カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル

〜自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界!〜

つれづれ・雑感

ぜんまい

仕事を離れて、遊んでいると
からだの中でぜんまいが巻かれていく。

間違いようがなく、
僕らは、有機のアナログの生き物だ。

渡されたボール

昨日の記事の続き。

僕は僕で「真空リレー」の記事を書きながら、自分がしてきた不義理を思い出していた。悔いとともに。

「渡されたボールを今も持ってるんですけど」とつぶやいた友のことば。

ごめん。
そろそろ、いいかげんボールを受けなおさないとね。

真空リレー

仲間が役割からおりると言った。これまでの葛藤を思うと、決心した勇気に、感謝と拍手を送りたい。

僕自身、いくつかの組織を解散したり、卒業したり、途中リタイアしたり、をしてきた。だから、今のにがくて、情けない気持ちがわかる。
でも、「今が」その役割をつとめる時期ではなかっただけのこと。敗北感や挫折感があったとしても、やり過ごせばいい。
みんな、きみの責任感や努力を知っている。

新しいことを始めるには、何かをやめなきゃならない。

新しい人の活躍の場をつくるために、だれかが、どかなきゃならないときがある。

「自然は真空を嫌う」

空き間ができたら、だれかが、その真空を埋めるから。

大丈夫。

谷はどこ?

ひと山越えてまたひと山。
想定外のことが多くて、思考が一時停止しそうになりますが。

台風が被害をもたらしませんように。

気を取り直して。いってきます!

酒も飲んでないのに酔ったようなことを言う

・GIGAZINE: 睡眠不足による疲労の状態は「ほろ酔い」と同レベルの状態であることが判明
http://gigazine.net/news/20130918-poor-sleep-means-drunk/

昨日書いた記事と関連づけて、タイムリーな記事に出会った。
経験的に、そうだよね、と思う結果だね。
やっぱり寝なきゃ。

おやすみなさい☆

おまけ
・GIGAZINE: 2年間イスに座らず立ちっぱなしで仕事をし続けるとどうなるのか?
http://gigazine.net/news/20130902-what-happen-2-year-standing/

どうなったか? これも、わたしも長時間立つことがあるので、納得がいきました。

足腰を使ってきたえよう。
「多動は金なり」

朝から元気だね(反語)

休みになると熱が出る。そういう人は多いよね。「気が抜けたせいだ」とか言われるけど、実際そうみたいだよ。

誰かが言っていたけど、人の身体のほんとの状態(元気さ)は、リラックスしている朝、起きた時に現れるんだって。

身体が元気なときは、朝が一日の中で一番調子がよくて、だんだん疲れていく。それが正常。

ところが、疲労が蓄積しているときは、朝が一番つらくて、だるい。日中だんだん動けるようになっていく。

「だんだん動けるようになる」のは、実はカフェインかなんかをドーピングして、興奮して、身体を無理やり動かしているから。疲労は蓄積され続けている。

「朝が弱いだけ!」と、頑張りすぎちゃいけないんだなあ。
動けてるのは「興奮状態」だから、なのって、やばくないか。

どうにも仕方が無い期間もあるけど。

どーん、と疲れが出たときは、「リラックスできて、本当の身体の状態が出た」と喜んで受けとめるようにしようと思います。

カナワナイ

「おれ、今日から17連勤」と言ったら、
「わたしは、何連勤?」と妻
 カナワナイ…

解離と念

昨日の記事「同じ時を刻む」を書いてから、Facebookでこんなコメントをしました。

「同じ場所にいても、別々のことを考えていて、同じ時を刻んでいない」
そんなもったいないコトを数えきれないほどたくさんしてきてしまった。

ヘルパーへの批判めいたことを書いたけれど、じゃあお前は、カイと一緒にいてどれだけ彼によりそえているのか?と。

少し前に、月とゆびという記事を書きました。後悔があったからです。

昔メンタルヘルスの講習会で、講師に指名されて「あなたは、昨日のお昼に何を食べましたか?」と質問され、全く思い出せなくて焦ったことがありました。
その時、講師から「記憶が無いのは、そのとき、あなたが他のことをしていて、食事に意識がいっていなかったからです。それが、解離です」と説明されました。
(ここで言う解離は、障害としての解離ではなく、何か行為をしていても、意識が別のところに行っている状態のこと)

講習会の他の内容は全部忘れましたが、解離のことだけは、強烈に覚えています。思い当たることがあったからです。

意識が、「今」「ここに」いない状態。

誰かに教えてもらいました。「念」は、「今ある心」と書く。これを失えば「失念」。そう、解離ですね。

悩みや欲望や苦しみに、心を奪われて。
先のことや昔のことに不安や不満を募らせて。「今」が感じられていない。
バーチャルではなく、現実に感じられるのは、「今」しかないのに。

どうしたらいいのかな。

とりあえず、最近意識しているのが「見ること」です。目を実際に向けて、焦点を合わす。

そんなこと当たり前だろう!と思うけど、例えば、電車の中で、わざと目の焦点をぼかす感じを思い浮かべてください。案外、そういうぼかした「見方」をふだんもしていませんか? わたしは、他のことを考えているとそうなります。他のことを考えることは、やめようとしても難しいのですが、「見ること」に意識を合わせることで「今」に心を合わせられるようです。

「集中力がない」のではなく、むしろ集中力がありすぎる人におすすめかも。(瞬間的に「心を持っていかれる」ような集中をしてしまうようなひとにも)

Blog must go on!

しばらく更新が空いてしまいました。忙しくしていますが、とても元気です。
今日観ていたドラマで「Show must go on(ショーは続けなければならない)」というセリフがあって、そうだなぁと思った。

幕が開いたら、そこから物語は始まり、舞台の上で懸命に生きる、その姿を見てもらう、ショーは、止まってはならない。最後まで続けなければならない。それが舞台に立つということ。かっこ悪さも含めて、生き様を見せつづけること。

お気に入りだったブログが、「更新された!」やった!と思ったら、「これが最後の記事です」とあった。新しい世界で羽ばたいていく人だからきっと他の媒体でまた読むことができるのだけど、さみしかった。ショーはいつかは幕がおり、終わる。
ブログも同じで、いつか終わりが来る。ブログ元年と呼ばれた年から10年が過ぎた。当時から生き残っているブログは、そんなに多くはない。が、「10周年です」とセレブレートしているブログも少なくなくて(同期生だ)と密かにうれしがっていたりする。10年続いたブログでも、お休み期間があったり、最近はもっぱらSNSで、開店休業すみませんなんていうのもよくある(わたしもそのひとつだな)。

10年もやってくると、過去記事も膨大になってくる。カイパパ通信も7月20日に1000記事到達した。
10周年を記念したイベントを今年やりたいと言ったけど、年末までの期間、土日の予定を数えてみると無理そうだ。うーん。
考えてみると、オフラインのイベントもすごくいいけど、ブログはブログとして更新がされて、「生きている」息づかいや鼓動が聴こえていることが大切だ。

ぼくも最近はFacebookばっかりで、それで、満足していた。だけど、それだけじゃあ、ね。
Blog must go on!
ブログ記事を書こうと思う。もっとたくさん。内容の有用性だとか、質だとか、に、ちょっと厳しくなりすぎていて、ハードルが高くなっていた。休めば休むほど書きづらくなる法則はよくわかっている。「書きたい」「書きます」と宣言したことと、書けることはイコールではない残念なことに。筆力や気力が不足して、またまた更新が億劫になってしまう。そんなくりかえし。もう10年選手なんだから、もっと上手に付き合おうよ。

日々感じること。ためになるかどうかは保証の限りではない、というより、役には立たないでしょう。今までも、カイパパ通信は、「心情系」ブログとしてやってきた(え?そうなの?)ので、つれづれに書いていくことが多いでしょう。

もう一度、気楽に、その分頻度を増やして続けたいなと思います。
よろしくね。

解き放て

7月29日に書いた記事「語る資格」は、先日Twitterで、自分がつぶやいたことをまとめたものでした。
「わたしは知っている。なぜなら経験したからだ。あなたは知らない」までは、事実だとしても、そこから「だから、あなたにはそのことについて発言する資格はない」と言ってしまうと断絶が生まれる。

実は、発作的にこの連続ツイートをするきっかけとなった記事がありました。
それが、この記事。

「ここに命あり(1)」
http://blog.livedoor.jp/olivia2013/archives/30868639.html
…その様な経緯を経て、(心臓移植のために渡米した家族の支援する)通訳にと勧められた
際にはあくまでも自分はちょっとしたお手伝い
的なことを考えていたものの、気がつけば
移植現場のど真ん中に立つことになってしまい、
これまで知ることのなかった内部事情を
知ることで、病棟勤務は自分にとって
非常に心的負担の重い仕事となってしまった。

仕事は?と訊ねて来るナースに、病棟勤務は
自分には大変辛い仕事である、と打ち明けた。…

医療スタッフとの断絶、臓器移植を受ける側と「あげる」側、そして医療の断絶。なんとも言えない、「究極の経験」について関わらなければならない光景を思い浮かべて、つぶやきました。

ブログ主のえりさんとは、もう2年くらいTwitterを通じての知り合いです。えりさんが今まで、そして今、経験していることは、私には想像しかできないし、感情をシンクロしてみようとしても、ほんの少ししか分からない気がする。

それでも。きっと、えりさんは、「体験していないものが語る資格が無い」というふうには言わないだろうと思いました。
さて、僕はどうだろう? これまでどうだったろう? これからは? そんなことを思いながら書き、ブログにも残しておこうと思いました。



そして、しばらくの間を経て、続きの記事「ここに命あり(2)」が書かれました。
http://blog.livedoor.jp/olivia2013/archives/30950640.html
…実はナースの中には、やれ忙しい、
大変だ、と、文句や嫌みを訴えてこられる方も
いらしたのだけど、非常に大変な状況の中で
手際良く仕事をこなし、娘を助けて
下さったことへのお礼を伝えた。

うちの娘もまた意識の有無や生命価値が
問われてしまう様な状態にあり、
その様な患者に対する高額医療の必要性に
疑念を抱きつつ治療を行う医療者も居ることは
認識している。

が、それを頭ごなしにあなた方は誤っていると
批判したところで、返って反発を招く様に
仕向けるだけなのではないか。

ならば、皆一体となってひとつの命を守ることに尽力し、
成功したことを祝福し、その喜びと感謝の
声を届けたいと思った。

ここに書いてある「祈り」は、私にもわかる。

「言ったって詮なきこと」そう思って、飲み込んでしまったことば──どこへ行ったのだろう?

呪いと祝いは、紙一重だ。
呪いは自分のなかに「憎い存在」を同居させてしまうもの。
祝いは、自分のなかから、外へ解き放つ。

そうであるなら、祝福を。
憎かったあの人を、私の中から解き放て。

すべての命に祈りを込めて。

語る資格

「わたしは知っている。なぜなら経験したからだ。あなたは知らない」までは、事実だとしても、そこから「だから、あなたにはそのことについて発言する資格はない」と言ってしまうと断絶が生まれる。

実際に経験できたことは、それぞれわずかでも、一人ひとりが得た経験を、知識にして、それをシェアしてここまで人類はやってきた。物の言い方が下手くそで反感を買ったり、伝え方が未熟だとしても。
「そのことを話す資格がない」という断定は、対話を抹殺するわけで、どうかと思う。

「経験していないあなたに、そのことを語る資格はない」と言った人のその時の心情を想像してみる。きっと、許せないと思う何かがあったのだろう。「知ったかぶりの断定」が先の発言者からあったのかもしれない。無礼や無神経も。

自分にも、そう言ってしまった経験がある。
その時わたしは腹を立てていた。もうこの相手とは対話したくないと思った。だから、対話をシャットアウトするために放った「攻撃の言葉」だった。そして、この「経験」という攻撃には効果がある。未経験者の言葉を奪う効果が。

だが、攻撃した者(わたし)も、冷静になればわかるはずだ。自分が「したという経験」も、ごく部分的なわずかなものだということ。それだけで、その事柄の全てを語れるのかどうなのか。本当はわからない。同じように、限定的な範囲での経験でしかない。

経験者だろうがそうでなかろうが、「わかったようなことを言うな!」という批判は、どちらからでも言うことができる。
そして、その発言をした人は、傷ついている。「傷つけられた」と思っている。

理解の架け橋を落とすのは簡単だ。というより、必ず崩れ落ちていく橋を、日々ことばを尽くして直し続ける行為だけが、橋を保つのだろう。

静音ヘッドホン

年に数回、飛行機に乗る。飛行機のストレスは騒音の影響が大きい。ここ数年はノイズキャンセリング機能のついたイヤホンを使ってる。
持っているのは、5000円くらいのやつ。ノイズを減らす機能は悪くはないけど、2年前に時間がなくてエイデンで急いで買ったものなので、音楽の音質は今ひとつであった。

来月から行く出張に備えて、ヘッドホンを新調した。迷ったが、レビューやブランドを検討した末、BOSEのQuiet Comfortにした。「30日間無料返品保証」が決め手。やっぱり実際に使ってみないと本当にいいかわからない。高い買い物だしね。
まだ、3日間しか使ってないけど、いい。
ノイズキャンセラーとして極めて優秀なのは評判どおり。そして、音楽も、いつも使っているAppleのカナルタイプのイヤホン(これも、けっこういいやつ)とは違う聴こえ方で楽しい(Appleのイヤホンにも特性があってナカナカだと再評価できた)。

だが、BOSEも「完璧」や「究極」ではない。「あともう少しこう響いたらいいのに…」とかえって欲が出て、イコライザーでいじってみたり、音量をあげてみたりして遊んでる。

で、面白いなと思った。「こうじゃない」と思えるのは、「こうだ」と思う音が自分にはあるからだ。
その「音」を僕はどこで得たのか? 基準はどこで見つけたのか。
ライブだと思った。
2年前からライブにコツコツ行くようになった。そこで毎回思う、音楽は「全身」で体感するものだ。「耳」だけで普段聴いている体験は、音楽としては一部だということ。
音は空気を揺らし、物理的に届く。音圧は全身を叩き、押し、慰撫する。やさしい声は頬をなでる手のひらのように。

デジタルの音を再生して、イヤホンで聴く体験は、音楽体験のごく一部を切りとっている。原理的に。耳だけを使いながら、どれだけあの生の体験を再現できるか、五感に蘇らせるか、チャレンジなんだよな。

日常の音楽体験は、録音とイヤホンと僕の想像力がつくりあげるミクスチャーだよね。
全く解像度の低い、たとえばiPhoneのスピーカーで聴く時も。音質が悪いから楽しめないかといえばそんなことはない。
一緒に聴く人、場のライブ感。鳴るスピーカー。
地下鉄の中でのヘッドホン。ひとりだけBGMつきで血湧き肉躍ってるのもいい。

僕は音楽が好きだ。人が好きだ。この世界が好きだ。

998

1,000記事達成を目前にして、懐古的になっているようで、過去の記事を見返したりしています。

昔の記事(2005年3月2日)から:
 私は、弱い人間なので、つらいこと、かなしいこと、悔しさ、痛み、怒り、恐怖、不安、不信感、という感情に強く影響されてしまいます。自分でも子どもみたいだとわらうのですが、世界のかなしみが自分の中になだれこんでしまうのがこわい。
 自閉症をとりまく現実は厳しい。
 厳しい現実を直視しつつ、それでも「だいじょうぶだいじょうぶ」と胸を張っていないと立っていられない、オロカな父親です。

 それでも、もしもこのサイトがあなたにとって気持ちの負担や苛立ちの原因になっているとしたらごめんなさい。
 表現して伝えていくのは簡単じゃないです。ひとつのサイト、個人に担える範囲は限られています。
 見せたくない思いもあります。
 だけど、ひとつだけ知っておいてほしいことがあります。

 ぼくも必死で生きてます。そのことは、あなたと変わらないと思う。

 たたけばすぐにへこたれる。あまり、たたき甲斐のない個人サイトです(^^;(って誰に話しかけていますか? たぶん、「弱虫な自分に」なんでしょうネ)

これを書いた時の、気持ちを思い出します。
やっていることがこれでいいんだろうか? そう思うことがたくさんありました。

この記事は、そのあと2004年4月の記事に触れています。

・サイトを閉じる時〜私の心がまえ
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/447110.html
 私のサイトは、自閉症に関わる人々と勇気と知恵を与え合う場となることを目的としています。
 もしもその目的が果たせない事態が生じたら、リセットすればいいと思っています。

 人生は長い!
 私には「15年後の輝かしい未来」という目標があります。
 カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルは「カイとそのお友だちが安心してしあわせに暮らせる地域づくり」の手段のひとつですが、唯一の手段ではありません。
 その目標達成に役立つかぎりは続けますが、負担や逆効果になるようなら、やり方を変えます。予想変更あり!です。悲壮感や敗北感を感じる必要なんてないんです。

悲壮感も、敗北感もあったなあ。だけど、やめずに、続けてこれてよかった。

「15年後の輝かしい未来」は、まだ見えないけれど、あの頃からたくさんの仲間たちに巡りあうことができました。

そして、カイは──カイは、彼自身が「輝かしい未来」そのものなんだと僕に思わせてくれます。
その名のとおり、人生の扉を「開」いていく。

親が何もかもすべてを整えることは不可能だということもわかってきました。(人生は案外短いということも)

カイが、人生を開いていく手伝いを、これからもしていけたらいいなと思います♪



【カウントダウン】

1000記事まで、あと2つ! 

イブの手当て

今はそうでもないけど、頭痛がひどかった頃、薬に頼っていた。
「頭痛、生理痛にイブ」イブは、EVEと書くから、女性という意味だけど。
僕は「慰撫」だと思っていた。

慰撫。

昔、「手当て」の話を教えてもらった。仙台のあるお母さんに。
治療する意味の「手当て」は、本当に、手を当てることだった。痛む所に手を当てることが、もっともプリミティブな治療だった。そして、「手当て」には効果がある。
自分で、痛むところをさすってもいいけど、他人が「手当て」してくれると、痛みが本当にやわらぐ。僕にも経験がある。
これってなんだろう?

痛みを黙ってこらえているのもいじらしい。
でも、「痛い」と口に出して、誰かが心配して、背中をさすってくれたら、それだけで治る痛みもあるよね。

…おれ、こんなところで、背中さすって何やってんだろう? 泣いているコイツの、役にぜんぜん立っていない(泣)

そう思うやさしい人。あなたは、役に立ってますから!

手当てをされて、余計泣けてしまうのは、涙を流すのを手伝ってくれたから。

慰撫の手は、実は、誰もが持っている。自分を、じゃなく、他人を「手当て」するだけでいい。



【カウントダウン】

1000記事まで、あと3! 
(わーーーーーぉ)

自助、ボランティア(昨日の補足)

昨日書いた記事「自助、ボランティア、制度」に、カイパパFacebookページでご質問をいただきました。私自身、考えを深めることができたので、そのやりとりを記事にして、補足にしたいと思います。

公助・共助は理解できますが、タイトルに自助とされてる意味が私には解りにくかったです。

自助と書いたのは、セルフヘルプグループのことが、頭にあるからです。社会資源が何もない中で、自分たちで(たとえば自閉症親の会)でできることを始めた。それは、互助と言ってもいいのですが、互助よりも前の、本当に小さな、仲間のための自助グループをイメージしました。

また、現在草の根ささえあいプロジェクトがやっている小さな活動は、「出会ってしまったから、ささえあいが始まっている」偶然性が強く働いているもので、これは、互助と呼ぶのもしっくりこないよう感じがします(「共助」という概念は、私はよくわかりません。最近耳にしますが)。

ボランティアは他人の為にするものでなく、自分の成長のためという意味でしょうか?(自助のことが)ボランティアを受ける側を指すとは思いにくかったもので。

ボランティアが「自分の成長のため」という発想はしませんでした。
結果的に、そういう成長が起きることはありますし、自然と起きてくるものだと認識していますが、「自分の成長をボランティアの第一の目的にする」のは、支援される人に対して失礼ではないかと思ってしまいます。親という当事者性をもつ身としては「私は、あなたの成長のために、困難な状況にいるわけじゃない」と思ってしまうややこしさもあって…

「一方的に支援される」立場に置かれ続けることは、けっこう苦痛で、辛いものなんです。

だからこそ、当事者も、家族も、自分にもできることはないか?と動き出しているのです。このことは、過去記事でも書いたことがあります(「時空を超えて届く救い」)。

草の根ささえあいプロジェクトの名前が、「支えあい」となっているのは、相互に支えあっていきたい意思を表しています。
そのあたりは、なぜか理由を言語化できないのですが、私の中では、「互助」というより、「自助」に近いです。
自分の力で、少しかもしれないけれど、自分にできることをする。助けてくれた人を助ける──ところまではいかないかもしれないけれど、何かしらの影響を与えることができるようになるイメージです。

昔、私も余裕がなかった頃はハリネズミのようになっていました。「手を、さしのべる」という態度が、嫌でたまらないと思った時期も正直言ってありました。
だけど、当事者も、だんだんと他人の手をにぎることができるようになります。その、プロセスがあるんだと思います。
同じように、支援者も最初は自己愛(?)からスタートしたかもしれないけれど、じょじょに「自分事」になっていく。そういう相互作用のプロセスを、私も体験して来ました。

だから、わかりあうための、溜めの時間みたいなものを、お互いに許しあえたらいいなと思います。衝突はあっても、気がついたら、「どちらかが一方的に与える関係ではなく、ささえあいになっていた」みたいなね。これを実際に体験すると、やっぱり変わってくるんです。

人は、憎たらしいけど、いいもんです。



【カウントダウン】

1000記事まで、あと4!

自助、ボランティア、制度

「救う」とか「救われた」とか、援助に携わっている人たちは、この言葉を使うことには用心深い。

困難な状況に陥ってしまった人が、社会とつながり直して、生きていきたいと思えるようになるために奔走をするのだが、無力感を感じない人はいないと思う。
それに。立ち直ったとき、援助者とは無関係に、時機が来て、自らの力で立ち上がっただけだ、と客観視できる援助者は思うだろう。

昨日、CBR公開研究会で、草の根ささえあいプロジェクトの活動報告があった。その後のグループに分かれて話し合いをした。
その時に「ボランティアで、いったい何をモチベーションに活動をしているのですか?」という問いかけがあった。草の根ささえあいプロジェクトのメンバー何人かが、答えようとした。
「今までの支援の現場で『わかっているけど、制度がないから、仕方がないよね』とあきらめてきた。もう、あきらめたくないと思った」
「……当たり前のことをしているだけで(その後無言)」
「がんばっているというよりか、楽しいからやってます」
 僕は、「自分は2年間草の根ささえあいプロジェクトの活動を見てきたけど、自分は、障害を持つ子の親ということがきっかけになっていて、自分が活動していること自体は自然に思える。だけど、他のメンバーについては、もちろん当事者性を持つ者もいるけれど、なんというか──少しバカなんだと思います。損得が考えられないというか。でも、こういう人たちが、『福祉マインド』のある人たちなんだと思うようになりました」

その後、30年以上NGO活動に携わってきた人と話をした。CBRは、福祉は公的な制度のみで支えられなくてもいい(というか公的な制度が不十分な国の状況において)様々な主体が担い手となって、援助を必要とする人を支えていくことを志向するものだから、非営利組織やボランティアグループとの相性がいい。参加者も、研究者や学生などの他に、背筋のピンとした活動をしている方たちも多かった。
「お金も時間もないので、草の根ささえあいプロジェクトには、委託事業の部分以外で、専従の職員を雇うことができない。その中で、できることは限られている。孤立している人は膨大にいる。その中で、草の根ささえあいプロジェクトが関われる人は本当にわずか。行政が関与していく必要性を感じる」と僕が話した。
大先輩は即座に、「『そこを行政ができない、他の主体がやったほうがいい』ということを認知してもらいたい。その認知に基づいて、他の主体の活動を国や市が援助するかたちがいい」と応えられた。

そのとおりだと思った。国や市が支援するとなると、対象者、提供者の要件、提供サービスの質・内容、料金の設定を定めなければならない。制度がその「領域」を埋めることによって、改善することはもちろんある。一方で、その「領域」に自生していた活動を追い出してしまう影響もある。「今は、障害者のボランティアをしたくても、その場が少なくなった」という言葉もあった。

CBRマトリックスを眺めていて、そこに掲げられた多くのことを、障害者の親の会など自助グループが埋めてきた歴史を思い起こした。
今は、その成果が、制度化につながっている。多くの、自助では提供できなかったサービスが全国で提供されるようになった。
そして、それでも制度と制度のはざまや、離れたところに、ボランティアや非営利組織の活動が張りだしていっているんだと実感した。

思い込みかもしれないけれど。時代がだんだん暗くなっていく。
一隅を照らすことでしか、明るくすることはできない。

補足記事があります。



【カウントダウン】

 1,000記事達成まで、あと5!

がんばった経験

ぼくにとって、一番強烈だった経験は、つぼみの会父親部キックオフから『ぼくらの発達障害者支援法』だ。

半年くらいまえに書いた記事(「フロー」「フローのあとに」では、この凄い経験をふりかえってみようとした。

が、その時のことが思い出されて、続きが未だに書けていない。未完のまま。

「もう一度やれ」と言われても絶対にできない。というより、「自分がやった」とは思えない。強烈な体験は、それが成功であれ失敗であれ、心に傷を残す…

体験が、ぼくを「変形」させて、このかたちになった。
元から持っていたもの、ひとからもらったもの、出会い、体験、失ったもの、
全てが、くっついてはがれて削れてこすれてガタガタになって盛り上がったりえぐれたりでこぼこなぼくをつくっている。

経験が「回路」をつくった。

そのスイッチが入った時、ほぼ自働的にがんばっている。

いやではない。
これが、自分だから。
つくっている最中は、辛くて辛くて辛くて……
でも、できあがったものは本当に素晴らしくて、

「とても自分ごときがつくったものとは思えない」

じぶんを見くびっていたじぶんを見返して、そう思いたい。

(ほんとに?)



【カウントダウン】
 1,000記事達成まで、あと11!

「頑張るのがよくない理由」


昨日書いた記事に関連して、最近読んでとても腑に落ちたこの記事を紹介します。

・nyalog: 頑張るのがよくない理由
http://nyalog.blogspot.jp/2013/06/hard-work.html
マラソンのスタート直後に「頑張って」走ったらどうなるのかというのは想像に難しくない。トータルでのタイムはきっと劇的に悪くなるだろう。エネルギーの前借りは借金で、借金には利息が付くのだ。

このマラソンの話がわかりやすい。
無理して頑張ることが「借金」で、利子がつくから返済が追いつかなくなるという例えが秀逸です。

「多忙は怠惰の隠れみの」というのは、糸井重里さんから教えてもらった格言だけど、忙しいときによく思い出す。「頑張る」ことで「頭を使って考える」ことから逃げてしまっていないか?

私は無理ができない人間です。
瞬間的に爆発的なエネルギーの放出を得意とする短距離ランナー。
限界まで行ったら、エネルギーがカラになるので、そこからはまた貯める日々。そのくり返しです。

昔はそういう自分が歯痒かったけど、今は「そういうカタチの人間なんだ。そういうカタチの使い所で使えばいいんだ」と思うようになりました。万能ではありませんが、場面によっては、スゴく(?)役立ちます。
信じてくれた人を裏切らないように、あらかじめ、期限や範囲を決めて、やれることを示して頑張る。そう心がけています。

無理はせず、がんばるよ!


──この話題で、この過去記事を引かないわけにはいかないですね。

・「がんばれ」って言わないで 「がんばらないで」と言わないで
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/742875.html

10年前のこの頃からは、私も親であることに慣れて、強くなっています。
何よりも、カイの成長が大きいのですが。

がんばらなくてもいい日が、いつか来るといい。

でもたぶん。楽しくってがんばっちゃう、そういう日々がいいな。

がんばらなきゃいけないときに、がんばる人を支えるもの


カイパパです。忙しいです。

「がんばらなきゃいけないときに、がんばる人を支えるものは何かな?」って考えていました。

まずは、
「がんばらなきゃいけない辛さ、しんどさをわかってあげること」ですね…きっと。

できることなら、逃げたい、休みたい。でも、「今はがんばろう」と思ってがんばっているときには、
そのタスクを分担はできなくても。励ましたり、気持ちを思いやったり、言葉がけしかできなくても、それをしてもらうことが、がんばるひとのささえになるんだよね。

「やって当たり前、と思われているんじゃないか?」という感覚が一番つらい。被害妄想的に落ち込んでしまう。

「やりたくないなら、やらなきゃいいよ!」とか
「いいよ、じゃあ、他の人がやるから」とかではなくて。

がんばろうとしている人にはがんばる機会を! そして、ささえを!

心さまよう

この土日心が定まらなくて、漂ってる感じだった。全然集中力がなくて、何もタスクをやりたくなかった。実際ほぼ全くできなかった。

「何が」というわけではなくても、心のエネルギーが落ちている。弱っている。

心配事や悩みがあると、考えていないつもりでもそのことを考え続けちゃうんだね。そのせいで、ここにいるのに心が半分どこかをさまよってる。

でも、もう大人だから、「これはこれでいい」と思うことにする。

そういう時、心を自由にさまよわせても、大丈夫なんだと。僕の心は戻ってくる。それくらいの経験は積んで来たよね。

だから大丈夫。

おやすみなさい。

心の休戦協定

・語ることは終わらせること:nyalog
http://nyalog.blogspot.jp/2013/05/termination.html
語ったり書いたりするというのは、自分の中でそれを整理して消化していくこと、言ってみれば「終わらせる」作業なのではないかなと思う。

このフレーズを読んで、本当にそうだなと思いました。

何か衝撃的な出来事が起こる。その出来事自体は「外」で起きる。知らなければ、存在しないと同じ。だが、それを自分の中に取り込んだ時にわたしたちは傷を受ける。起きてしまったことの重大さと取り返しのつかなさに呆然と立ち尽くし、後悔と自責のループが始まる。

起きてしまったこと(外部)が修復可能な、挽回できるものであれば、行動を起こして状況を変えることもできるだろう。あとは、自分自身のエネルギーの問題だ。

一方、起きてしまったこと(外部)が取り返しがつかないものである場合は、行動で何かを変えることがもうできない。「何もできない」事実が、無力な自分を責めさいなみ、傷(内部)を毎日かきむしり痛みを耐え難いものにしていく。心のなかで起きている内戦は、他人が終わらせることはできない。

心を責める/攻める武器も、「ことば」だ。時に理路整然と、時に理不尽に、「過ちについて」ことばが波のように寄せては返す。起きてしまったこと(外部)が心の中(内部)に「再現」される。感情を切り刻み、杭を打つ、くりかえしくりかえし。そのとき、内部で飛び交うことばを語ってみても、それはまだ心を傷つけるための「弾丸」だ。熱くて、火薬のにおいがまだしている。

あまりにも大きな出来事(内部)は、結局は、時間薬しか解決できないのだと思う。
膨大な弾丸が行き来した後、ようやく弾薬が底を尽く時が来るのだ。

失ってしまったものは戻ってはこない。
自分に責任はあったかもしれないし、なかったのかもしれない。
どちらであっても、何も変わらない。
罰を受けても、修復はされない。
できることは何もない。

取り返しがつかないことを認めて、心の内戦を語ることができるようになったときに、やっと、外が見えてくる。
そこから、語る試みは、何度も何度もくりかえされる。出来事が大きければ大きいほど、休戦協定は締結されては破られる。だが、このくりかえし無しでは、心の平和は永遠に訪れない。

小さなことであれば、一日でことばにして安らぎが訪れるかもしれない。
何年もかかる出来事もあるだろう。

その過程で通った道は、心の中に軌跡を残す。消えることはない。外で起きたことを内に取り込み、修復を試み失敗し、なんの残骸かもわからないような遺跡として残ったもの。時々、わたしたちはこの朽ち果てた神殿に足を踏み入れる。ことばを使って、イメージをして。

傷のかたちを確かめ、「終わってしまったこと」に、祈りを捧げる。

ボイス

本気の想いがこもったとき、「声」の響きが変わる。
話されている「言葉」じゃないんだな、他人は、この「声」は聴かなくちゃと感知する。

今日僕は「声」を使った。深く、聴きとられていくのを感じた。
長い一日の中でたった5分間。「声」を使った。

陸前高田(撮影日:2013年5月11日)

岩手から帰ってきて、どこか地に足がついていないような感じがします。ブログを書くリズムをどこかに失ってしまったようで、「書きたい」というモーメントが訪れてくれません。

岩手は、5月11日と12日の2日間行って来ました。最初の日は陸前高田市を地元の方に案内をしてもらいました。2日目は盛岡を中心に、全くの観光を楽しみました。全体として、岩手が大好きになって、また来たいと思って帰って来ました。

ところが、どうにも、調子が出ません。
イライラしたり、ぼーっとしたり。疲労感がずっとあります。もやもやする思いが、心にとごっているのです。

陸前高田市で撮影してきた写真をここに載せておきます。
案内をしてくれた友人は、「半年ぶりの訪問だけど、ものすごく風景が変わった」と語っていました。半年、一年経ったら、また変わっていくのでしょう。写真は全て、2年2か月後の5月11日(月命日)の撮影です。

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陸前高田市役所の外観。プレハブの庁舎。

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JR陸前高田駅(Wiki)。線路は復旧していません。BRT(バス)で運行。

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向こうに見えるのは、「花を植えるプロジェクト」のひとつで、黄色い花がたくさん咲いていました。

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瓦礫は固められていました。

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案内してくださったかた(この方もご家族を亡くしている…)の説明に、驚きの声をあげるだけで。何を言っていいかわからない──どころか、何を感じたらいいのかがわからなかった。今も…

「ここまで津波が来た。逃げられるわけがないんです!」

という強い言葉が、耳に残っています。

整理がつかないまま、こうして記事にして「放り出している」ようで、やっぱりもやもやしています。
たぶん、ひとりでは抱えきれないこの感情を、聞いてほしいだけで、非常に自分勝手ながら、書かせてもらいます。

陸前高田は、ごくごく普通の、平凡な街だったのだと思います。
地震がなかったら、わたしはたぶん一度も足を踏み入れることはなかったでしょう。
今だって、友人の導きがなかったら、僕なんかは立ち入る勇気がありませんでした。
本当にたくさんのかたが亡くなった場所でした。それは、2年経っても、見ればわかる。

今やっと実感しているのは、あの海岸はお墓だったのだと。
花もたむけず、写真を撮ってきた自分が情けなくて申し訳ないです。
弔う準備もせずに、ただ行けばいいと。そんなことでは、足りなかったのだと今は思っています。

ごめんなさい。せめて手を合わせればよかった。

このことばはいつか誰かの役に立つ

ことばは、葉っぱのように、風に舞ってグルグルぼくたちのまわりを回っていて。
誰かの経験から発したことばが、ある瞬間に、腑に落ちる。

だから、(この瞬間)その場しのぎに見えるかもしれない(だけどぼくの経験が込められた)ことばも、懸命に、伝えようとしよう。

このことばはいつか誰かの役に立つ。そう思って。

人はそれを…

おれにとっては最高!

よその人にどう見えるかは知らないけどね。

そんなのかまわない(^-^)

感想:「感情」を使う仕事につく人の「心」の守り方

「笑顔」や「思いやり」や「優しさ」を職業的にもとめられる人は、大きなコスト(心理的負担)を払っています。その対価として賃金が支払われるわけです。「スマイル=0円」ではないのです。

・「感情」を使う仕事につく人の「心」の守り方
http://allabout.co.jp/gm/gc/396581/
感情労働を選ぶ人の多くは、人間が大好きで、感情が豊かな人だと思います。それだけに、いつも笑顔で懸命に人に尽くしてしまい、知らず知らずのうちに疲れを溜めてしまうのでしょう。

仕事は長く続けていくことに意味があります。せっかく選んだ適職をバーンアウトで失わないように、また労働の価値である感情を守るためにも、仕事とプライベートとの時間的な切り分けをし、「プロはこうあらねばならない」という職業上のペルソナにこだわりすぎないことも必要なテクニックになってきます。感情労働にやりがいを覚えている人ほど、このことを意識していく必要があるのだと思います。

渋谷望『魂の労働―ネオリベラリズムの権力論』で、私は初めて「感情労働」という概念を知りました。10年前の本ですが、現在の社会を先取りしていました。私が、ネオリベラリズムのなんたるやがわかるようになったのは、ここ数年です。

今問題なのは、医師のような専門性の高い職業だけではなく、マクドナルドのようなファストフード業界でも、感情労働を強く求められ、それに見合う賃金が支払われているかといえば「?」だということです。

どうしてこういうことになるかを考えてみると、「労働者」としてのわたしが、「消費者」としてのわたしになったときに、安居酒屋でもホテル並みのサービスを要求するような無体を平気でしてしまっているからだと思いました。

一方で、感情労働ではない労働は、どんどんなくなっています。そのため、感情労働が不得意な人たちが職場から弾き出される状況になっているんですね。

前に記事で、「感じやすすぎる心」について書きました。
http://kaipapa.livedoor.biz/lite/archives/52463977.html

心を大切に守っていこうね。
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個人に使命やビジョンなんぞ必要ない

個人に、使命やビジョンなんぞ、必要ないのではないか? 本当は。

じぶんを深く深く掘っていく行為は苦痛だ。個人の使命やビジョンが「ある」という状態は、とーっっっても強い個人が想定されている。ふつうのひとは、そんなものは無くても(ないほうが?)しあわせに生きられる。

かくいうわたしは、「七つの習慣」を忠実に二年ほど実践した経験がある。フランクリン・プランナーも使ってた(集金バッグみたいな手帳ね!)。達成できたこと、身につけたこと、得たものは大きかった。それは否定しない。

でもね。

まず、使命やビジョンを定めることは難しい。「自分掘り」は苦しい。息が詰まってくる。
あまりの苦しさから、しっくりこない使命やビジョンを仮置きしても、サイズの合わない靴のようで遠くまでは歩けないよ。
もし、「しっくりくる、これだ」という使命やビジョンを見つけたとして、三年後も同じものでいいとは限らないじゃない?見直しが要る。でも、いったん掲げたものは降ろせなかったりして。寸足らずのシャツをずっと着続けるのは疲れる。

何よりも、日々使命ビジョンに照らし合わせて反省をするのがツラいったらない!

組織を率いていくとき、プロジェクトを遂行するとき、リーダーになる個人が使命ビジョンを決めてがんばる時はあるよね。組織が何のために存在し、何を目指しているかを明らかにするためには必要。逆にいえば、そんな場合だけ「期間限定」で持てばよいんじゃないかな?

だって、個人は「生きてるだけで丸儲け」。使命とかビジョンとかなくてもイッツオーライ♪
最近はそんな感じで生きてます。

月がみえない

まぶたを閉じたら世界がなくなるの?
眠ってるあいだぼくはどこにいっているの?
月はみえなくても夜空が明るいのは月が照らしているから。

大丈夫。

みえなくたってそこにある。



みること

みることは、関心を向けることで、
関心を向けることは、愛することだ。
近くにいる大切なひとを、みているか?と気がついて、みなおしてみると、たくさんの愛がわきあがってきた。

会議のときに、書類に目を落として話しているひとの顔をみない。
ありふれた風景。
目をあげて、発表者をみたら、
そこに、不安や希望がみえた。

向かい合っているのに、みていない。
そばにいるのに、みようとしない。

心はどこへでも行けるから、
みることで、ここに心を置く。

感じやすすぎる心

感受性について。

・NAVERまとめ:5人に1人は繊細すぎて生きづらい、「HSP」という遺伝特性
http://matome.naver.jp/m/odai/2135453803883182801?page=1

この記事では遺伝特性としてまとめられているけれど、確かに感受性って生まれついてのものだと思う。感度の強さ弱さ、指向性(何に対して感応するか)も様々だ。

感受性によって、向いている/向いていない職業や居場所がある。

わたしも、「これはムリ、やりたくない」と嗅覚的に判別したものの多くに、感受性の適性課題があったように思う。

職業が求める感度がぴったりなら幸せだが、too much だったり、lessだったりギャップがあると辛いんだよね。

弱い者、貧しい者、おろかな者たちが

弱い者、貧しい者、おろかな者たちが、身の回りのものをもちよって、宴を始めた。
これほど豊かなことはなかろう。

宴というのは、仕事であったり、祭りであったり。

王様や貴族たちの宴は豪華で素晴らしいものだろう。お金があれば、仕事だって大きく始めてインパクトもある。

ただ、そういうビッグプレーヤーの中には入れない、おこぼれも預かれない者たちが、自分たちにできることをもちよって、楽しくやる。そのこと自体が豊かだと思った。

ひとのま

友達の切実な話を聴いて(読んで)、他人の話(気持ち)に共感するってなんだろう?って考えた。(というかいつも考えている)

「他人の気持ちをわかる」ことはできない。そんなことは当たり前。生きてきた人生も、体験した事実も違うのだから。別々の人だから。

人と人には間があって、でもそれもひっくるめて「人間」だっていうことがおもしろい。

わかんなくてもいいよ。一緒にいよう。

意欲の仮死状態

・なぜ若者は保守化するのか――反転する現実と願望 [著]山田昌弘 - 大澤真幸(社会学者) - 本の達人 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
http://book.asahi.com/ebook/master/2013012200011.html

記事より引用。
 このデータが示しているのは、若者たちの強い安定志向である。一度入った会社に、解雇されずにずっと勤めていたい。あるいは、安定した収入がある男性と結婚して、自分は専業主婦をしていたい。こうした傾向を、本書では「若者の保守化」と呼んでいる。
 こうした安定志向が前面に出てくるのは、どうしてなのか。山田さんの説明を聞いてみよう。理論的な背景には、山田さんが2004年に出した『希望格差社会』(これも電子書籍で読むことができる)で紹介したアメリカの社会心理学社ランドルフ・ネッセの希望論がある。ネッセによると、希望という感情は努力が報われるという見通しがあるときに生まれる感情であり、絶望は、努力してもしなくても結果としては同じことになるとしか思えないときに生ずる。なるほど、もっともだ、と納得せざるをえない。
 この理論を携えて日本社会の現実を見てみよ、と山田さんは言う。この理論に従えば、というか、そうした理論に頼らずともわれわれのコモンセンスから判断して、人が希望をもって冒険的に行動できるようになるためには、努力しなくても報われるケース(つまり既得権)を排除すること、努力しても報われない人々を救済すること、この二つが必要だ。しかし、日本社会はそうなっていない。

本は未読。書評を読んでの感想。

分かち合える他者がいないと、ぬべーっとした社会にしか見えず、生きていくことの意味が見出せなくなりそうです。

入り口や接点はいろいろだと思いますが、他者と出会うことから、「課題」が生まれて、それを「解決」していく過程が生まれます。その「解決」が他者に喜ばれたりして、まぁ生きていくのも悪くないかな?と思えるようになる。

「何かをしてみて挫折する」ことは「絶望」ではなく、
「何かをすること自体に体が動かない、反応しない」状態が「絶望」なんですね(「意欲の仮死状態」とでも言おうか)。

「なにこんな無謀でバカなことやってんの……?」って出会いがあれば、もしかしたら、蘇生するかもしれません。SNSでの出会いが、そのきっかけを増やしてくれる意義は小さくないかも。

ちいさい秋みつけた

最近思っていること。

耳にすることば、目にすること、が「厳しい」トーンで流れていっている気がします。
罵倒するようなことばが当たり前のように飛び交い、それは、右も左も同じようで。
「やさしさ」を守ろうとしている人たちも、余裕がなくなって、焦燥感から「厳しい」ことばで言い返している。

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友だちがFacebookで、「どんぐりみがき」と書き込んでいて。わあ、秋だなあと思っていたら。

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その数時間後に、こんなかわいい作品が!

何が言いたいのかというと、ぼくは、とってもしあわせな気持ちになったのです。
たぶん友だちはどんぐりをひろって、どんぐりをみがいて、どんぐりに色をぬって、その間ぢゅう、にこにこしていたんじゃないかな? そして、こうやって写真を紹介してくれて、観たぼくたちもしあわせにしてくれた。

世界がどう変わろうとも、季節はめぐって、ひとは生き死に。呼吸をするように、身のまわりの景色をとりこんでいく。

「厳しい」ことに立ち向かうとき、刃物じゃなく、どんぐりを手にしたい。

弱いことは、わるいことじゃない。強い人も、もっと強い人には弱かったりする。みんなどんぐり。

ちいさい秋みつけた。

「同じ」

「同じ」病気、「同じ」障害、というものが、個々人でみたら存在しないんだと思う。病気の進行度、重さ、環境、経験、年齢もろもろみんな違う。

むしろ「同じ」障害だから。余計にうらやましくなってしまうことだってある。嫉妬なのかな? 自分にはある。

『電池が切れるまで』という子ども病院の子どもたちが書いた詩を集めた本がある。そのなかに親の書いた、「親の思い」という詩がある。自分よりも「恵まれている」ようにみえる親をうらやましく思う気持ちをストレートに綴っている。

それを、ときどき思い出す。

「マクルーハンのスマートフォン」を読んで

 昨日の記事は前置きです。最近読んで、目からうろこが落ちた記事を紹介します。

POLAR BEAR BLOG: マクルーハンのスマートフォン

 かいつまんで引用をしようと思ったのですが、断念。どの部分も重要なので読んでから戻ってきてもらえるとうれしいです。


 おかえりなさい。


 個人が発信者として自らの情報を開示しソーシャルメディアにデータを提供する。そこに蓄積された「ビッグデータ」を解析してビジネスに利用しようとする動き(例えば、その人が興味を持ちそうな宣伝を表示したりといった最適化は既に行われています)。個人は、自分のデータを利用されることを知りながら(意識せずに「同意」を与えて)個人情報を書きまくってしまう。

 なぜ? ばかなの? ──ばかなのではなくて、人間が持つ指向性の存在を、マクルーハンは指摘しています。参照記事では、次のようにマクルーハンの主張をかみくだいて説明をしてくれています。

◯人間は「自らの身体の拡張」であるはずのテクノロジーに、自ら(「ナルシズム」の語源となったナルキッソスのように)恋をしてしまう。

◯私たちは自分の拡張(テクノロジー)に「それと知らずに恋をする」。魅せられ、夢中になり、濫用している自分に気づかず、耽溺してしまう。

 なぜ私たちは自動車やテレビが好きか。それは、私たちの身体を拡張したモノだから。ナルキッソスが水面に映った自分自身に恋をするように、「拡張した自分自身」に恋をしてしまう。
 そのことを、マクルーハンは「テクノロジーに対する偶像崇拝」(idolatry of technology)と呼んでいるのですね。

 たしかに。
 スマートフォンって、"超能力"ですよね。テレパシーだとかテレキネシスだとか千里眼とか無限の記憶力だとか。スマートフォンを手にして「なにこれ?便利すぎる」「楽しすぎる」と魅せられ、夢中になり、耽溺してしまっている「わたし」は、より賢く、耳がよく、声が通る存在に拡張された「ワタシver.2」に恋をして抜けられなくなっていく。
 そして、恋する「わたし」は、「ワタシ」に乗っ取られ、自動制御された状態になる。

 その恋は最初「全能感」に近い満足感を与えてくれたが、いつしか「無いと耐えられない依存状態」をつくりあげ、必要もないのにつぶやいたり、不快になるとわかっているのに他人の声を聴き続けることをやめられなくなってしまう。(それが昨日の私の記事にもあらわれていますよね。机に座ってでないとできなかったPCが24時間手元にあるスマートフォンに変わることで24時間自動制御状態になってしまった。情報がオーバーフローしているのにやめられなくなっている)

 「テクノロジーは単なる機械で、たまたま今はハマっているだけ」と思うのは油断かもしれません。スキだらけで危険。「拡張されたワタシ」だから、恋に落ちるのは必然。耽溺して無自覚に自動制御されてしまっているという自覚をしようと自戒。

 ナルキッソスは、水面に映った姿から目を離すことができなくてやせ細って死んでしまうんですよね。


・ナルキッソス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%83%E3%82%BD%E3%82%B9

【これも面白かった】
・「 隠れ貴族」の存在 - 女。MGの日記。
http://d.hatena.ne.jp/iammg/20120701/p1

脳内Googleがあればいいのに

 ブログを書くことは習慣なので間があいてしまうとどうやって書いたらよいかわからなくなります。これは10年近くやっていてもそう。そういう状態になったら再び書こうとするとたいてい「なぜブログを書くのか」とか「このブログで何がやりたかったのか」「意味はあるのか」といったメタ・ブログ論のスパイラルに巻き込まれて脳内ブログ記事は書いたけどもうそれだけで疲れちゃって「いいや!」になってしまうのです。(ここで「いいね!」と「いいや!」って似てるけど「いいや!」は投げやり感がパンクですね!と脱線。おもしろいから続ける。みなさん、Facebookやっていますか? やっているかた、楽しいですよね。プライバシー設定をかっちり固めたら比較的安心して内面トロ──「吐露」って書きたかったんだけど「内面トロ」のほうが内面垂れ流し的グロさをあらわにしてナイスフィット!──内面トロしても優しい「いいね!」やコメントに励まされてFacebookの傷のなめあい治癒効果あるんですよねぇこれが。)ここのところブログは書いていなくても大量にネットからの情報は摂取し続けてしまっていて。これはFacebookよりもTwitterのほうなんですが、全く縁がなく知らなかったブログの記事を偶然読み、いい意味で驚きと衝撃をうけたりすることが多々ありました。この出会いは「記事」単位での出会いで、その後も再訪し続けることはめったにない──というより反射的に読んですぐに他に移動してしまうから「その記事」が「どのブログ」に書いてあったかの記憶が残らないんですよね。「こういういいことが書いてあった」というキャッシュだけが残って元リンクが消滅してしまっている状態で「脳内Googleがあればいいのに!」って真剣に思います。「あれを題材に記事を書きたい」と思い立って探してみたけど元記事が見つからなくて記事にすることを断念といったことが何回かありました。「だれかが書いていたけど」という話のもっていきかたもありだけど、アイデアの剽窃のような罪悪感があって。脳内キャッシュしか残ってないけど「他人のアイデア」だという自覚があるときには元記事参照して書きたいよね。前置きが長くなってしまった。というか、これはこれで練習中の記事ということでエントリしておきます。読みにくいのに最後まで読んでくれてありがとう。

昨夜眠れずに

昨夜眠れずに、Twitterで真剣な議論ツイートを長時間読んでいた。

痴漢、不妊、放射能、努力と自己責任──賛成や批判やメタ議論など。脳みその中で、他人の発言を理解するために、自働的に色んなささやきをチカチカとランダムに再生する。
…これって。もし自分の思いつきがこんなに多岐に渡って、しかも賛否バラバラ状態だったら、かなりやばい状態だ。

読むことは、頭の中で再生することだから、自分の中に短時間でもその思考を入れている。その瞬間、分裂した思いを複数抱えることになる。この負担は馬鹿にならない。

意図したわけじゃない情報にランダムに接してしまうのがTwitterの特性で。その偶然性のおかげで、新たな価値を自分の外から見つけることができる。そこが大きな魅力。
だけど、キャパを超えると、こんなに苦しいメディアもないかも。傷つく情報が予告なしに飛び込んで来る。読むまではわからないから。常に不意打ち。

「他人の声」は基本的に「毒」だ。致死量には達しないだけで。心へのダメージは確実にある。真剣なツイートであればあるほど。読む価値があればあるほど。このランダムで、かつ同時に別話題の議論が錯綜するとき。並列処理の能力が鍛えられたとしても。限界値を超えると倒れてしまう。毒。

価値観(フィーリング)や健康や他者の尊厳に関することは、クリアカットした答えは出せない。自分の考えも、あえて言語化して提示する義務もない。(ところが直接言われたわけでもないのに)「立場を明らかにしろ」と迫られているような気になってしまう議論があるが、それはあえてスルー。

もやもやをもやっとしたままで。
言いたくないことは言わなくていい。沈黙が保障されない場にはいたくない。

更新できていませんが、私は元気です

この頃、忙しくて。ブログを更新できていませんが、私は元気です。

素直な新人君に「眼の下にあるそれは、クマですか?」と素直に質問されて。
「うん。皮膚が薄いせいで、クマが目立つんだよね」とやさしく応える今日この頃。

今日は、一山越えて。10月までは、山岳地帯をシェルパ無しで進む日々なので、どうってことないといえばどうってことないのですが。自分自身へのごほうびについてはこまめに与えなきゃ歩けなくなっちゃうと知っているのでひと休みしながら。

あの。

ブログへのコメント、ありがとうございます。
今どき、ブログはオールドファッションで流行らないので、コメントやトラックバックも、つけていただけることはマレです。本当にうれしいです。

上手く、コメント返しができないのですが、あの、本当にありがとうございます。

あと、更新が少ないのに、訪問してくださっている愛読者のみなさま、
もうちょっと、更新ができるといいと思っています。
なんだか、真面目な記事を続けて書いたら、気楽な記事をどう書いたらいいのかわからなくなってしまって。
あの、こいのぼり的な記事がアップできずに、音信不通な状態になっていまいました。
申し訳ないです。

TwitterもFacebookもありますが、私は、ブログが好きです。
もたもた。もじもじ。しながら、時々更新していきます。あまり「ためにならないブログ」でありたいと思っていますので、どうぞ今後ともよろしくお願いします。


どんまい!は名古屋弁

友達と「どんまい!」は名古屋弁なんじゃないかって話になった。

名古屋弁で、「がんばろまい!」(=がんばろう)、「行こまい」(=行こう)など
「〜まい」は、「〜しよう」という意味。


もともと英語じゃ…という説はあるけど、どんまい! 名古屋弁ということでひとつどですか。

Wikipedia:名古屋弁

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尾張藩主 徳川宗春様も「どんまい!」

子ども(どうし)がねがうこと

子どもどうしの会話──

願い

「3ねんせいのときはちいさかったけど、もう6ねんせいだからできるようになるよね」
「きっとちゅうがくせいになったら、お話しできるようになるよね」
ぐっときてしまったのは、彼の言葉には、「願い」がこめられているから。

希望

大人の目からみて、中学生になっても、劇的な変化は、予想できない。かれも、うすうすとそのことには気がついているのかもしれない。それでもそっと、信じて、語りかける。 だって「ちゅうがくせいだもん!きっと、なにかがかわる!」(ぼくだって)という願いをこめて。

祈り

ものを言わぬ子は、なにかたいせつなことを話しかけられていると知ってか知らずかじっとしていた。

manacaと歴史



 名古屋市営地下鉄と名鉄などで使えるmanaca(IC乗車券)。4月21日からJR東海のTOICAと相互利用ができるようになるそうです。

 このmanacaに、いつも2000円をチャージして、改札で表示される残額をみて遊んでいます。
「1999」と出たら「カイの生まれた年だな」とか、「1868」が出たら明治元年とか、「600」が出たら聖徳太子がいた頃……(アバウト)とか。残額=年と考えて歴史をイメージして。

 そのことを、妻に話したら、自分もやってみようと思ったようです。

「この前、残額表示をみたら『5060』って出て……。何も浮かばなくて笑っちゃった!」


 3000年後!

 だから2000円なの! でも未来の想像もおもしろいね。

死ぬまでの幾千の夜

この前、Dr. HOUSE(シーズン5 第14話)を見ていたら、こんなセリフが出てきました。

「死のベッドで後悔したくないように生きたい」
「ひとはそう言いながら、死ぬまでの幾千の夜を後悔して眠りについている」

使命や義務や役割に生きることは尊い。そのためには自分の楽しみやしあわせは犠牲にしても、死の床で後悔しないためには仕方がない。大きな価値のためには、今は我慢をして当然──

けれども、代わりにできるひとはいる。

自分が本当にやりたいこと、いつかやりたいと夢見ていること、楽しいと思うことを我慢して、気がついたら死の床にあった、なんてこと、リアルに想像できてしまう。

いろいろと春に向けて新しい変化があります。
別れも出会いも。

楽しい、と思うことには、「何か」があるのだと思います。
自分でも気がついていない自分の本当に望んでいることが深い水の底で、キラッ、キラッ、と存在をひそやかにシグナルしている。

まぁ、いっか(雨だし)


高校時代の親友たちが、サッカー部だったおかげで、僕の思い出にはサッカー部のことがけっこう混ざっている。

サッカー部の部長が、練習のはじめに必ず、

「今日は暑いけど、気合入れていくぞ!」とか
「今日は雨だけど、気合入れていくぞ!」とか
「今日は顧問いないけど、気合入れていくぞ!」とか
「今日は三者面談で親きてるけど、気合入れていくぞ!」など、

「今日は〇〇」のところを変えて、とにかく「気合入れていくぞ!」と言う人だった。
それを真似するのが、僕らのあいだではネタだった。

それは20数年たった今でも、仲間が集まったときに、真似して、言ってる。


部長ってやっぱり大変だよね。
自分がモチベーション上がらない時や体調悪い時でも、「気合入れていくぞ!」と注入し続けなきゃならないわけで。
それ以外のリーダーシップなんて、80’sには考えられなかった(before もしドラだ)。

僕は体育会系を敬遠して生きてきた自負があるけど、根っこのところでは、「気合入れていくぞ!」精神で生きていると自覚している。「24ジカンタタカエマスカ」──口にはしなくても、がんばろうと思っているし、がんばれ!って思っているし、がんばっちゃう。

「今日は〇〇」でも気合入れちゃう。気合い入らない自分を責めちゃう。


なので、
解毒というのは、(「毒」だとは思っていないから)言い過ぎだけど、
中和することは必要で、最近よく口にするのは、

「まぁ、いっか」

「今日はあんまりがんばれなかった。まぁ、いっか(雨だし)」←( )内は任意入替え可。


この記事は、もうちょっと短く、もっとくだらない内容にするつもりだったけど、
まぁ、いっか(トシだし)。


「じゃあ、明日も雨だけど、気合入れていくぞ!」
(あれっ?)

ささくれ

体調が今ひとつになると、ささくれができる。睡眠不足、不規則な食事、風邪のひきかけ……健康のバロメーターですね。

ささくれの話がしたいわけではなく、ひらがな4文字ってなんか可愛い!

ささくれ、ひびわれ、かさぶた

あれ?

これならどうだ!

そばかす

ひとりでできるもん!(?)

「ひとりでできるもん!」は、素晴らしいことです。
「ひとりでできるもん!」は、凄いことです。
「ひとりでできるもん!」は、アタリマエのことです。

 いやいやいや。

 なんでもかんでも「ひとりでできるもん!」は、さみしいです。
 月並みですが。

「ひとりで『できない』もん!」って投げ出したくなったときに、仲間が寄ってたかって助けてくれたときのよろこびといったら。。。

 あまり、ひとに助けてもらった経験がないことは、ある意味凄いことだけど。実は、たくさんのこと(心配して、見かねている周りの人たちのこと)に気がつかず、いつでも差し伸べようとしてくれている手を、無意識に拒んでいるのかもしれないね。

 こんなことを書ける自分は、とても恵まれている。と自覚をしつつ。
 だれもが、そんなに恵まれているわけではない。と知りつつ。

 やっぱり書いておきたかったので書いておきます。

 ありがとう。

日記:河原で考えた

近所の河原を散歩しました。

初めはふつうにウォーキングしていたのですが、土の上もいいかなと思い、歩いてみました。
歩きにくかったです。
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こんな感じ

舗装された道と比較すると、だいたい5倍くらい時間がかかりました。当たり前といえば当たり前なのですが、なんでかな?と考えてみました。

目線が下向きになっている、と気づきました。

でこぼこしているので足がぐらぐらします。何があるかわからないので用心深く進む必要があります。それが、「目線が下向きになる」原因です。

走る時、目線は遠くを見ています。舗装された道は、足元をいちいち確認しなくても、かなり前の方に視点をおいて飛ばすことができます。逆に、足元ばかりみていると、スピードは出ません。

「道なき道」を行くときは、危険がどこに隠れているかわからないので、慎重に足元を見て歩かないといけません。だから、ゆっくりになる。遠くばかり見ているとケガをします。「もっと速く!」と思っても、あせらなくていい。

難しい道を進むとき、「近目」になりすぎるわるさもありますね。そういう時は、一度立ち止まればいいんですよね。立ち止まれば危険なく、先を見通すことができます。
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たこあげしているおじいさんと孫がいたり


歩きにくいとはいっても、草刈りはしてありました。
なんの手入れもしていない生い茂ったところを進むには、もっと時間とエネルギーが要ります。
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これは散歩ではむり


舗装された道も、昔は、こんなやあんなで。最初に歩くひとがいて、続くひとがいて、今では、早いスピードで大勢を運べるようになったわけです。

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あせらずいこうと思いました

あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます。

 ブログを再開して、今日でちょうど丸1年。
 1年間で更新した記事の数は、この記事を入れて「228」でした。8年間の全記事が「869」なので、今年はかなり勤勉に更新をしたと言えそうです。

 再開して実感したことは、このブログは自分にとって水脈のような存在だということです。
 記事を書くことで、淀みをなくし、流れが生まれる。多くの友との再会、そして新しい仲間との出会い。再び、流れ始めたからこそ実現が出来たと感じています。

 今年は、カイが4月から中学生になります。色々な変化の年になるでしょう。
 力を出し惜しみせず、ベストを尽くしていきたいと思います。
 2012年も、親子ともども、よろしくお願いします。

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初詣にて

今年一年ありがとうございました

 今年2011年は、ブログを再開して、会いたかった人たちと再会ができました。
 そして、新しい仲間と出会えました。
「2011年から始まった」と後から振り返って、きっと思うだろうなと予想しています。



 震災があったことで、自分の中にも変化がありました。

 私は、なんだかんだ言って、未来を信じてきました。
 それは、「だんだんとよくなっていく」楽観的な見通しを、根拠がなくても持ち続けているということです。
 そのことは、今でも根本的には変わっていません。
 
 昔から思ってきたことではありますが、自分(たち)だけが幸せになろうとしても、それは辿りつけるものではないということ。
 だれかをあてにしていても、だめなんだということ。

 自分を出し惜しみしていたら、いつか本当に後悔する時が来る。
 だから、ベストを尽くす。

 ハッピーエンドはこれからだ!



 今年一年ありがとうございました。来年がみなさまにとって良い年でありますように。

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今年も大晦日恒例の水族館にて
キラキライワシと

代弁者?

「この人はスゴイ! 私の気持ちを代弁してくれている」

 そう思う瞬間ってありますよね。「どうしてわかるの?!」って思うくらい。

 その人の語る「内容」が、自分の思いと近くて、ほとんど同じだ!とか。
 言葉にできなかった思いや考えを言葉で表現してくれたと思う。

 それは、その発言の「内容」にシンクロしているのですが、私たちはどうやら言葉の向こう側にいる「人」、にとらわれてしまう傾向があるようです。
 「この人」は私の代弁者だ、と。

「ああ、なんでこの人はこんなにわたしの気持ちがわかるのだろう」
「うんうん。そうだ。そのとおり!」
 と「代弁者」の発言は、いつも心地よく。胸をスカッとさせてくれます。

 が、幸福な蜜月は、それほど長くは続かず。

「あなたが、そんなことを言うのはおかしい」
「あなたはそんな人ではない」と腹を立てる時がやってくる。

 だけど、少し冷静になればわかりますが、「あなたが、そんなことを言うのはおかしい」という批判はおかしい。他人が勝手に、シナリオを用意しておいて、そこから外れると、「見損なった」と怒るわけだから。

 そもそも、代弁者などではなかった。期待するから裏切られる。
 心励まされたのは発言の「内容」だった。「人」ではなかった。


 もっと極端なのは、「相手が自分と似た境遇にあるからといって、代弁してくれる」と期待すること。

 境遇が似ているように見えるだけの、会ったこともない他人の発言に、「あんなこと言う人だとは思わなかった!」と不全感をいだき、怒りを感じる。へんじゃないですかね。




 他人の発言に怒りを覚えるときには、自問しようと思います。
 私の目的をかなえるために、他人を利用しようとしていなかったか? 他人を、自分の道具として扱っていなかったか?

「代弁者」に裏切られた、と思ったとき、自分の中にある、他人を手段として利用する魂胆に気がつく。

「代弁者」なんかいない。

IMG_1483

それでも、「期待」をして、裏切られ続けるのが人のサガなのでしょうか。。。

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