスコミは、大阪維新の会が「白紙撤回」した5月7日の後に一斉にテレビ・新聞ともに報道をしました。マスコミは、「絵」になる、はっきりした「事件」が必要ということでしょう。

・維新の会大阪市議団へ要望書提出〜家庭教育支援条例案〜|zyzysanのブログ
http://ameblo.jp/makami1968/entry-11244745351.html
 要望書を提出するという行動の意味を実感しました。この記事で、要望書の全文を読むことができます。

・日本自閉症協会:大阪市会大阪維新の会への要望書
http://www.autism.or.jp/report05/youbousyo/20120506.pdf
 日本自閉症協会から5月6日付で出された要望書です。

・JDDネット:大阪維新の会 大阪市議会議員団への要望書
http://jddnet.jp/index.files/archives2012/pdf/ishinnokai_youbou.pdf
 日本発達障害ネットワーク、全日本手をつなぐ育成会、日本発達障害福祉連盟、全国児童発達支援協議会の連名で提出された要望書がこちら。

・大阪維新の会のエセ科学的「家庭教育支援条例(案)」逐条批判 (松永英明) - BLOGOS(ブロゴス)
http://blogos.com/article/38257/?ignore_lite
 条文は、なかなか一人では読み通すことは難しいのですが、これは、条例案について、全条文をひとつずつ批判をした記事。意見を参考にしながら、自分の意見をまとめることができます。(全文を読み通すことができる効果が大きいです)

・【堺からのアピール】教育基本条例を撤回せよ : こんなものいらない!維新「家庭教育支援」条例案:住友剛さん
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/6436771.html
 大阪市が既に、次世代育成支援対策推進法にもとづいて、大阪市としての行動計画が策定されており、そこでは子育て支援策や虐待防止策などについてもプランが練られているにも関わらず「なぜこの条例案が必要か」という指摘。政策を立案・実行するために必要なプロセスをすっ飛ばしていきなり条例ではないという至極もっともな批判です。

 ここからは、高橋史朗氏に関して。
 条例案の問題性がネット上で議論されているなかで、親学推進協会とその理事長である高橋史朗氏の存在がクローズアップされていきました。

・トンデモ教育論「親学」を推進してる人たちの話 - 俺の邪悪なメモ
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20120504/p1

 5月8日に高橋氏は「緊急声明」を出しました。

・親学推進協会理事長 高橋史朗氏「家庭教育支援条例案に対する緊急声明」(2012年5月8日)
http://oyagaku.org/userfiles/files/rinnji20120508.pdf

・「親学推進協会理事長 高橋史朗」さんという人の「家庭教育支援条例案に対する緊急声明」に対して: 裕子ねーんね
http://yuuko-nenne.seesaa.net/article/269144540.html
 この声明に対して、私も記事を書きましたが、こちらの記事が世界保健機関の「国際生活機能分類(ICF)」に照らして丁寧な批判をされています。おすすめです。

・立岩真也「障害学」における「社会モデル」(social model):arsvi.com:立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点
http://www.arsvi.com/ds/smd.htm
 こちらは参考。「障害学」における「社会モデル」を専門的に学ぶためにどうぞ。

・服巻智子公式ブログ:大阪維新の会の家庭教育の条例案撤回に思う。
http://tomokoworkdiary.sagafan.jp/e502852.html
 「親学」が広まっていることについて、服巻さんが伝え聞いたことを紹介した記事です。「短絡的に親を責める空気だけは無くなってほしい」のことばに共感。

・4/5政経倶楽部:高橋史朗氏「富に処する教育〜親学の視点から」講演まとめ - Togetter
http://togetter.com/li/284063
 4月5日にエントリされていた千葉市議会議員 田沼隆志氏による、高橋史朗氏の講演まとめ。服巻さんの記事にあるような親学の研修会で、どのような内容が話されているのかが想像できます。

・教育再生・東京円卓会議:第3回(平成24年 4月11日)会議録
http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/kyouikusaisei/pdf/kaigiroku_3.pdf
 東京都公式ウェブサイトに、よりはっきりと高橋史朗氏の思想がわかる会議録がありました。4月11日に東京都が開いた教育再生・東京円卓会議です。出席者は、石原慎太郎都知事、猪瀬直樹副知事、乙武氏、中原徹氏、そして高橋史朗氏。読んでいて、私は寒気がしてきました。「親学」が──というより、この人たちの「信念」が恐ろしい。長いですが、一読をおすすめします。

 最後に、高橋氏の声明に対する切れ味鋭い批判記事を紹介。ここまで論理的に書ける知力もさることながら、丁寧に「付き合う」ための労力とエネルギーに敬服します。

・親学の高橋史朗氏による緊急声明に関して - ベムのメモ帳Z
http://d.hatena.ne.jp/bem21st/20120511/p1
「蛇足の蛇足」にある指摘は、胸が痛いです。
「自閉症が先天的な障害」であるとしたら…? 遺伝? 胎児期のアクシデント?──について、考えたことのない親はいないのでは。しかし、わが子に関して「既に起きたこと」は考えてもしようがないと。タブー化してきた「ツケ」として、疑似科学や代替医療につけこまれるリスクは確かにあるのでしょう。

 以上です。


「見たくもない」、「聴きたくもない」気持ちのときは、耳をふさぎ、目を背けておくべきだと私は思っています。大切なのは、心の平安。

 ただ、この「家庭教育支援」に関する件は、いつか参照する必要が出てくると予想しています。




<大阪維新の会「家庭教育支援条例案」に対する声明> 2012年6月2日追記
 学術系の団体からも声明が出ています。

・2012.05.14 「大阪維新の会」に対する声明文をUPしました。 | 日本児童青年精神医学会
http://child-adolesc.jp/topics/2012.05.14-%E3%80%8C%E5%A4%A7%E9%98%AA%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%AE%E4%BC%9A%E3%80%8D%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A3%B0%E6%98%8E%E6%96%87%E3%82%92up%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82.html

・大阪維新の会・大阪市会議員団が提案した「家庭教育支援条例案」に関する日本小児神経学会の見解
http://child-neuro-jp.org/visitor/iken2/20120525.html

怒りではなく(震え、こわばり、緊張)

 大阪維新の会の「家庭教育支援条例案」について書いた記事への訪問とコメントをありがとうございます。

 マスコミで流れる映像や記事や、Twitterやブログでの、強い語気でなされる批判を読んで、この抗議運動に対して、違和感を覚えるかたもいらっしゃるようです。
 今回の騒動のせいで、「発達障害」や「障害者団体」が「こわい」「近づきたくない」存在のように受けとめられないか? そういった心配もあることでしょう。

 私は(自分でもめんどくさいやつだと思うのですが)、そういったメタな視点も、とても気になるタチで。どうしたものか、どう、この気持を表現したらよいかとずっと考えています。



 直接的な「答え」にはなりませんが、書いてみますので、読んでいただけたらと思います。

 みなさんは、大阪維新の会への要望書提出のニュース映像をご覧になりましたか?
 私は、FNNニュースの映像をみて、強く印象に残った箇所があります。

 大阪維新の会市議団の2名が、言葉(おそらく陳謝の言葉)を述べて、深々と頭を下げます。
 その瞬間、要望書を提出した女性(たぶん母親)2名が反射的に頭を下げようとして、一瞬ためらうのです。本当に瞬間です。

(抗議をしにきたのに。頭を下げられたからといって、お辞儀を返していいのだろうか?)

 こういう思いがかすめたのではないでしょうか? 一瞬のためらいの後、女性たちはお辞儀を返します(深々とではなく。しかし、礼は尽くすため)

 0:16秒から0:18秒の本当にわずかな時間です。葛藤が垣間見えた気がします。

FNN20120507
これは、0:18秒の映像


 私は、想像します。

 市議団を訪問をするために、代表者を決めて──
 仲良くするためではなく、抗議のための訪問で、相手の反応はわからないから、何を言えばよいのか、どんな表情をしたらよいのか。

 あんなにたくさんの、テレビカメラや報道陣に取り囲まれるなんてことは、一生に一度あるかない。
 あの場に立つ──ということは、全国の人々に「自分は、身内に発達障害のある者がいます」とわかってしまうことでもあります。非常に、勇気の要ることです。

 震えるでしょうし、緊張して、こわばった顔になってしまうでしょう。お辞儀していいのかどうなのかだって、迷って当然です。
 だけど、ニュース映像ではそれはわかりません。映像を見て、「議員が深々と頭を下げているのに、障害者団体の代表はふんぞり返っているじゃないか」「謝らせている強者」のような印象を与えた可能性があります。

 心のなかのことまでは、想像力を働かせることでしか、見えてきません。

 私は勝手に他人の心を忖度しすぎているかもしれませんね。やっぱり、障害者団体は「こわくて」「近づきたくない」存在でしょうか?

 私は、この時に提出した要望書の全文を読みたいと思いました。ここに掲載されていました。

・維新の会大阪市議団へ要望書提出〜家庭教育支援条例案〜|zyzysanのブログ
http://ameblo.jp/makami1968/entry-11244745351.html

 注目したのは、要望項目の2番──
2. 発達障害のある人々とその家族への支援の在り方について、当事者団体、専門家を含めた勉強会を開催してください。

 大阪維新の会市議団のみなさん、一緒に勉強しましょう。という呼びかけです。

 発達障害は、様々な困難さがあります。「こうすればよくなる」という「特効薬」的なものは、ありません。
 だから、一緒に勉強して、本人が幸せに暮らせるように考えていきませんか?

 と。怒りではなく、震えながら、緊張してこわばった表情かもしれないけど、語りかけたい。そう聞こえてきました。



 ……



 このブログを読んで下さっているかたがたなら、きっとご存知だと思います。カイパパは、支える立場の人たち(勝手に「仲間」だと思っています)が、ボタンの掛け違いから、いがみ合ったり、すれ違ったりすることが大変苦手で、過敏に反応して落ち込んだりめげたりしてしまいます。

 ……私がこんなこという筋合いではないのは承知していますが、
 みんな仲良く、やりましょう。ウィズらぶ。

「家庭教育支援条例(案)」高橋史朗氏緊急声明に思う

 前回の記事で書いた大阪維新の会「家庭教育支援条例(案)」ですが、白紙撤回されました。

・FNNニュース: 条例案に「発達障害は愛着不足が要因」と不適切表現
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00222793.html

 こうままさんの感想が今の私の感じていることにしっくりきます。

・こうくんを守れ!!!
http://koumama.seesaa.net/article/269099729.html
すぐに親の会の皆さんが動いて下さった成果です。
きっと、GW返上で動いて下さったんだと思います。
大阪LD親の会の皆さん、大阪自閉症協会の皆さん、ありがとうございました&お疲れ様でした。
やっぱ、親の会は「運動体」でなきゃアカンですね。

でも
速攻で白紙撤回
なので
白紙撤回を撤回して
一部不適切表現だけ直して再提出
なんてことにならないように
ちゃんとみんなでじ〜っくり見てないと、ですね。

今回の件で、「親学」は要注意だって事がわかって良かったです。

 親学推進協会理事長の高橋史朗氏から「家庭教育支援条例案に対する緊急声明」が出ていることを知り、読みました。 
http://oyagaku.org/userfiles/files/rinnji20120508.pdf

「条例案」について、高橋氏はこう批判をしています。
5 月 6 日に大阪維新の会は、「本条例は、維新案ではありません。ある県で提出された条例案を議員団総会にて所属議員に『たたき台のたたき台』として配布したものであり、今後の議論の材料として提出したもの」であることを明らかにしています。

そのことは同条例案の前文に「本県の」と書かれていることからも明らかであり、ある県の極めて粗雑な非公式な私案が一体なぜマスコミに流れたのか理解に苦しみますが、私に対する不当な批判も散見されますので、見解を明らかにしておきたいと思います。

同条例案に「乳児期の愛着形成の不足が軽度の発達障害やそれに似た症状を誘発する大 きな要因」「伝統的子育てによって(発達障害は)予防できる」と書かれていることに対して、「親の育て方が原因であるような表現は医学的根拠がない」というのが、批判の最大のポイントになっています。この批判の箇所については、私の見解とは異なる点があります。

 ──どう異なるかについては、それぞれ目を通していただきたいと思いますが。

 私の率直な感想は、このかたは「善意」と「確信」をもって、持論を主張されているのだろうなあ……ということです。
 これは、皮肉ではありません。引用されている様々な学説や主張は、事実、存在します。

 しかしながら、たとえば、「声明」がWHOを引照するくだりで、「世界保健機関(WHO)は11年前に障害分類を改定し、個人の障害を環境との関係性の中で捉え、個人因子と環境因子の相互作用を重視する視点に転換しました。」とありますが、これは、ICF(International Classification of Functioning, Disability and Health)のことを言っていると思われます。
厚生労働省:「国際生活機能分類−国際障害分類改訂版−」(日本語版)の厚生労働省ホームページ掲載について 以下、ICFに関する引用はこのページから)

 ICFが画期的だったことは、「身体や精神の機能的障害」のみに注目するのではなく、「背景因子」との相互作用として、「障害」として捉えていることです。(「個人因子」と「環境因子」の相互作用ではなく)
 環境因子として、カテゴリー化されているものを列記すると、「生産品と用具」「自然環境と人間がもたらした環境変化」「支援と関係」「態度」「サービス・制度・政策」です。ちょっと、わかりにくいですよね。
 たとえば「生産品と用具」の例で言うと、移動の制限のある人が移動のための福祉用具を社会から提供されている場合には、「移動ができないという機能的障害」が、環境因子によって、「移動ができるという状態」に変化するといった健康状態と環境との相互作用を認め、障害分類をしようとするものです。

 ICFの目指していることを端的に表している節を長いですが引用します。

5-2. 医学モデルと社会モデル

 障害と生活機能の理解と説明のために,さまざまな概念モデルが提案されてきた。それらは「医学モデル」対「社会モデル」という弁証法で表現されうる。
医学モデルでは,障害という現象を個人の問題としてとらえ,病気・外傷やその他の健康状態から直接的に生じるものであり,専門職による個別的な治療というかたちでの医療を必要とするものとみる。障害への対処は,治癒あるいは個人のよりよい適応と行動変容を目標になされる。主な課題は医療であり,政治的なレベルでは,保健ケア政策の修正や改革が主要な対応となる。
一方,社会モデルでは障害を主として社会によって作られた問題とみなし,基本的に障害のある人の社会への完全な統合の問題としてみる。障害は個人に帰属するものではなく,諸状態の集合体であり,その多くが社会環境によって作り出されたものであるとされる。したがって,この問題に取り組むには社会的行動が求められ,障害のある人の社会生活の全分野への完全参加に必要な環境の変更を社会全体の共同責任とする。したがって,問題なのは社会変化を求める態度上または思想上の課題であり,政治的なレベルにおいては人権問題とされる。このモデルでは,障害は政治的問題となる。

 ICFはこれらの2つの対立するモデルの統合に基づいている。生活機能のさまざまな観点の統合をはかる上で,「生物・心理・社会的」アプローチを用いる。したがってICFが意図しているのは,1つの統合を成し遂げ,それによって生物学的,個人的,社会的観点における,健康に関する異なる観点の首尾一貫した見方を提供することである。
(一部改行、強調はカイパパが加えた)

 ICFは、障害の分類法として「第1部 生活機能と障害」と「第2部:背景因子」とで分けていることが特徴です(生活機能と障害は背景因子との相互作用によって変化しうる)。また、WHOがICFを定めたのは、障害分類を行う(評価する)ためのツールとしてです。障害の原因を特定するためではありません。
 したがって、高橋氏が「声明」の中で「個人因子」と「環境因子」だけに触れていることは、ICFの引照としては、ポイントを外しているように思います。(※「個人因子」と「環境因子」は、「背景因子」の中での分類)。

 ICFに関して述べてきましたが、「声明」の中で引照されているその他の学説についても、前提条件や細かな用語の使い分けなどが省かれているなどして、元々の学説の主張からずれているのではないか?という疑問があります。それは、高橋氏が「善意」と「確信」があまりにも強いがゆえに、ご自身の主張に引き寄せてしまっているからではないでしょうか。

 ただし、「声明」に含まれている「しかし、二次障害に環境要因が関係していることは明らかですから、二次障害については、早期発見、早期支援、療育などによって症状を予防、 改善できる可能性が高いといえます。」この主張には同意します。

 二次障害の防止のために、医療・教育・福祉各分野が連携して具体的な支援を提供していくことが本当に必要です。その実現のためには、養育者(親であることが多いでしょうが、親に限らず、子どもの一番近くにいる人)を叩くのではなく、養育者を支えることに、地道に、丁寧に、お金もマンパワーもかけていくしかないと私は考えます。

「子ども本人の利益を最大化する」こと──を目的とすることで合意ができれば、様々な立場や考え方の人たちが、そこを基点として、具体的なアクションをとっていくことができます。
 そのためには、障害特性を理解した、信頼できる専門家(最初に出会う保健師、医師、心理士、保育士から教師、ヘルパー……長くリストは続きます)が、相談できるところにいてほしい。「この人」の成長を、みんなで考えて、助けてほしいです。
 
 子育ては親だけではできません。
 親だけで「失敗の許されない」「完璧な」子育てをすることが、「世間」から要求されているような、そんな圧力を感じさせるようなことをしないでください。
 あなただけの責任ではないよ。しんどいときは助けあって、みんなで子育てしていこうよ! そういうことを、身近な人たちから、本気で声をかけあっていきましょうよ……お願いします。

(続きの記事)
・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 怒りではなく(震え、こわばり、緊張)
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52396714.html

【参考リンク】

ICFについて(ちょっと難しくて、読み通すのはつらいですが)
・厚生労働省:「国際生活機能分類−国際障害分類改訂版−」(日本語版)の厚生労働省ホームページ掲載について
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/08/h0805-1.html

ICFを初めて勉強したときに感動して書いた記事がありました。
・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 【基礎知識】WHOの新しい障害の定義:「国際生活機能分類ICF」
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/133100.html

大阪維新の会「家庭教育支援条例(案)」に反対します

 「大阪維新の会」 大阪市会議員団が提出を検討しているという「家庭教育支援条例(案)」を読みました。

 「既視感」を覚える文言が並んでいました。
(前文)

 近年急増している児童虐待の背景にはさまざまな要因があるが、テレビや携帯電話を見ながら授乳している「ながら授乳」が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題があると思われる。
 さらに、近年、軽度発達障害と似た症状の「気になる子」が増加し、「新型学級崩壊」が全国に広がっている。ひきこもりは70万人、その予備軍は155万人に及び、いきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている。
第4章 (発達障害、虐待等の予防・防止)

(発達障害、虐待等の予防・防止の基本)
第15条
乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる


(伝統的子育ての推進)
第18条
わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する

 正直言って、「またか…」と目の前が暗くなりました。くりかえしくりかえし蘇ってくる「自閉症・発達障害が親の育て方が原因である」という誤った主張。それが「条例案」というかたちで表に出てきたことにめまいを覚えました。

 以下、様々な方々が書いてくださった記事リンクを紹介します。

 私は、lessorさんのこの記事で条例案の存在を知りました。lessorさんは支援者の立場ですが、親の気持ちにとても近いところで的確な批判をしています。

・大阪市「育て方が悪いから発達障害になる」条例案について - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20120502/1335985207
 障害を個人化する「医学モデル」は近年「社会モデル」の台頭によって批判を受けやすくなっているが、この「育て方モデル」はいっそう最悪である。日本で「母原病」なんて言葉が広まったのはおよそ30年前。自閉症児の母親は冷淡な「冷蔵庫マザー」であると言われたのは1940年代から70年代ぐらいにかけてのことだったか。「科学的知見」とやらは、ずいぶん時計の針を戻したものである。

 被虐待児に発達障害と同様の「症状」があらわれることが有名な精神科医の著作によって指摘されたため一気に広まり、自分は「子育て」と「発達障害」の関連について問われれば「『一般的な子育て』の結果として『発達障害になる』ということはない」と説明をするようになったのだが、そんな現場の慎重な言葉選びさえもこの条例案を読めばバカバカしく思える。これが「親を追い詰める」のではなく「親支援」になると思っているのだから、おそらく障害をもつ子どもたちの親との関わりなんてほとんどない人間が考えたのだろう。

 「発達障害」による子どもたちのしんどさを軽減できるようにと考えて「社会的」な実践を積み上げてきたことが、このような形で「発達障害は予防できる」に飛躍されてしまったのだとしたら、もっと実践の中身を正確に見ろ、と言うしかない。そこでいう「社会」は「親子」という単位で完結するはずがないし、ましてや「育て方」などという相互作用に還元できるはずがない。

 lessorさんが書いている「母原病」の問題性について、所長のblogが端的に指摘しています。

・所長のblog: 大阪市・家庭教育支援条例(案)に強く反対の意を表明する
http://michiaripsy.blogspot.jp/2012/05/blog-post.html?spref=tw
この条例案を目にした時、すぐにベッテルハイムの「冷蔵庫マザー説」が浮かんだ。
自閉症の暗い歴史の一つとして、1940年代にベッテルハイムが提唱した「自閉的な行動は母の冷淡な態度による」という「冷蔵庫マザー」説が広まった。これにより自閉症の子をもつ多くの母親は傷つき、自責の念、罪悪感にかられていた。この歴史を日本は今、繰り返そうとしている。

当時のアメリカでは自閉症の「冷蔵庫マザー説」に基づき、多くの自閉症児が母から引き離された。絶対受容を前提として治療施設に入所、親も強制的にセラピーを受けることに。結果こどもたちにおいては青年期〜成人期において社会適応を一層困難にさせた。結局母子分離は全く効果がなかったことを歴史が証明している。

 次に、この「条例案」の真偽と橋下大阪市長の対応について見ていきます。

 @masaking さんが、辻よしたか大阪市会議員(公明党)に問い合わせをし、「公明党は話を聞いていない」ことを確認したまとめ。
・「大阪維新の会」 家庭教育支援条例案について - Togetter
http://togetter.com/li/297266

 2012年5月2日の日本経済新聞(ウェブ版)の報道では、公明党も賛成しているとあったため真偽を確かめたものですが、辻議員の返事は以下のとおりでした。
@masaking129 公明には何の相談もありませんし、同意するなんて条例も見ていないのにあり得ません。みんな怒っています。橋下市長も保育園での親の義務化などに違和感をお持ちのようですし、維新の中でどれだけ検討されたのか疑問。立案者の高橋氏について研究中です。

 @masakingさんは、この時点で「条例案」がどうやら叩き台の段階であると判断して、「これがそのまま条例になるのでは」と不安を募らせる関係者に対して、冷静に対応することを呼びかけてくれました。

 そして、5月3日15:43に、橋下大阪市長がtwitterで発言をしました。以下は、乙武さんによるまとめ。

・発達障害について、正しい認識を。 - Togetter
http://togetter.com/li/297720

 マスコミによる報道記事。

・愛情不足で発達障害? 橋下市長、火消しに躍起 大阪維新の条例案 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120504/lcl12050420370001-n1.htm
 橋下徹大阪市長率いる大阪維新の会大阪市議団が議会提出する方針の条例案の発達障害をめぐる規定に当事者らが強く反発、橋下市長が3日から4日にかけ短文投稿サイト「ツイッター」で火消しに躍起となっている。

 これで、少なくとも「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」という「条例案」の根拠のない主張については改められるであろう見通しが立って一安心、という気持ちになるところ……ですが、この「条例案」が、どこからやってきたか?を知ると、これでおしまいとはならないように思います。
 キーワードは「親学」。

・大阪維新の会 トンデモ条例案の黒幕 - Tech Mom from Silicon Valley
http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20120502/1336026552
この条例の背景などに関する報道はあまり見当たらないのだが、このトゥギャッターを読んでいくうちに、少々気になる手がかりが見つかった。

大阪維新の会: “家庭教育支援条例案”が、驚愕以前にツッコミどころ満載…な件 - Togetter

私はたまたま、発達障害には個人的にも関わりが深く、まずこれに反応したのだが、これだけでなく条例全体で使われている用語やトーンが、トゥギャッターの中で指摘されている「高橋史朗」なる人のトーンに確かに共通する。「発達障害は予防、改善できる」とか、「伝統的子育て」とか、まさにぴったり。

高橋史朗 - Wikipedia

Amazon.co.jp: 脳科学から見た日本の伝統的子育て―発達障害は予防、改善できる (生涯学習ブックレット): 高橋 史朗: 本

さらに、第5章第21条のこの用語。
親としての学び、親になるための学びを支援、指導する「親学アドバイザー」など、民間有資格者等の育成を支援する

この「親学アドバイザー」というのは、この高橋史朗氏のやっている「親学推進協会」というところで出している資格だそうで、講義料や資格取得にお金を払うという商売。

・トンデモ教育論「親学」を推進してる人たちの話 - 俺の邪悪なメモ
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20120504/p1
すでに一部で情報飛び交ってますが、この条例案には元ネタがあります。

その元ネタこそが、私がずっと熱い視線を送り続けてる高橋史朗という人がやってる「親学」ってやつ。今回の条例案はこの「親学」の思想に基づいてます。

wikipedia:高橋史朗

親学推進協会

「親学」の主張するところをかいつまんで要約すると
日本の伝統的な子育てすれば発達障害は予防できるし治るってのが脳科学でも証明されたんだぜ。最近、子どもの発達障害が増えてるっていうけど、これは今どきのダメ親の教育力が落ちてるから。だからちゃんとした子育てができるように親を先にしばかなきゃ教育しなきゃね!
と、いうもの。

脳科学(?)と発達障害への誤解に基づいた保守系トンデモ教育論です。

条例のトンデモな部分は、ほぼ「親学」のトンデモな部分に由来してると言って良いでしょう。

 この記事にある図解を見ると、わあ、なんだこれ。

 しかも、俺の邪悪なメモさんが書いてあるとおり、「親学」はいつの間にか広い支持を獲得しつつあるという事実を初めて知りました。
発達障害についてのラディカルな主張をオミットした「親学」というコンセプトだけなら、宇都宮や名古屋でも行政に取り入れられてます。

宇都宮市「親学の推進」

名古屋市「親学ノススメ」

他にもこういうマイルドな「親学」を採用してる自治体は結構あるはずです。

・名古屋市:親学ノススメ(暮らしの情報)
http://www.city.nagoya.jp/kyoiku/page/0000010743.html

 名古屋市では「家庭の日」とか決めて、教育委員会がパンフレットまで作って事業として推進しているんですね。こんな背景があるとは。注視しておかなければなりません。

 最後に、ベムさんの記事を紹介しておきます。

・発達障害に直接関係のない人も「親学」について考えてみてほしい - ベムのメモ帳Z
http://d.hatena.ne.jp/bem21st/20120505/p1
昔は良かったとか、近頃の若者は堕落しているとか、そういう考え方はわりとありがちで、これはリベラルっぽい人の中にも見ることができます。確からしい根拠がある主張であるのなら構わないのですが、そうと思えないケースが多く素朴な懐古趣味的な発想が原点のようにも感じることが多いです。「自然=善、人口=悪」というナチュラル信仰と似たような素朴さを感じさせるケースもある。

彼らが発達障害予防論を譲歩という形で捨てた時、それを受け入れる人はある程度いるのではないかということです。積極的な賛同まではせずとも「別にいいんじゃないの」とか。某大手新聞社は当初この大阪市条例案を『「モンスターペアレント」の出現を防ぐ狙い』などと焦点のずれた報道をしているのです*1。ネット上の騒動を知らず、この報道だけ読んだ人ならなんとなく賛同する人も少なくないでしょう。親学を支持している人の中にはすでに「発達障害予防の部分が間違っているとしても親学全体が否定されるわけではない」とまさに予防線を張っているような声も聞こえてきます。皆さんは本当にそれでいいと思いますか?他人事だと感じている人もひとりひとり考えてみることをオススメしたいと思っています。


 今回は、まとめ記事を書きました。この条例案を見て、私が感じたことは別の機会に書きたいと思っています。


(続きの記事)
・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 「家庭教育支援条例(案)」高橋史朗氏緊急声明に思う
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52396482.html

ヨーコさんのスピーチについて考えてみた

12月8日はジョンの命日でした。なので、ヨーコさんのスピーチについて思ったことを書いてみました。ちょっと遅れましたが記事をアップします。

12月3日に東京で開かれた自閉症啓発イベント「Get in touch!」で、ヨーコさんが、こうスピーチされたそうです。

・47NEWS:オノ・ヨーコさん、自閉症啓発に 「社会で知ろう」
http://www.47news.jp/CN/201112/CN2011120301001735.html
故ジョン・レノンさんの妻で芸術家のオノ・ヨーコさんが3日、東京都内で開かれた自閉症の啓発イベントに登場し、「自閉症のことを社会で知らなければいけない」と理解を呼びかけた。…

 オノさんは「自閉症の方には、私たちには分からない天才的な才能を持っている人もおり、非常に大事な存在」と呼びかけ、自閉症を抱える被災者らとの記念撮影に応じた。

このスピーチについては、親や関係者たちが、Twitterで「特別な才能のない自閉症の人」にも目を向けて、と訴えています。

ヨーコさんは、「特別な才能のない自閉症の人」の存在も、当然承知しているでしょう。
ヨーコさんがスピーチをするために、考えたこと、を想像してみました。

きっと「自分が素晴らしいと思った観点から、広く一般に自閉症をアピールしたい」ということだったんじゃないでしょうか?

ヨーコさんは、お金儲けや効率主義とは別の価値観を大切にしている。芸術や音楽など、人の心を動かすクリエイティブなものに価値を置いている。
だから、自分が一番価値を認めている分野を引きあいにだして、「この素晴らしい人達を知ってほしい」と言ったのでしょうね。

もし、スポーツ選手だったら、「素晴らしいスポーツ選手もいる」ということが、最もアピールするポイントだと信じて(なぜなら、スポーツを大切に思っているから)、そのことをアピールするのが自然です。「彼女は自閉症をもつ、素晴らしいアスリートなんです!」とかね。

科学者だったら、科学の分野で活躍する人を紹介するだろう。「◯◯という偉大な科学者は、アスペルガー症候群だったと言われています」とか実際に聞いたことがあります。

それでいいんだと思います。

自閉症、障害=ネガティブなイメージで受けとめられている、その固定観念に「衝撃」を与え、目を向けさせるための有効な伝え方のひとつだと思うからです。

ヨーコさんの発言に対して、私たちは、「カウンター」を当てるのではなく。
「補足する」「足していく」ことができるといいですね。「ヨーコ+たくさんの声」によって、自閉症への理解を広げるのがいいと思います。

なので、ここでも、私がいいなぁと思ったツイートを「足して」おきます^^

2011/12/03 21:45:24
オノ・ヨーコさんは「自閉症の方には私たちには分からない天才的な才能を持っている人もおり、非常に大事な存在」と呼びかけたらしいけど、天才的な才能を持っていない多くの自閉症の人たちも、みんな非常に大事な存在。

2011/12/04 05:32:05
自閉症啓発大使のオノさんの活動に感謝します。でもひとつ付け加えさせて下さい。特別な才能を持っていない/開花させてない自閉症の子達にとってこの社会は厳しいものなんです。その子達も生きやすい社会の実現に力を下さい。【オノヨーコさん自閉症啓発】 http://t.co/z0Hq9yv5

ひとりで見る夢はただの夢。だけど、みんなで見る夢は現実になる。
ラブ&ピース!


<関連記事>
ジョンとヨーコのエピソードに触れた過去記事があります。

・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル:Yes
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/50794708.html

体験と世界観と真理

僕たちは、子どもの頃からいろいろな方法で学んできた。
特に人生や生き方のようなものについては、先人たちの体験談や映画や物語などから学ぶことが多かった。
同時に、自分自身が生きる体験を通じて、身につけた。

他人から得たものと自分自身が得たものでは、ずいぶんと価値が違う。もちろん、自分が体験から学んだことのほうが強く残る。
だが、特に若い時、生きた時間がまだ短い間。学校と家との往復や、職場と家との往復であったりと、さほど経験のバリエーションは豊富にあるわけじゃない。他人から得る「膨大で」「多彩な」擬似体験も、バカにできない。

想像したこともないような出来事に遭遇したとき、他人の体験談や指南を参照しようとする。
その時は、やはり、似た出来事に遭遇した人の話を探すだろう。そして、そこからヒントを探す。具体的な「やり方」を知識として知ることも重要だが、
それだけじゃなく、「心情」──いかにしてくぐり抜けてきたのか?についても合わせて吸収しようと思う。

当然、他人だから、合う/合わないの相性もあれば、信頼できる/信頼できないといった違和感もある。

衝撃的な出来事に出会い夢中で学んでいるあいだは、そうでもないのだけれど、ある程度落ち着いて周りが見えるようになると、新しい自分なりの世界観(のようなもの)ができてくる。
そうなると、ふしぎだね。その世界観を語りたくなる。自分の体験と他人の体験談がブレンドされたもの。

世界観はミームだから、自らを複製しようとがんばる。

多いのは、「これが真理だ」という主張。

その根拠は?と問うと、色々な理由をあげるが、つまるところ「実際に体験した私が言うのだから信じろ」に行き着く。これは説得力がある。ある程度は。ある程度というのは、主張する人の体験(これには他人の体験もブレンド)が、同じ条件で同じ人がくぐり抜ければ同じ世界観に辿りつくであろうといった程度には、だ。
一般化できるか?といったら、それは限定的だと思う。

そこで、そのことに自覚的なミームは、「これはあくまでもぼくの体験。信じるか信じないかはあなたの自由」というアプローチを行う。自らを真理だと主張しないだけで、言っている根拠は同じなんだけど、押し付けがソフトになっている分、受け容れられやすい。だが、そこに落とし穴があるなあと思った。

同じように「その主張は一般化できるのか?」のチェックが、受け入れる前に問われなければならないのだが、ガードが下がってしまって、「私は賛同します」とカンタンに「真理」として受け入れてしまったりする。
根拠は、「実際に体験した私が言うのだから」に尽きていることは同じなのに。

いちいちフィルターを通すのはメンドクサイから、まるごと「この人の言うことは信用する」と決めてしまうほうがラクはラク。
でも、大きく間違わないためには、正しいとする射程範囲(どこからどこまでが実際に再現可能な体験であり、どこからがその体験から敷衍して拡大適用している部分か)を見極めたい。

「あの人がくぐり抜けてきたことに感動し、尊敬する」ことと、その人の主張全てを「真理」と受け入れることは区別できるから。

10月8日の乙武さんツイートを巡って

Twitter界隈で(どこ?)、話題になっている乙武さんのツイート──「不幸」の烙印を押さないで──を巡って考えたことをメモしておきます。

乙武さんのツイートはこれです。

・「不幸」の烙印を押さないで:togetterまとめ
http://togetter.com/li/198105
「もしも、自分が障害のある子を授かったら」――そんな視点から読んでいただきたい乙武洋匡による連続ツイートまとめ。

この連続ツイートでの「主題」である出生前診断について、カイパパが書いた記事がありました。

・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 着床前診断に関するメモ
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/6802802.html
★グロテスクな未来
・診断をせずに障害児や重い病気の子が生まれた家庭を指差して「あの商品(着床前診断)を利用しなかった愚か者だ」と哂う人がでる
・もしも診断をしたのに、障害児が生まれたら「欠陥品だ」と返品を求める、あるいは損害賠償請求をする消費者が出てくる

・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 選べないからしあわせ
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/6837338.html
★選べないからしあわせ

【気づいたこと】
・選べないことのしあわせもあるんじゃないか
=オプションがありすぎて、何を選んだか(選ばなかったことも含めて)すべて己の責任だと自分を責める苦しみが増えるばかりで、窒息しそう。

 実際に人に選べていることなんて少ないのにね。

2004年の記事ですが、読み返してみて、今の自分の感じていることとそう変わりませんでした。

乙武さんのメッセージ
6.つまり、生きてみなければ、その人の人生が不幸かどうかなんて、わからない。どんな苦しい境遇に生まれても、大逆転でHAPPYな人生を歩むことになるかもしれない。それなのに、生まれた時点で「この子は不幸だ」と決めつけてしまうのは、あまりにもったいない気がしてしまうのだ。

には、共感しました。

で。
このツイートをきっかけに、「親のあり方、受けとめ方」についての議論が始まっています。
いくつか紹介したいと思います。

たとえば、これです。

・乙武さんのツイートから、障害受容について改めて考えてみる:togetterまとめ
http://togetter.com/li/198163
乙武さんの「障害ある子をさずかったら」という一連のツイート http://togetter.com/li/198105 をきっかけに始まった、主に自閉症療育クラスタ・心理学クラスタでの障害受容の議論をまとめました。
関心ごとは「障害の受容」とは具体的に何か、自分にとってそれはどのようなものであるか、それを客観的に測定する方法はあるのか、といったようなことです。

批判的に論じた記事もあります。

・乙武さんの「おおらかな親のほうがよい」について - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20111008/1318099122
 このtogetterを読んで「うわー、これはよくない」と思って、寄せられたブックマークコメントを見たら、みんな絶賛。世間的にはこれが「障害があっても人は幸せになれる」という美しい主張としてのみ受けとめられてしまう。自分は、障害児とその家族を支援する者である。無視できない。

 彼のツイートの意図はどうあれ、これは「障害を受容できない保護者は望ましくない」「障害を受容できない保護者の子どもは苦労をする」というメッセージとして機能する。

全文もぜひ。コメント欄も含めて、考えさせられます。

もうひとつは、乙武ツイートを「虐待」という視点から分析した記事です。説得力があり、とても胸痛く響きました。

・社会が押し付ける「良い親であれ」というプレッシャー - yuhka-unoの日記
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20111009/1318152312
これは障害児だけでなく、広く「虐待」というものを考えさせられるテーマだ。

結論から言うと、私は乙武氏のスタンスに疑問を持っている。なぜなら、子供を虐待する親のパターンとして、「良い親でありたい」という気持ちが強い人が多いからだ。だから、このような「良い親になってください」という形の呼び掛けは、逆に危険なのではないかと思う。

今、『機会不平等』斎藤貴男著(優生思想をベースにし、階級固定化を企図した教育改革、規制改革もろもろ…)を読んでいて、非常に暗い気持ちになっていることを申し添えつつ、「完璧なコドモ」を求め、それに相応しい「良い親」であろうとする(その逆も)努力を個人レベルで強いる(かつ個人レベルでは打開できない)社会は生きづらいですよね。

「だいたい」でいいと思います。満点なんて、幻想。

他人が言うことを真に受けるのはほどほどにしましょう。自分の心だってわからないのに、他人のなんて、ね。
語られたことが全てなわけではないし、嘘を言っていないという保証もない。他人の体験談は、あくまでも考えるための参考に 過ぎない。「だいたい」でいい。また変わるし。

こんな「適当」なことを言っていますが、しょせん他人のたわごとです。

もうすぐ明日ですね。とりあえず、リアルの荒波を乗り切っていこうと思います。

続「チャレンジド再考」

■続「チャレンジド再考」

 前回の記事「チャレンジド再考」に関連して、たくさんのコメントとTrackbackをいただきました。ありがとうございます。これをきっかけに、私が感じたことをシェアします。

 まず、天竺堂さんからのコメントへの反応です。天竺堂さんからは、「前向きな規制」という考え方を教えていただきました。
ですから、障害者に意味を限定した呼称である「チャレンジド」を積極的に使うことは、やはり障害者に新たな定義を押し付け、生き方に“前向きな規制”を与えてしまうことにつながりはしないか…と私は危惧します。呼称を使う側に特殊化の意図が無かろうと、それが障害者を指す以上、結果的に特殊化は避けられないのです。
 天竺堂さんからコメントをいただいて、うーむ、と考え込んでしまいました。どこかに、すれ違いがあるような…、私が言いたかったことと受け止められ方にギャップがあるような違和感がありました。
 それで考えてみました。
カイパパさんは「勇敢」や「成長」などの言葉を使っておられますが、ほめればほめるほど“前向きな規制”は強まります。そのジレンマから逃れることは難しいでしょう。
カイパパさんご自身も、実は無自覚に言外で「がんばれ」とおっしゃっておられるのです(激励が悪い訳ではありません、決して)。
 この部分を、繰り返し読んでみて、「ああそうか」と気がつきました。

 私が、「勇敢」「成長」に驚き、感動している相手は、私の息子「カイ」その人なんです。
 論じている対象が、私の場合、「障害者一般」のカテゴリーを指しているのではなく、カイのことを具体的にイメージしてお話をしています。

 父親として、カイの成長に驚きながら、「チャレンジに満ちた新しい世界」を一緒に生き抜いていこうという決意──これは、私自身に対する「前向きな規制」なんでしょう。(自分で決めたことだから、余計につらいともいえます)

 私の願いは、カイを認めて、取り巻く環境を暮らしやすいものに変えていきたいということ。
 世間一般に対して「チャレンジド」という言葉を強制して、「みんな、前向きに生きろよ!」と主張しているつもりはないんです。

 次に、かへる日記さんが書いてくださったこの記事から。

・かへる日記 (FRGFRG304):「チャレンジド」であるが故にある「がんばらない」という選択肢も
http://d.hatena.ne.jp/ngmkz/20070401/1175422875
「チャレンジド」と「がんばらない」というものは、衝突するとは思っていないんです。

「チャレンジド」というのは、「(もう既に)挑戦している」という意味だろうから、それに対して「がんばらない」というのは自己選択としての考え方になるんだと思うんです。

社会的の構造や環境によって「チャレンジド」な状態にある方々をそう呼ぶこと自体は、とくに違和感ないっていうのがぼくの感想です。
 「チャレンジドな状態にある」という言い方は、「不利な条件で、社会参加を強いられている」ということの客観的な表現として、わかりやすいと思いました。

 かへるさんの勤務する風の工房では、「有給休暇カード」を本人にお渡ししていて、休みたい日もしくは前日にそのカードを出してもらう仕組みを導入されているそうです。

 自閉症の人は、「休む」ということができにくい、決められたルーティンを「何としてもやり遂げなければならない束縛・こだわり」に転化しまうことが多い特性を考えたとき、「がんばることをやめられない」素直さ、「おりることが、できにくい」危うさに注意を払っていかなければならないんだなと思いました。

 もうひとつ、五つの霞さんが、私の「「がんばれ」って言わないで 「がんばらないで」と言わないで」に対して反応してくださった記事。

・特別支援学校って…へぇ、そうなんだ: いつまでがんばる?どこまでがんばらせる?
http://d.hatena.ne.jp/fivefogs/20070402/p2
教員は生徒たちにどこまで頑張らせればよいのでしょうか? 生徒たちは何歳になるまで頑張ればよいのでしょうか?
ペースが分からない、ゴールが見えない、そんな世の中で「Challenged」と言われても、どうしたものやら右往左往してしまいます。
 霞さんは、障害児教育20年のキャリアを持つ先生です。学校の先生も悩んでいる。何を? どこまで? いつまで? がんばらなくちゃならないんだろう? うーん…。と切なくなってしまいます。

 この霞先生の記事に、S嬢さんがTrackbackをされていて、これが、素晴らしい内容です。もうタイトルだけで、私が言いたかったことを端的に伝えられています。全文をぜひ味わって読んでいただきたいのですが、全部ゴチックで引用したいくらい響いた箇所を引用します。

・S嬢 はてな:がんばること自体は悪くないよ、悪いのはがんばらせられることだと思う
http://d.hatena.ne.jp/satomies/20070402/p4
 「ありのまま」という言葉だけで成長の可能性を投げてしまうのは支援の怠惰だし、本人置き去りの課題の提示と強制は本人自身を育てない。何かができるようになることが大事なんじゃない、自分という存在を大事にできるかということが大事なんだと思う。何かに向かい合っていこうとすることは、自分自身を大事にするために進む道だと思う。

 知的障害児に向かい合うときに、問われているのはこちらの知的能力。タイミングの研究、モチベーションの芽の養成や把握、達成感を獲得するためにやるひとつひとつのステップの細かい分解。本人のリアクションに対する細かい分析と対処。

 がんばることもがんばらないことも選択は自分。がんばらせられることは心を死なせる。そういうことが大事なんだと思う。



 それと。障害を克服するためにがんばるんじゃない。生きることを楽しむためにがんばるんだと思うし、そういう支援ってヤツをわたしは選びたいと思う。
 S嬢さんがここで語られているメッセージは、親として、一番近くにいるサポーターとして忘れてはならない心構え・スタンスです。親だからこそ、冷静になれなくて、なかなかできにくいことなのだけれど(特に、「強制」と「自発」の間の揺れ惑い)。

「生きることを楽しむ」というスタンス、果たして親自身が、そのように生きているだろうか? それって、すごく大切なことだよね。でも、自信を持って、「はい」とは言えない。なぜ?……

 今回の「チャレンジド」を巡るやりとりのおかげで、自分が書いた過去記事を読み返す機会になりました。原点を再確認する意味で、次回の記事で、カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルのコンセプトについて書きたいと思います。

「チャレンジド」再考

■「チャレンジド」再考

★「チャレンジド」という概念により「否定」される存在?

 前回の記事で、私が「チャレンジド」について書いた記事を紹介したところ、S嬢さんからTrackbackで、以下の記事の紹介を受けました。

・天竺堂通信:チャレンジド考
http://blog.livedoor.jp/tenjikudo/archives/50217332.html
「チャレンジド」の“反対側”にあるものが、言外に否定されている気がするのだ。「『挑戦』という使命や課題、チャンスや資格」があると決め付けることで、それをクリアできない人やクリアしたくない人を、差別することに繋がりはしないか? 「チャレンジドにふさわしい人」と「チャレンジドにふさわしくない人」を生み出す恐れはないか?
 なるほど。こういう受け止め方もありますね。(この記事は、コメント欄も含めてお読みになっていただくとよいかと思います。)

 Trackbackをいただいた、下記のかへる日記の記事も、この天竺堂通信さんの記事を踏まえて読むと主旨が理解しやすいです。

★「がんばらない」と「チャレンジド」の概念は衝突する?

 かへる日記さんは、ご自身の職場である風の工房の基本コンセプトが「がんばらない」であることを紹介してくださっています。

・かへる日記 (FRGFRG304) - がんばらない
http://d.hatena.ne.jp/ngmkz/20070327/1175008178
その当時の代表である関さん曰く、「障碍者はいつも頑張れや頑張ってと言われている。けど、頑張らなくてもその人らしい生活というのは出来るんじゃないか?」ということみたいです。
 同感です。

 「チャレンジド」という言葉が、「頑張れ!」といわれているようで疲れてしまう、というご指摘は、初期の頃に、Atopic Informationさんからいただいていました。

・Atopic Information:ラッキーウーマン
http://www.atopic-info.com/archives/000442.html
正直なところ、このパターンの「ポジティブシンキング」に向かわせる言葉や新語、造語というものに私は胡散臭さを感じる。有無を言わせずしんどい自分に鞭打つ或いは苦役を強いるような感じと言えばよいだろうか?
 それに応えるかたちで、私は「チャレンジド=挑戦を受けた人」の一連の連載記事を書きました。こんな結論をラストに持ってきています。

・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル:【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(3)
http://blog.livedoor.jp/kaipapa2shin/archives/136116.html
「自閉症は文化である」とTEACCH部創立者ショプラー教授が価値転換を図っているように、わが子にとって、この世の中は異文化社会であり、わかりにくく、とても不器用で不利を背負ったカイは、やはり挑戦を受けている。
 そして、限られたツールで、勇敢に立ち向かい、日々成長していく姿を毎日見ている。

「チャレンジド」は単なる言いかえや「だからガンバレ!」といった無神経なスローガンではない。
 そして、特殊な存在を表す呼び方でもない。
 たまたま、偶然性が支配するこの世界で、確率によってチャレンジを受けることになった人々のことです。
 私が言いたかったことは──

・不利を背負わされた人が、限られたツールで、勇敢に立ち向かい、日々成長していく姿に対して、尊敬の思いをもっている。
・ただ「生存する」ためだけでも、苦痛や苦労、不便を強いられている中で、生き抜いていくことだけで、「すごい!」という畏敬の念をいだいている。

「だから、これ以上のムチャな要求はやめよう。君が生きているだけで、すごいことだ!」
「苦もなくできてしまうメインストリームの人たちが、これ以上《がんばれ》なんていう資格あるのかな?」
 という思いも込めて、書いたつもりです。

★「がんばる」ことを強制する風土のなかで

 けれども、現実はどうだろう?
 ハンディのある人ほど「がんばれ」と言われている。多数派の社会、文化、価値観に合わせることを強制される。「歩み寄り」を、より多くもとめられるのは、障害を持っている人たちのほうだ。

 周囲の人たちも、自覚なく、善意の言葉として、「がんばれ」と言ってしまっている。

 だから、「チャレンジド」という、日本語ではない言葉を持ってきたとしても、今のこの国の土壌に置いた瞬間に、「チャレンジド=困難があるからこそ、人よりも余計にがんばらなければならない《義務》を課された人」という意味合い、言葉のにおいがついてしまうのかもしれない。

 こういったことを、再認識できました。

 過去記事を掘り起こして、Trackbackをさせていただいてよかったです。S嬢さん、天竺堂さん、かへるさんありがとうございました(^^)

★「がんばれ」って言わないで 「がんばらないで」と言わないで

「がんばれ」に関連しては、やっぱりこの記事をあげておかないわけにはいきませんね。初期の頃からの愛読者様にはお馴染みですが、私の中に、いつもある思いというか、葛藤ということで、紹介をしておきます。

・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル:「がんばれ」って言わないで 「がんばらないで」と言わないで(2004年05月29日)
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/742875.html
がんばりすぎてしまう親をだれが救ってくれるの?

共感と混乱と〜宇治学習塾事件判決に思う

■共感と混乱と〜宇治学習塾事件判決に思う

ゆうすけのパパさんとすぎかばさんのコメントに触発されて、前回の記事「宇治学習塾女児殺害事件」についての自分の思いをつづってみます。

宇治の事件判決の報道は、父親部の先輩(私のメンター)H.Suzukiさんの車で移動中に聞きました。NHKのラジオからは、「懲役18年の判決が出た。争点であった責任能力の有無については、責任能力があるとの判断だった」と流れました。そのラジオでは、「アスペルガー症候群」「発達障害」という語は一言もありませんでした。
被害者のご遺族が「判決には納得できない。自分たちが言うことではないかもしれないが、検察には控訴していただきたい」とコメントしているのも聞きました。

私は、H.Suzukiさんに、「この事件は、たぶん発達障害が関係していますね。裁判所が、発達障害があっても責任能力を認める流れは確定してきましたね」と話しました。二人で、何でこんな事件が起きてしまうんだろう?とぽつぽつ話しながら、私は「こんな不条理な形でわが子を傷つけられたとしたら、自分も、許せないという思いになると思う」と話しました。

家に帰ってから見た、報道ステーションでは、「アスペルガー症候群」を前面に打ち出して、報道をしていました。被告が塾で子どもと一緒に映っているビデオ映像も流していました。その姿は、とても若く、笑顔で、楽しそうに映っていました。犯罪を犯しそうな人間には見えませんでした。

テレビでの報道の仕方を見て、「これは影響が大きい」「障害名が一人歩きする」という危機感を覚えました。

私が一番恐れたのは、診断名が告知されている本人への影響です。文字や言葉の影響を強く、ストレートに受け止めてしまう傾向がある彼らが、「自分のこと」を犯罪者だと言われているように受け止めないか? 「いつか自分もああいうことになってしまうのではないか」という思いにとらわれて、不安定になることを心配しました。

「あなたのことが、非難されたり、責められたりしているのではないんですよ」

というメッセージを伝えることが一番必要だと思いました。

どう伝えるか色々と考えて、書いてみたけれど、結局記事にしたのはこの2行でした。
被告人は、個人の名において、罪を犯し裁かれました。
アスペルガー症候群という障害を代表して裁かれたのではないということです。

カイパパ通信の普段のスタンスからは、ずいぶんと冷たく、被告のことを切って捨てたような表現だったかもしれません。





私は思うのです。


自分も含めて、自閉症や発達障害をもつ人の犯罪が起きると、まるで「わが子や自分たちが犯した罪」であるかのように、胸を痛め、被害者に対して申し訳なく、自責の念にとらわれ、落ち込んだ気持ちになる当事者が本当に多いと。

共感する力が強く、感受性の強い方ほど、そうだと思います。

でも、この思いに囚われると、活力がなくなって、ぐったりとしてしまう。共感する力は大切だけれど、下手をすると、心のバランスを損なうようなこともあるかもしれません。「共感の罠」のようなものがあると思うようになりました。

「苦痛は、3分の1でいい」の記事で書いたこととも通じるのですが、

「もしかしたらわが子が加害者だったかもしれない」という同一視してしまう思いや、
「いつかわが子が加害者になるかもしれない」という将来の不安まで、
 同時に区別せずごちゃごちゃにして考えてしまうと、

「遺族が、自分たちを恨んでいる」
「自分たちは世間から差別されている」
「適切に支援してくれない社会は冷たい」
「将来のわが子の行く末は、暗いに決まっている」
 と、ネガティブな感情の渦に翻弄されてしまいかねません。
(私自身、これまでも何度も体験してきたことです…)

だからいったんは、「わが子が犯罪を犯したのではない」と区別をしましょう。

「障害→犯罪の因果関係は不可避のものではない(裁判所だってそんなことは言っていません)。社会の中で、生きていくことはできる」という確認をしましょう。

その上で、「自分たちには、未来がある。今、未来の準備をすることができる!」と気持ちを立て直しましょう。

現実に起きてしまった事件の「なぜ」を問い直し、どうすれば避けられたのか対策を考えるのは、心のバランスを取り戻したその後でいい、と思うのです。

私たちの心を守るために。

選べないからしあわせ

■選べないからしあわせ〜着床前診断に関するメモ(2)

 9月14日のメモにたくさん反応をいただきありがとうございます。

 メモの続きです。

★善悪?

・着床前診断が「できるようになったこと」「実際に受診すること」自体の善悪は論じない。
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着床前診断に関するメモ

■着床前診断に関するメモ

★「可能」であれば「実行」される

・科学が「可能」にした
・ショーウィンドウに並んでいる「商品」をみて、「どうして買えないの?」と訴える消費者がいる
・「売りたい」「試したい」と思う売り手がいる
→実行される

★グロテスクな未来
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【参院選】要チェック!候補者への障害者施策アンケート

■【参院選】要チェック!候補者への障害者施策アンケート

 日々是人生:あなたは参議院選挙に行きますか!?経由

・全国自立生活センター協議会:障害者施策についてアンケートしよう!
http://www.j-il.jp/jil.files/saninsen/index.html
 私たちは、障害者及び家族を会員に持ち、また、その生活を支援する団体です。
この度の参議院議員選挙において、各政党がどのような政策を持ち、また、有権者に対して投票を決める参考資料として提供するために、障害者施策の推進に関する11項目の公開質問状を各政党に対して提出しました。
 また、 選挙区及び比例区に立候補している候補者のかたにも5項目のアンケートを実施しました。
   その結果をこのホームページにまとめました。全国の障害者及び関係者の皆さんにご覧になっていただき、投票の際の参考になれば幸いです。

・愛知選挙区候補者の回答
http://www.j-il.jp/jil.files/saninsen/tokai/aiti.html

 短い回答ですが、候補者のスタンスの差が見て取れて興味深いです。政党とみなさんの選挙区の結果を参考にしてみてはいかが?

・アンケート回答結果:選挙区・候補者別
http://www.j-il.jp/jil.files/saninsen/map.html

・アンケート回答結果:政党別
http://www.j-il.jp/jil.files/saninsen/seito.html

【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(3)

opinion

【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(3)

【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(1)
【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(2)
 からの続きです。

★7 「チャレンジに満ちた新しい世界」
 私のサイトのサブ・タイトルは「自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界」です。これは、天から降ってきたように、スッと思いつきました。これでいいのかどうか検討を加えてみましたが、タイトルと合わせて私のやろうとしているコンセプトは「これに尽きる」と決定しました。

 私にとって、カイを「チャレンジド」と呼ぶことはものすごく自然なことなのです。
「自閉症は文化である」とTEACCH部創立者ショプラー教授が価値転換を図っているように、わが子にとって、この世の中は異文化社会であり、わかりにくく、とても不器用で不利を背負ったカイは、やはり挑戦を受けている
 そして、限られたツールで、勇敢に立ち向かい、日々成長していく姿を毎日見ている。
「チャレンジド」は単なる言いかえや「だからガンバレ!」といった無神経なスローガンではない。
 そして、特殊な存在を表す呼び方でもない。
 たまたま、偶然性が支配するこの世界で、確率によってチャレンジを受けることになった人々のことです。

★8 ノーマライゼーションの思想との関係
 ノーマライゼーションの思想は、
・一定の確率で、障害をもった子どもは生まれる
この社会は、初めから障害を持つ人も含んでいる。したがって、特別な場所に隔離するのではなく、同じ地域で「あたりまえの暮らし」ができる社会が「ノーマルな社会」なんだという考え方です。
 チャレンジドとノーマライゼーションの思想は互いに相通じる、対概念のようなものだと私は考えています。

★結語
 というわけで(長かったですねぇ)、カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル〜自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界〜は、チャレンジドという思想・ことばを積極的に使っていきます。

【連載記事】
【言葉】チャレンジド=挑戦を受けた人(3) 2004年2月19日
【言葉】チャレンジド=挑戦を受けた人(2) 2004年2月18日
【言葉】チャレンジド=挑戦を受けた人(1) 2004年2月17日

【付記】
(1)「障害者」という用語・用字について
 ただし、「障害者という言葉」で私が書いたように、障害者という用語も必要に応じて使うことをためらいません。その理由は、
・「障害者」という用語・用字は法律用語であり、日常用語である
・私は、「障害者」という言葉を「(様々な条件によって)生活に不便を感じている人」というニュアンスでとらえている
したがって、私個人としては、「差別語としての臭い」はついていないと判断しているからです。
(参考)
【用語】障害者
【用語】言葉ににおいがしみつく
(2)Silent Voiceに実際にアメリカ社会で生活されて感じ取った「チャレンジド」の意味について記事があります。ぜひお読みください。
 ・"Challenged"とは
 ・神から与えられた試しとして障害をとらえる

(3)Atopic Informationが「チャレンジド うーむ深い」で提起されている問題意識――
それでも差し引いて「やっぱりしんどい。」という部分があるのである。ましてや肉体的、精神的にボロボロの状態のときは、奮起する気そのものがそがれる「ネガティブスパイラル」によけいに陥ることもある。平常時においてさえ、これだけで奮起できるほど単純には割り切れず同時に戸惑う自分もいる。そんなに大衆の心を打つ必要があるのだろうかとか、裏を返せば、そこまで情熱を持ち、自分を、他人を鼓舞し続けねばならなければならなくなる状況というものがよけいに哀しくなるのである。思い通りにならず一生涙し続けるのか、「そんなのは嫌だ。」と何とかしようと努力することに、レベルや量に個人差はあったとしても疲れるのも人間だ。そして、その限界を知ることもまた頑張りすぎてつぶれてしまうのを防ぐバランス感覚も同時に必要なのかもしれない。

「そうは言っても、〈ガンバレ!〉と言われた気がして疲れてしまう状態についてどう考えるのか?」については、3か月達成の日に記事を書く予定です。あらかじめ言っておきますが、私にも答えはありません。今考えている試行錯誤について書きます。

【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(2)

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【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(2)

(この記事は【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(1)からの続きです。)

★4 キリスト教世界の言葉
 チャレンジド”challenged”は受身形です。「挑戦を受けた者」という意味です。チャレンジャー=「個人の自由意志で挑戦する者」ではありません。
そうだとすれば、誰から、何から挑戦を受けているのでしょうか?

 アメリカはキリスト教的倫理観で形作られた社会ですから、ここで意識されているのは、「神からの挑戦」ということでしょう。
 私は信仰を持ちません。しかし、以下の立論には共感を覚えました。それは、私が福祉の倫理的根拠だと思う「立場の互換性」(後述)に通じるからです。

★5 「くじ引き論」〜キリスト教世界の価値観
 この立論は、2002年のつぼみパパメーリングリストでASAJIさんが提起され、話題になりました。要旨は、次のとおりです。
○キリスト教世界では、次のような発想があるから、障害者に対して親身になった福祉が行われているのではないか(仮説)
・障害は、誰かしらに必ずもたらされる不可避なもの
・「くじ引き」をするように、誰が背負うかを決定づけられる(それは神によって)
・そうであるなら、障害者は、他の「健常に生まれた」人のために、(ある意味)犠牲となった人といえる
  →だから、社会(コミュニティ)が責任をもつのだ

★6 立場の互換性(交換可能性)=福祉を支える倫理的根拠
 私は、理屈っぽい人間です。自分の子どもが「福祉の受益者」になるという事態に直面して一所懸命考えて「結局これだな」と思ったのが、「立場の互換性」の理論です。
○障害者は「特殊な存在」ではない
・人間はだれもが加齢や病気、事故によって障害者となりうる
  =今、「健常」な状態だとしても将来はわからない
・また、一定の確率で障害をもった子どもが生まれる。
  =あなたも「障害児」の家族になるかもしれない
→全ての人が、福祉の受益者となりえる=つまり、いつか立場が換わりうるということ(立場の互換性)
  =それは遅かれ早かれいつか来ることであって、現在福祉の対象となっていることを恥じたり、卑下したりする必要はない
 言い換えるなら、福祉は、「全ての人のためのセーフティネット」なのです。これがなければ、人は安心して子どもを産むことも暮らしていくこともできない。

【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(3)へ続きます!

【参考過去記事】
 立場の互換性について
【基礎知識】WHOの新しい障害の定義:「国際生活機能分類ICF」
・ICF公式サイト http://www.who.int/icidh

【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(1)

opinion

【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(1)

 この記事は、下記のシリーズに連なるものです。
【用語】障害者 2003年12月29日
【用語】言葉に「におい」がしみつく 2003年12月14日
【用語】メインストリームの子どもたち 2003年12月07日
【思想】ノーマライゼーション 2003年11月30日
 長文のため、3回に分けて連載します。

★1 はじめに〜「チャレンジド」という言葉を意識するまで
・私は高校生のとき1年間アメリカ・ノースカロライナ州に留学していました。
・”the challenged”という言葉には、そのとき出会っていたかもしれませんが、印象は残っていません。
・2年前に仕事で、あるプロジェクトの翻訳見直しをした際に、アメリカ人スタッフが当時使っていた「知的障害」(訳した当時は「精神薄弱」)の訳語――”mental retard”は悪い印象を与えると主張しました。

 彼は、”mental disability”か”intellectually disabled”が適切だと言い、”intellectually disabled”を使うことにしました。
一般的に障害児を表す場合に「handicappedはどうか?」とたずねたところ、今は”the challenged children”という表現がpolitically correctだと思うという返事が返ってきました。ハンディキャップも使われるけれど、「不利」「苦手」に着目した表現なので、どちらかというとチャレンジドの方がよいのではないか、というのが彼の解説でした(注)。

 私はそのとき既にカイの自閉症の診断を受けていたので、チャレンジドという表現が記憶に残りました。

(注)”mental retard”も”mental disability”も”handicapped”も普通に使われている用語です。たとえば、歴史のある団体スペシャルオリンピックスの公式ウェブサイトを見ると、”mental retard”という用語で統一されています。
The term "mental retardation" is used throughout this site because of its
specific meaning in clinical and academic settings. Other terminology –
including cognitive delay, intellectual disabilities, intellectual
handicaps, learning disability, mental disabilities and mental handicaps –
is used around the world.


★2 竹内ナミさん『ラッキーウーマン』と出会って
 この本は、私の高校時代からの恩師が「これはぜひ読んでほしい」とオススメしてくれました。さすがに私の恩師、素晴らしく刺激的で、勇気と知恵をたくさんもらいました。
 竹中ナミさんの活動は、「私はすべての障害者を納税者にしたい」というケネディ元大統領のスローガンからきっかけを得て、「チャレンジド」がキーコンセプト(これなしでは活動が成立しない不可欠の概念)としています。
 それでは、この本の中で、チャレンジドはどう説明されているか見てみましょう。
 ところで、「チャレンジド」って知ってはりますか?
 これは、障害を持っている人を表すアメリカの新しい言葉で、正式には「ザ・チャレンジド(The challenged)」といいます。
「神から挑戦という使命や課題、あるいはチャンスを与えられた人々」という意味がこめられていて、15年くらい前から使われはじめました。
「すべての人間には、生まれながらに自分の課題に向き合う力が与えられている。しかも、その課題が大きければ大きいほど、向き合う力もたくさん与えられている」
 という哲学にもとづいて生まれたそうです。
 アメリカでは「チャレンジドが働き、タックスペイアー(税を払う人)になる」というのは当たり前のこと。(略)
(プロップ・ステーションの)キャッチフレーズは「チャレンジドを納税者にできる日本!」

 どうです? 勇気が出ませんか?
「チャレンジド」という言葉は、竹中ナミさんのオリジナルではなく、最初に紹介した人でもないでしょう。しかし、ナミさんは、チャレンジド・ジャパン・フォーラムを企画・成功させた人であり、彼女が設立したプロップ・ステーションは、これまでの「保護の対象として障害者を見る福祉観」とは異なる、IT技術を活用したエンパワメントを実現しています。彼女が、「チャレンジド」の言葉普及の立役者であると思っています。

★3 Atopic Informationの言及
 ――とごく一般的な紹介でとりあえずはとどめておこうと思っていたのですが、Atopic Informationが、私のこの記事に反応して以下のような言及をされました。
正直なところ、このパターンの「ポジティブシンキング」に向かわせる言葉や新語、造語というものに私は胡散臭さを感じる。有無を言わせずしんどい自分に鞭打つ或いは苦役を強いるような感じと言えばよいだろうか?
おそらく世の中がこういう方向に向かってほしい、あるいはそういう世の中にしていきたいという意志表示を含む理念のようなものとして掲げられているものなのだとは思うが、自分の中には「うん、これは確かに大切なことなんだろうな」と感じながらも、やはり無条件に「うん、うん」と頷けないのは私が弱い、あるいは甘えただからかもしれない。人間いつもそう強くはないもんだ。
日常生活や仕事においても、目標なりノルマというものがある。もう少し言葉を変えれば課題という人もいるかもしれない。課題や目標を達成したときの達成感に喜びを感じることができるコンディション(肉体的にも精神的にも)を維持できているときにはこれはプラスに働くが、そのコンディションが崩れたときには歯車が狂ったように苦痛や自身への厳しい制約や障壁となり、自分を壊す刃ともなりうる。(※チャレンジドという言葉には)おそらくそれをも見据えての想いがこもっているのだろうなと勝手に想像してみた。

 Atopic Informationの松岡さんは、アトピー性皮膚炎患者本人の立場から、1995年から「ステロイド薬害」について戦ってきた方です。リンク集の中で特別に「setsujitsu(切実)」というカテゴリーに登録しているサイトの一つでありその活動に注目をしています。
 傍観者が「言葉の言いかえって、なんかヤな感じだよね〜」と言うのとはまるで違います。この率直な違和感(ためらいと考察)に対して、私はきちんと応えたいと思います。

【言葉】チャレンジド=挑戦を受けた人(2)
へ続く)

【あした・きらりん】作者:航薫平さんから

【あした・きらりん】作者:航薫平さんからのお返事

 この記事は【あした・きらりん】カイパパから航薫平さんへ(2)からの続き
です。

■はじめに
 アニメ「あした・きらりん」作者、航薫平さんの質問にお答えして、シナリオ
の2か所について私なりの意見を奔放に書かせていただきました。「奔放に」書
けたのは、「この作者(そして、製作チーム)は信頼してもいい人たちだ」と見
通しがもてたからでした。
 私の意見の要点は次のとおりでした。
続きを読む

【あした・きらりん】カイパパから航薫平さんへ(2)

【あした・きらりん】カイパパから航薫平さんへのメール(2)

 この記事は【あした・きらりん】カイパパから航薫平さんへ(1)からの続き
です。

 2月10日に送ったメールに対して、航薫平さんからすぐにお返事がかえって来
ました。

 その内容は、以下のとおり、とても誠実なものでした。
続きを読む

【あした・きらりん】カイパパから航薫平さんへ(1)

【あした・きらりん】カイパパから航薫平さんへのメール(1)

■はじめに
 カイパパがアニメ「あした・きらりん」の作者航薫平さんにあてたメールを紹介
します。
「あした・きらりん」は、大阪市が人権作品を募集した2000年の「ヒューマニティ
大阪市長賞最優秀賞」に選ばれ、2004年3月にテレビの30分番組として放映予定
の作品です。この中の登場人物に「自閉傾向」の女子高校生が登場し、主要な役
になっています。
 まず、なぜ私が作者とやりとりをするようになったかの経緯を説明します。続きを読む

「あした・きらりん」作者からコメントをいただいた

■「あした・きらりん」作者からコメントをいただいた

 2004年1月28日記事「こうだったらいいな!〜自閉症アニメ「あした・きらりん」」に、なんと「あした・きらりん」の作者である航薫平さんご自身からコメントをいただきました。

 シナリオを読んで意見をしてほしいとのこと。
 ウェブサイトをやっているとこんなこともあるんですね!
 さっそくメールを送りました☆

【参考情報】
 航薫平さんはこういう活動もされています。
『気がついたらボランティア 車イスMAPつくり隊―現代版若者組学校から街へ』


【参考記事】
TamagoBlog: 「あした・きらりん」の原作者 航薫平さんからのコメントに対して
 Tamagoさんレスポンス早い!

日本小児科医会、乳幼児のテレビ視聴を控えるよう提言

■日本小児科医会、乳幼児のテレビ視聴を控えるよう提言

日本小児科医会、乳幼児のテレビ視聴を控えるよう提言@A Fledgling Child Psyciatristから引用
日本小児科医会 が乳幼児のテレビ、ビデオの視聴を控えるよう提言 を発表しました(Yahoo News)。

まあ、大筋でその通りだろうとは思わなくはないのですが...。
いまいち根拠に乏しい感じがしてしまうのですよね。
あらかじめ結論ありきの議論がなされているような感じがつきまといます。

 このテーマについては、いつか論じたいと思っています。
 今回は、2003年5月に私が書いたメールを引用しておきます。
続きを読む

こうだったらいいな!〜自閉症アニメ「あした・きらりん」

■こうだったらいいな!〜自閉症アニメ「あした・きらりん」

「ブログにおける議論の波及」@カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル(2004
年01月04日)」で、自閉症をテーマにしたアニメが製作される話題について触れま
した。
続きを読む
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