カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル

〜自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界!〜

親の

RE: バスでのできごと(野球部のみなさんへ)

今日は成人の日ですね。

2012年12月に、バスの中で高校生が知的障害者をいじめた動画を撮りアップした事件がありました。その報道を知って「バスでのできごと(野球部のみなさんへ)」という記事を書きました。
事件の当事者である高校生へ向けて、障害のある子を持つ親からの思いを綴ったものです。

・バスでのできごと(野球部のみなさんへ)
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52449928.html

もう4年が経つんですね。この事件の高校生も、今は働いていたり、学生になっていたりするのでしょう。成人を迎えたかもしれません。

今わたしは彼らが「この時自らがしたこと/感じたことを覚えていてくれるといいな」と思います。

大人になると、守られる立場から、わが子や大切な人を自分が守る立場になっていきます。そのとき、人がどうしても抱えてしまう「弱さ」に気づくでしょう。この子が泣くと、わが身が切られたかのように痛く、悲しい……。その「弱さ」を否定せず、どう認めて大切にしていくか? 

あなたがたは、自らの生き方やあり方を問う経験を既にしています。叱られたり、叩かれた経験はとても苦しく辛いものだったでしょう。
だからこそ、「痛み」を憎しみや嘲笑ではなく、やさしさに変えていける──「弱さを知っている」大人になれると信じています。

大人になることを祝福します。おめでとうございます。
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10年前のカイ。地下鉄練習中。

「みんなで幸せになろう!」

年齢も性別も違うし、生い立ちも違うのに、びっくりするほど感じ方が似ている、魂がつながっていると思っている「心の姉」こうままさんが書いてくれた。

野澤さん、大塚さん、明石さんのお話を伺っていろいろ考えました。
6月の宣言を撤回します。
ブログにも書くし会報にも書くし講演もします。
コラムも講師依頼も積極的にお受けしていきます

・考え直しました:こうくんを守れ!!!
http://koumama.seesaa.net/article/440603287.html

こうくんが成人して、フェーズが変わったから、啓発活動は控えていくと宣言されていましたが、その宣言を撤回されました。
コラムも講演依頼も積極的にお受けするとのこと。

明石洋子さんをはじめとする親としての先輩の話を聴いて、決意を新たにされた。

結局、わたしたちは「一人では生きていけないわが子が地域で暮らしていくために、支えてくれる人たちを増やしていこう、そのために活動をしていこう。微力ながら、地域を耕していこう」と決めた親たちなんです。

疲れたり、しんどかったり、「やめればいいのに」と他人から言われたり自分でも思ったりしながらも、続けてきた。

そして、これからも続けていくんだ。やっぱり。命の限り。

「みんなで幸せになろう!」こうままさんがいつもかけてくれる言葉。わが子だけじゃなく、みんなで幸せになろうと。

わたしも言うよ。

「みんなで幸せになろう!」

昔話と早期療育についてもうじき17歳になる子の親が思うこと

NHKの「あさイチ」で取り上げられた応用行動分析(ABA)を使った療育について、感想をカイパパFacebookページに投稿をしました。

昔話。
やってみはしたけれど、うちの子の発達レベルには合っていなかったのでしょう、まったくかみ合わず無視をされました。
あきらめずに続けようと思うには、あまりにもとりつく島がなさすぎて。
うちの場合は家庭では、設定された形での「療育」はあきらめ、生存と成長を保つ「子育て」になりました。(まず何よりも寝ないことが最大の課題でした…)

試すのはいい。わらにもすがりたいのが親の自然な気持ち。
でも、発達レベルによって、合う場合とそうでない場合がはっきりとある。合わなければ、そのアプローチが合っていないのだから、あきらめればよい。わが子をアプローチの形に無理に合わせるのは違うよね。

肩の力を抜いて。一緒にいるだけで、がんばっているのだから。

この投稿へのコメントやシェアを読ませていただいて、もう少し丁寧に、思ったことをつづっておきたいと思います。

応用行動分析(ABA)は発達や社会適応を助ける必要な手法です。TEACCHもABAが根幹にあります。療育や教育の場で、専門家による実践が進むことを期待しています。そして、無理のない形で、その子どもの発達に合わせた(たのしくできる)ABAを親にも教えていただけるとありがたいです。

「早期療育」という言葉は、実に、厳しい言葉で、、、
特に、大きくなってしまった子どもを持つ親にとっては、「あの時やっていれば…」という「手遅れ感」による自分を責めてしまう感情が重たくて。
だからといって、「早期療育」をアピールするな、というつもりはありません。
が、複雑な気持ちは消せないんですよね。

私が経験から思うことは──

学齢期前に(多くの親が、最もやろうとする時期)ABA療育を「家庭内」で徹底しようとすることは、弊害があるんじゃないかな?ということです。

それは、うまくいかないときに(うまくいかないことが多い)、親が子どもを嫌いになってしまうことです。ただでさえ、愛しにくいこの子たちがABA的な枠から外れた想定外の(意図しない)リアクションをしたときに、親は怒りを覚えてしまう。
専門家であれば、距離感を保ち、トライ&エラーができても。24時間親であることをやめられない私たちには「感情」が邪魔をします。(←ここが親と専門家の大きな差です。無視してはいけない)

混沌の中にある小学校入学前は、何よりも優先すべきは「生存」です。子どももそうだけど、何よりも親が追い詰められないように周りが支えることだと思います。

親としては、あきらめることも勇気がいるので、「今はまだタイミングじゃない」と決めて、自分の中で「保留」にするのがよいのかなと思います。

いやがるのは、自分に合わないものをはねのける、何よりも貴重な力です。そうやすやすと型にはまってくれないのが、わたしたちの子どもたち。
親だって人間だから、成功してほめられたい!失敗は腹が立つ!のが自然です。

「こうでなきゃ」とか「こうしなきゃ」が首をしめるので、まずは、自分の首をしめる手をゆるめませんか?

もう少し時間がたって、時機が来てからでも遅くはないと思います。

うちの子の場合、伸びを実感したのは中学生になってからでした。それまでの積み重ねがあったから、とも思いますが、大人になるにつれて身体、脳が成長してきたから、というカイ自身の成長の要素が強いと感じています。(*カイは3歳から12歳まで週1回療育(※ABAではありませんが)に通っていました。)
吸収できる準備ができてからの取り組みは、本人も自信が持てて、親もうれしくなります。

わたしのわずかな体験ですが、こういう考え方もあるということで、なにがしかの参考になればと思います。(わたしも、これでも昔はけっこう真剣に勉強したんですよ! 失敗しましたけど)

【追記】
わたしは早期療育の必要性を否定するものではありません。文中にも書きましたが、カイは3歳から12歳まで週1回療育に通っていました。そのことについての記事も書いています。
(古くからの読者はご存じのとおり。カイには数多くの恩人がいます)

・彼は勉強家 (2011年12月1日の記事です)
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52355936.html

ABA療育は発達レベルに合わせて、評価して計画して実施するものです。なので、「発達レベルに合わないからやらない」ということは本来ないはずのものです。しかし、素人である親は、どうしても「もっとできるようにしたい」という高いレベルを望み、願望から、その子には難しすぎる課題を与えてしまいがちです。
特に幼児期は、家庭では、子育てをするだけで、相当にがんばっているのだから(障がいがない子の子育てだって大変なのです。ましてや障がいがある子は…)。
親が自分を追い込まないように、周りの人たちも気をつけていただきたいというのが伝えたいことです。

こどもの日に想う Wonder Kai

うちのカイは今年17歳になる。ゆうべ妻と二人で昔のアルバムを見ていて。静止したカイはとにかく愛らしく。「どうしてあんなにたいへんだったんだろうねぇ?」と話していた。たいへんなことは写真にとれないから? 写真の中で輝いている彼をみることを、老後の楽しみにしようねと。
aokoikai
初こいのぼり カイ10か月

「カイパパ」は親目線でみて考えて発信してきた。語ってきた自閉症の苦しみは「親が感じる苦しみ」だった。それをクチに出して、ひとに聞いてもらうことが親にとっての癒しになることは事実。でも、わたしの親が「おまえは大変だった」と他人に触れて回るのを、わたしが聞いたらいい気はしないよね。

大人になっていくカイを、祝福したい。おとうさんはおとうさんなりに時を積み重ねて、きみがきみであることのWonderを心の底からわいてくるよろこびとともに抱きしめることができるようになったんだ。「◯◯だから」とか「XXだけど」とかそういう留保無しで。カイはさいこー、唯一無二愛してる。

3 of Us

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桜に見守られ夜のおさんぽ


「自己決定とは自分だけで決めないこと」※親は例外

俗にいうこの「自己決定」の視点は、今や、あらゆる福祉サービスやケアの大原則として広く普及しています。その自己決定論を背景として専門家が当事者とかわす言葉の中に、
「あなたはどうしたいの……」という問いかけが、あらゆる場面で見受けられるようになりました。しかし、その問いを投げかけられた当事者の多くは、「自分が決めたのだから、その結果責任はあなた自身が背負うことになります」という背後にあるメッセージに緊張を覚え、恐怖を感じるといいます。

・引用記事:往来物手習い:自己決定とは自分だけで決めないこと
※上記の引用箇所は、向谷地生良・浦河べてるの家『安心して絶望できる人生』P.66〜68からの引用。

井上淳之典さんが引用するべてるの家の向谷地さんのことばを読んでわたしが考えたこと──

「自分だけで決めている」ことは、どの人も実は限られていて、実際には家族や友人と相談したり先生や同僚と話し合ったりして「こんなもんかな」と決めている。ネットの質問板があれだけ盛んなのも、ネットでの相談を決定に活用しているからでしょう。

「自分で決めた」経験がない人は、実は「相談をして決めた」経験がない人だったりする。相談のしかたを知らない(どこまで相談をして、何を選んで採用して、決めたらいいのか? 相談者が言うことに100%従わず、今回は70%にしておく、というあんばいがわからない)。

「あなたはどうしたいの」の問いかけは、根源的すぎてこわいものがある。
「あなたは何を頼む?」とレストランで尋ねられて、決められず冷や汗をかくのも当たり前にあること。ましてや、生活の根幹に関わるようなことを「自分で決めて、責任も取れ」と言われたら、こわくて決められないよね。

「意思決定支援」を考えるときに、「自己決定とは自分だけで決めないこと」というコンセプトを必ず思い出したい。

──とここまでが、今朝カイパパFacebookページに投稿した内容で、非常に多くの方に見ていただきました。が、ここで終わってはいけないという危機感で、以下書き足しました。

「意思決定支援」を考えるときに、「自己決定とは自分だけで決めないこと」は意識すべき。

だがしかし、「親」だけは、本人の意思決定に介入をすることに極力抑制的でありたい。

なぜなら、「親」が子に対して持つ影響力は、他の周りの人とはレベルが違うからです。
「親」がする「助言」や「選択肢の提示」は、意思決定「支援」を超えて、「代行」になりがちです。それは、形式的には本人は「選ぶ」かもしれませんが、生まれた時からの関係性(習慣)によって本人も「自動的に選ばされている」状態になってしまう。

さらに、「親」は、意思決定に介入した「責任」を自分が取るつもりなだけに、余計にたちが悪い(※自己批判です)。

「我が子のためにしたことの責任は、私が取ります!」一見いさぎよいように見えますが、これは最悪です。「本人が、自分自身の行動の責任を取ること」すなわち「自分自身の人生を生きること」を「親」が奪いとってしまっていることに気づいていないからです……。

自分で決めて、自分で責任を取る。それが、ひとりの人間の人生ですよね。
残念ながら、「親」が意思決定支援に関わると、やり過ぎてしまう。奪ってしまう。それは、「親」がずっと「親」をやってきたがゆえに(涙)。

わたしは、カイの意思を尊重したい。彼が自分で決めて選べる大人になることを目指して、日々暮らしています。彼は、昔よりもはっきりと意思を示せるようになってきています。「選ぶ」前提となる「経験」を今のうちにたくさん提供すること。それが、「親」であるわたしたちの役割で、彼が大人になってからは、彼の意思を尊重し、決定を手伝ってくれる人たちにささえられて、人生を生きていって欲しい。そう願います。

お誕生日おめでとうございます!

友人のお子さんが17歳の誕生日を迎えました。お父さんであるタロ父さんは、わたしが最初に友達になった自閉症の子を持つ父親で。一緒に飲んだり、活動したり、泣いたり笑ったりした仲です。

彼は、生死の境をあやうく越えそうになる経験をし、わたしも同じような経験をして。
今日、お互い生きてこの日を迎えることができて本当にうれしく思います。

Facebookで流れてきたファミリーの全力で楽しんでる写真、無心の笑顔に泣けてきました。

隆太郎さん、お誕生日おめでとうございます! きみの前途に幸あれ。

タロ父さん、タロ母さん、長かったようで、あっというまに大きくなりましたよね。お二人のこれまでのがんばりと愛情に敬意と限りない共感を!
いつかお茶でもすすりながら昔話に花を咲かせましょう。おめでとうございます。

子どもの話題

仲良くなって、初めて食事に行って、同世代どうしだとそれぞれの家族、とくに子どもの話題になることがある。

わたしの息子が16歳だと聞いて、好きなことは?スポーツとかやってるの?とかふつうに聞かれる。

毎度答えをどうしようかと迷う。

ちゃんと答えるなら自閉症や知的障害を言うことになる。が、それはかなり相手に「負荷」を与える。どう応じてよいかわからない、悪いこと聞いちゃったかなと思わせる、話題がそれに集中したり、同情されたりするのもどうかなと思う。

多くの場合、わたしは軽く話をそらして、相手の子どもの話の聞き役に回る。

話す相手を選んでいる。

もしも、あなたに子どもの事情を話してくれるひとがいたら「話してもいいと思ってくれたんだ」とわかってくれたらいいな。だから、こわがらないで。

「正解」はないから、あなたなりに聞いてあげて欲しい。わからないことは、質問して。ただ、目の前の人の抱えているものを受け入れてみてほしい。

それができたとき、二人の間には特別な空気が流れているはず。

"Thank you for asking."

長生きを願うより、先手を打とう!

今日読んだ興味深い記事。

・おかあさん、90才まで生きましょう!!〜思春期は40才で終わる
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakatoshihide/20150627-00047020/
特に75才を越えてからは、子どものケアよりも自分(母)自身の長生きを考えてください、と言うと、わりと盛り上がる。

誰もが100才になりたいと思っており、こどものひきこもり高齢化は母自身が100才になるための正当な理由になるからだ。

わりと盛り上がる、というところが、なるほどと思い、
「障害を持つ子の親に「90歳まで生きましょう」と言うのと似てる。長生きは誰でもしたいし、長生きする意義を見出すと、ひたすら心配するモードから「攻め」モードに切り替えることができるのかな。」とコメントしてシェアをした。

でも、この記事で問題にしているのは、経済的なことだけなんだよね。たぶんお金が続けば、一生ひきこもっていても生存はできるから、「お金が切れないこと」がキーになるのだろう。

ケアを必要とする子どもを持つ親の場合は、やっぱりお金だけを用意しても、本人の生存すらもおぼつかない。親は、お金を払うだけではなく、様々な支援を自らも提供しているわけで。

やっぱり、長生きは(できればそれに越したことはないけど)するしないに関わらず、「親亡き後」よりずっと早く訪れる「親の支援無き後」に向けて、早いうちからどんどん「攻めて」いこう。できることはたくさんあるから。

【追記】
正直な話。昨夏体調をくずしたわたしは、長生きできる自信はまるでありません。

制度が整っていること、カイのまわりに「人垣」ができること──
次の世代が、親身になって、権利を守ってくれること──

を願って、「今」できることをやるしかないんですよね。

未来のことを、「今」直接「保証」することはできません。
じぶんにできることは、「今」困っている人のためにできることをして、
めぐりめぐって、いつの日か、カイが困ったら助けてくれる人が現れることを期待する──
というとても迂遠だけど、実は、「今」できる一番たしかな「先手」なのかなと思います。

確定診断

友から受けた報告は、辛いものだった。

覚悟していたつもりでも、診断が「確定」することで、
「そうではない可能性」が閉じられてしまう。

もう十分に、苦しみ耐えてきたのに、なんでまた…
悲しい、苦しい、つらい、心に渦巻く感情は、
かんたんには去ってくれない。

収まったと思っても、すぐに戻ってくるし、
忘れたつもりでも、いつぶり返すかわからない。

血を流したまま、気丈に振る舞わなきゃならないときもある。
外に出かけなきゃならなかったり、
ひとと会わなきゃならなかったり、
仕事に行かなくちゃならなかったり。

そう思っても、しばらくは不安定な自分を許して、休んだらいい。
僕も、けっこう休ませてもらった。

一方で、仕事に行くほうがまぎれる面もあった。
逃げていた。
逃げさせてもらっていた。
でも、じぶんを責めなくていい。
そこからエネルギーを補給して、家に持ち帰ればいいんだよ。

いまは感情に身を任せていい。
パートナーの気持ちを聴いて、
じぶんの気持ちも隠さず伝えて、力を合わせていこうと確認し合おう。

いずれ喪が明けて、立ち上がれる時が、必ず来る。
それまでは、かなしみにくれてもいいんだよ。

じたばた、浮き沈み

ネットでときどき赤ちゃんから幼児の子育て記事に遭遇して、読んで思うこと。

「定型発達のお子さんて、すごい! 天才だ」

昔は、胸の中の空洞を、冷たい風が通り抜けるみたいな感覚があったけれど、今は純粋に「天才だ」と思います。

こういう、じぶんのなかの、怒りや嫉妬やかなしみは、「ネガティヴ」なので、じぶんでも恥ずかしいとか認めたくないものでした。

口にしたところで、ぐんぐん成長するお子さんには何ひとつ非はなく。親御さんに、こちらの複雑な感情を知られて、いやな思いもして欲しくはないですからね。

そっと目を閉じる。その場を離れるだけです。

ネガティブなものに対抗するためには、ポジティブなものを自分で打ち立てなくてはいけない。そのためにはネガティブなものをはっきり見なくてはいけない。
──村上春樹さん、村上文学を語る(中) | 河北新報オンラインニュース

大切なのは、じぶんのなかにある気持ちを、認めてあげることなんだと思います。

怒りやねたみやかなしみも。
ネガティヴは、じぶんのなかの「弱さ」から生まれてくる。
「弱さ」は否定すると、攻撃的になる。
「弱さ」を認めると、やさしさになる。

何かを新しくつかみ取ろうとすれば、プラスの分だけ、必ずネガティブなものが生じるんです。プラスのものを確保しようと思えば、ネガティブなものも代償行為として引き受けなくてはいけない。そうしないと、人は生きている意味がないと思う。
──村上春樹さん、村上文学を語る(中) | 河北新報オンラインニュース

がんばって、明るくポジティブに振る舞うのもいい。
めそめそと、自己憐憫で泣くのもいい。自然なことです。

人生のフルコースを、じっくり時間をかけて、味わってる途中なんだから。

あきらめもせず、達観もせず、じたばた、浮き沈みしながらこれからも生きていく。

本当の気持ちがわからなくなる…

昨日書いた「困っていることやできないことはありますか?」に対して、「たしかにそう」「目からウロコが落ちた」という共感の反応をいただきました。みなさんそうなんですね。何が苦労か、不便か、わからなくなっている。

わたしたちは、その時その時の状況のなかで、可能な限りのベストのくらしを成り立たせようとして努力をしています。
が、その努力は、「苦労を苦労と思わないようにする」=本当の気持ちを抑えこむ、精神的不感症になる──面もあると気づきました…

40歳代の息子さんをお持ちの先輩お母さんが、先日、障害者差別解消法について話していた時に、

「私の年代だと、長年の暮らしで、差別を差別と感じないところもある」

と悲しそうにつぶやくのを聞きました。

このことばが胸に刺さりました。ずっと大変な苦労をしてきて、差別を受けたときでもじぶんたちが遠慮することが”当たり前のもの”と、されてきたからですよね。

そんなことを言わなくてもよい世界に変えていきたい。
いっしょに変えていきましょう。

「困っていることやできないことはありますか?」

Facebookで障害の区分判定のエピソードに出会い、なるほど!と思ったことを紹介します。

■困っていることはありますか?

障害の区分判定の検査の際に、「困っていることやできないことはありますか?」と尋ねられて、ハイティーンの自閉スペクトラムの子を持つ親御さんは、思いつかず、答えられずにいたそうです。すると、

「周りの同年代の子にはできていて、お子さんにはできないことは全部そうなんですよ」と説明されて、そういうことかと合点がいきました。

障害の子をもつ家族は、何年もかけて、学び、サポート体制を整えて、日々平穏に暮らせるところまでどうにか、たどり着きます(たどり着けず苦しみが長年続く場合もあります…)。

だから現時点では、日常のくらしについて「困りごと、できないこと」を訊かれても、とっさに何を聞かれているのかわからなかったりします。

■ひとりでできますか?

でも、たとえば同年代の子にはできることで言うと、
休みの日に親は外出をして、高校1年生の子どもがひとり留守番をする日に、「お昼は自分で食べてね」とお金を置いていったとします。

同年代の子どもは
・出かけて
・店を選んで入り
・席に案内してもらい
・メニューを読んで
・食べたいものを決めて
・注文をし
・食べて
・レジへ行き
・お金を出して
・釣り銭をもらい
・帰ってくる
これだけのことを「ひとりで」できるでしょう。

うちの子の場合は、ことごとくハードルがあり、「ひとりで」行うことは不可能です。
「外食して帰ってくる」を実現するためには、「付き添い」が必要です。
けれども、「付き添い」を得て、「外食をして、美味しかったと満足する」結果はおなじように得ることができています。困ってはいない。

それは、「支援があれば」困ってはいない、ということです。

■どれだけの支援が必要ですか?

障害程度を判定する目的は「どれだけの支援があれば困らないか」を知るため。
だから、「支援を外した」単独状態で、できること/できないことを評価するんですね。

そこを、周りにいるわたしたちは理解しておく必要がありますし、
判定にかかわる専門家は、「支援を組み立てて、生活を成り立たせている人」に対して、「支援がないとしたら、何が不便か? 何ができないか?」と伝えて欲しいと思いました。

それから、しぶとく、たくましく、くふうをして、くらしを成り立たせている家族たちを、ねぎらってもらえたら本当にうれしいです!

無理はしなくていい

ゴールデンウィークの間に書いた記事が、Facebookでシェアされて、とても多くの方々に読んでいただきました。

コメントで、「昔を思い出しました」という反応をもらいました。「こんなふうな声かけを、診断直後にかけてほしかった」という声もありました。

シェアしていただけたのは、周りにいる人たちから、ショックを受けている親への声かけのヒントとして広めていただけたのかなと思います。

静かに、けれども力強く、広がっていく──それがこのように伝わってくるから、ブログを続けてきてよかったと心から思えるんです。ありがとうございます。

わたしも近ごろは「先輩親」として、若い親御さんから相談を受けることが時々あるようになってきたこともあって、カイが自閉症の診断を受けた頃のことを思い出す機会が増えてきました。相談を受け、なにかを言おうとするとき、立ち返るのはじぶんの経験だからです。

こうすればうまくいく。
というアドバイスはできなくて。

過去のじぶんに立ち返って(というか過去の自分に向かって)、出てきたのは、

「無理はしなくていい」

ということばでした。

先の記事の最後にこう書きました。
だから焦らなくてだいじょうぶ。
問題を「解決」しようとしなくてだいじょうぶ。
そもそも「問題」なんかじゃないことに気づくから。

このことばの意味するところは、また機会をあらためて書きたいと思っています。

長い休みに思い出す〜わが子の障害がわかったあの頃

ゴールデンウィークの長い休みで、幼いわが子と長い時間を過ごす。妻から不安を幾度となく聞かされても「気にしすぎだ」と取り合わなかった父親も。
子守を任されて、2才児がよろこびそうな場所に連れて行こうとする。いつもと違う行動を全力で嫌がる。奇声をあげる。だっこから身体をよじって落ちても気にせず脱走しようとする。電車は無理だとあきらめて、車に乗せる。走っている間は静かで、信号で止まるたび、キィー!と叫ぶ。

ほとほと疲れ果てて家に帰り、「ただいま」の声に答える声はない──ベッドでは死んだように眠る妻の姿。心は折れて、たった半日なのに、これだけぼろぼろになってしまった。妻はどれだけ苦しんだだろう? いったいこの子の何がおかしいのか…。

わが子はいつもの席に座り何かを待っている。何を待っているのか? 何が欲しいのか? わからない。また泣き始める。仕方なく、妻を起こす。

「悪かった。休みが終わったら、どこかに相談に行こう」

──書いていて切なくなります。きっと今もどこかでこのようなことが起きている。

Facebookで出会った「先輩お母さんからのはじめてわが子が自閉症の診断を受けた母親へのアドバイス」を紹介します。

・The Best Advice I Can Give a Mom Who Just Got an Autism Diagnosis
http://themighty.com/2015/03/the-best-advice-i-can-give-a-mom-who-just-got-an-autism-diagnosis/

アメリカの方が書いた記事ですが、わが子の診断を受けた時の親の衝撃は、国は違っても同じなんですね。
先輩お母さんからのアドバイスがあたたかいです。英語なので、カイパパの拙い訳でご紹介します。
今は、何もしなくてだいじょうぶ

家に帰って、アイスクリームを食べに行ってだいじょうぶ

今夜はあなたの娘さんとくっついて、彼女の大好きなビデオを何度も何度も見続けてだいじょうぶ

ベビーシッターをお願いして、夫とでかけてもだいじょうぶ。自閉症の話は一切しなくてもいいし、その話ばかりしてもいい。あなたが過ごしたいように時を過ごしてね

インターネットで見つけたありとあらゆる情報を読んでもだいじょうぶ。それとも、すべての記事を疫病みたいに避けてもだいじょうぶ

Amazonで買った本を読みふけってもだいじょうぶ。あなたが初めて手に入れたおんぼろ車につかった時間よりも長く

本を買うかわりに、あたらしい化粧品を買ったり、美容院にいったりするのもだいじょうぶ

診断をきく前とおなじ母親であってだいじょうぶ

だって、あなたは同じあなたなんだから

母親から母親へのアドバイスになっていますが、父親に対しても同じだと感じました。

子育てを母親に任せきりにしていた父親は、診断がついてから、焦って「自分にできること」を探そうとします。情報を探しまわり、勉強し、「いいらしい」と聴いたことをすべて試して「自爆」したり。パートナーにかえってプレッシャーをかけてしまったり。

間違ったことをしているわけではなくて、ただ、この子にとっては「まだ時期ではない」ことがたくさんあるのです。

引用記事はこのように続きます。
いつしか、あなたは驚くことになる。自分が、わが子のために、どれだけ能力と強さをもち、学び、しっかりとした人間になったことに。あなたは、すぐに専門用語や略語を理解し、医者やセラピストや他のママたちが話す言語を元から知っていたみたいにわかるようになる。そうなるの。

そして、あなたは本当にそれがすごく得意になる。

だけど今は──。そうなる必要はないの。
あなたの子どもは変わらない。そしてあなたも同じママ。
お医者さんの診断は、そのことを何も変えていない。

わたしにできるアドバイスは、とてもシンプル。
診断の後の最初の数日、数週間、「あなたが必要なだけ時間をかけていいよ」ということ

あなたたちだけじゃない。
わたしたちも、苦しかった。11年前に「今は喪中だから」という記事を書いています。
診断の告知を受けたときに、私たちは混乱し深い悲しみに落ち込み、おぼれてしまいそうになってしまいました。
その感情は、将来に対する不安と喪失感だったと思います。「しっかりしなくちゃ」と思うのだけど、ふとした瞬間に涙がこぼれてしまい、仕事が手につかないくらいでした。また、妻の落ち込みも激しくとても心配でした。

そんなときに、妻が言った言葉――「今は喪中だから悲しいだけ」。この言葉の意味は、「今は喪中だから悲しむだけ悲しむ。でも時間が経って喪があければ大丈夫だから」という前向きな意味が込められていると思いました。

「悲しいときはがんばらないでいいよ」と伝えたいです。悲しいときは悲しみにくれたらいいんです。仕事だって、休めばいい。子どもの障害は、それくらい重く大事なことなんですから。

これから、いろいろなことが起きるけれど、辛いこともあるけれど、いっぱい失敗もするけれど、ひとのやさしさやあたたかさにも出会う。助けてくれるひとがたくさんいる。

子どもはゆっくりと成長する。今はわからなくても、この子はあなたたちをかけがえのない存在と理解し、愛してくれるようになる。

だから焦らなくてだいじょうぶ。
問題を「解決」しようとしなくてだいじょうぶ。
そもそも「問題」なんかじゃないことに気づくから。
それが、15歳のカイの父親になった、わたしに言えることです。
2004保育園運動会
2004年のカイとパパ

Eさんへ

ブログを通して、知人の娘さんが亡くなったことを知りました。重い障害とともに生まれて、14年と8か月。命の限り、生きられた。

ネットで知り合い、まだお会いしたことはないお母様のことを、わたしは、強い人だと尊敬していました。
そのかたが、悲嘆にくれて、死をうけとめきれない。誰にも会いたくない、話したくないと書かれています。
「強い」ようにみえたのは、わが子が力をくれていたからだったのかも…
そう、わが身を振り返りながら、思いました。

子を守るため、無限のエネルギーがわきだす無敵状態。時には疲れる時もある。そのうち、鎧が身体の一部になったかのようにもなります。「別に頑張っていない。ふつうのことをしているだけ」と答えるでしょう。

でも、
わが子がいなくなって、
残された親は、
いったい、なんだったんだ。
これまでの頑張りや無理は。
この子が生き延びるため。
そのために、何もかもやってきたのに。
なぜ?

他人が、声をかけることも、はばかれるような悲嘆にくれた姿を知って。
やっぱり、わたしは、どうしていいかわからず、直接声はかけられないのだけれど。

今、あなたの娘さんが、LIFEを生き抜き、頑張ったことを、わたしは知っていて。
あなたの悲しみ、怒りに、遠くからだけどシンクロして喪に服していると、ここに書いておきます。

眠れぬ夜のやり過ごしかた

よく眠れるというのはそれ自体「恵み」だ。
身体は疲れているのに、目が覚めて寝つけない時、
パチッとスイッチを切るみたいに眠れたらどれだけいいかと考える。
卒園式
こんな夜は、あれだ、スーパー可愛いカコのわが子の写メなんかながめて、ほくそ笑んだりしてやり過ごすのだ。

意思決定支援あれこれ

元旦の更新から、3週間も空いてしまいました。

この間、1月10日に、小牧市で権利擁護の講演を聞きに行ったり、1月11日に、プロジェクト部企画の権利擁護セミナー「本人のベストインタレスト」を開催したりと、いろいろと報告したいことが溜まってきています。とても得るものが多く、考え続けています。

実情を知り、現実はこれでいま回っているのだとわかる。極端な不都合は生じていないから、報道されることも少なく、意識されることも少ない。
でもそれは、「本人の意思」をくみとれていないことや、くみとれたとしても、「実現が難しいから」という理由で「意思」が無視されてしまっている──しかし、そのことが「問題」だと認識されていない。「問題ありません」という報告の中身に問題があるのだ。

本人の意思はある。本人の意思決定が実現していないこと自体を、「問題視」することから始めていかなきゃいけない。
無自覚に、他人(わが子も他人)の権利を無視してしまっているのが問題。

「親だから、子どものことを一番考えているのだから、親が決めればOK」ではない。
「意思がないんだから、他人が決めて当たり前」となっていないか? 
「本人の最善利益を考えたら、どうしてもこうしなければならない」という場合でも、その決断を、痛みを伴う自覚をもってできるか?

こうままさんが昔から、「違いのわかるオトコに育てたい」と言い続けていて。
それは、「選べる」ひとになることを言っている。
「選べる」ようになるには、じぶんの意思で「選ぶ」経験を小さい時から積み重ねることが必要で。常に、誰かが決めた「結果」を押し付けられて生きてきたら、「選べる」ようにはならない。

「選ぶ」ためには「選択肢」が要る。「あれかこれか」の2択や3択だけでは足りなくて、ほんとは、「その他」っていう選択もある。親は、実現がしやすい選択肢を提示しがち。選択のテーブルにあがっていない「その他」は、実現が難しい(それは、不可能ではなくても、手間がかかる)。

──でも、もしも、カイが「その他」をじぶんで選んでくれたら、僕は喜んでなんとかしてかなえたいと思うだろう。障害の重さを痛感するのは、新しい経験を望まず、決まりきったルーティンを選び続けることの方だから。

やっぱり、挑戦の機会を与え続けることが肝心だ。
「イヤ」という拒否は、「その時の彼」の意思だが、ベストインタレストを将来的にも実現していくためには、体験したことがないことを体験してみて、好きだと思えるコトを増やす挑戦を続けていきたい。

5行で終わるつもりが、書き始めたら、こんなに。まとまりもないひとりごとです^_^;。セミナーの報告は、あらためて書きます!

こうままさんの1月11日「本人のベストインタレスト」レポートはこちらです

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わたしと同い年、共通点が多い、又村あおいさんは「意思決定支援は、まだまだこれから議論を深めていく時期」と何度も繰り返されていました。

合唱大カイ

中学最後の合唱大会を観に行きました。
今回は舞台上で先生は付かないと聞いていたので、どうなることやら…

おっ、ステージにあがる。クラスメートと一緒に、同級生が手を引いてくれている。おとなしくついていっている。

ひときわ目を引くのが、黄色いイヤーマフ。今まではステージにはイヤーマフをつけてあがっていなかった(そのかわり、歌の間、手で耳ふさぎをしていた)。たしかに、カイにとっては歌声はうるさすぎる。先生、思いきったな。

イヤーマフのおかげか、表情に余裕があった。耳ふさぎもしなかった。

歌の最後まで、先生が出てくる必要はなく、ほほえみながらそこにいられた。
これまで合唱大会ではいろんな、ユニークなことをしてくれたから(全部いとおしい思い出だ)成長したなとじんわりあたたかい気持ちになった。

イヤーマフつけての合唱大会も十分ユニークなんだけど。必要な配慮を受けた参加だから、わたしはうれしかった。

時々、空に文字を書く姿が、まるででかいヘッドホンつけたDJがレコード回すみたいだった。
イヤマフ

【告知】11月2日におやおや交流会を開催します!

おはようございます。台風が接近中で、心がなんとなく落ち着かないカイパパです。

さて、きっとステキな秋晴れになる11月2日日曜日に、愛知県自閉症協会プロジェクト部企画☆おやおや交流会を開催します。

私も、プロジェクト部のメンバーたちも、自閉症・発達障害の子どもを持つ親として、悩みながらこれまでやってきました。
仕事がキツかった日に限って、子どもの学校で問題発生。懸案がイッキに押し寄せてきても、体はひとつ。家でついつい仕事のことを考えていて、パートナーの話には上の空...

「ちょっと、話聞いてる?」

こんな経験のある悩める親のみなさん、おやおや交流会で話し合って、ちょっぴりでもスッキリしませんか?

申し込みは,コチラから↓多くの方のご参加お待ちしています。
http://kokucheese.com/event/index/207085/

◆イベントのご案内◆
プロジェクト部企画第2弾
『第1回おやおや交流会 〜わが子のために、夫婦の相互理解を〜』

重要な生活基盤である家庭で、家族みんながニコニコで過ごせたら、どれだけハッピーなことでしょう。自閉症を持つ本人を支える、そんな幸せな家庭づくりには、夫婦の努力や協力が欠かせませんが、夫婦それぞれが一生懸命であったとしても、時として互いの考えと現実に食い違いが生じることもあるでしょう。
たとえば、「こんなに育児に参加しているのに、妻がイライラしているのはなぜなんだ?」「よかれと思って外出しているのに、帰ってきて口をきいてくれないけれど、オレ何かしたのか?」「なんでこれをしてほしいってこと、夫に伝わらないんだろう?」なんて思った経験はありませんか?

今回は、「父親は母親に、母親は父親に何を期待しているのか?」をテーマに、話し合いたいと思います。
・母親どうし、父親どうしのグループに分かれ、日々の生活で相手に対し感じていることや、思っているけどうまく言えないことを話しあいます。
・その後で、お互いがどんな思いや考えを抱き、どう行動しているのかを伝え合い、母親と父親の相互理解につなげます。
・当日は、支援者(福祉、教育関係)、つぼみの会ペアレントメンターもサポーターとして参加予定です。

日時:2014年11月2日(日) 14:00〜16:30

場所:なごや人権啓発センター(ソレイユプラザなごや)
   http://www.jinken.city.nagoya.jp/
(名古屋市中区栄一丁目23番13号 伏見ライフプラザ12階)

対象:どなたでもご参加いただけます。ご夫婦そろってでも、どちらかおひとりでの参加も歓迎です。託児がない点はご容赦ください。

参加定員:35名(先着順)

資料代:愛知県自閉症協会会員=500円、 会員外=1000円 

申込方法:以下のURL(こくちーず)からお申し込みください。
   http://kokucheese.com/event/index/207085/

しあわせな白紙〜障害がわかるまでの2年間


「定型発達の赤ちゃんが到達する発達段階(の時期)との比較で、自閉症スペクトラムを早期発見しましょう」という親向けの動画(英語)です。
わが子の昔の姿に、いちいち当てはまって、うなずいてしまいました。

わたしたちの場合──

・2歳の時の健診まで、「やたらと育てにくい」とは思いながらも、「障害」を疑ったことは1ミリもなかった。
・初めての子だということもあり、定型の発達段階も全く意識していなかった。
・ナチュラルボーン親ばかなので、「大器晩成」「男の子は言葉が遅い」「こんなきれいな顔をしている」と心配はしていなかった。

あれだけ典型的な自閉症の症状を示していたのに、「知らないとこうなんだな」とふりかえって思いますが、わたしたちの場合は、「これでよかった」と今は思うのです。

障害がわかるまでの2年間。苦労はしたけれど、希望も持って、愛し、育んだこと。「障害」に注目するのではなく、「カイ」そのものを見つめてきたこと。
それは、わたしたち家族にとって、かけがえのない財産です。

今は情報があふれ、ネットでも「自閉症チェックリスト」のたぐいが目に飛び込んできます。昔のように、「しあわせな白紙」の状態で子育てを始めることは難しいかもしれません。
大切なことは、わが子をわが子として見つめ、愛を育むことだと思います。愛は、初めからそこにあるものではなくて、0歳から日々少しずつ育っていくものだから、親と子の間のストレートな関係を阻害するものは、少ないほうがよいと思うのです。

もっとも、「極端に育てづらい」原因が障害にあることを知らずに、親が自分の育て方の問題だと追い詰められ、思いつめてしまう危険性もあります。また、環境整備が遅れ、不適切な関わりを続けられることは、子どもに対する(意図せぬ)虐待です。だから、難しいのですが…。わたしたちの場合でもこれが2歳ではなく、3歳だったら? 4歳だったら?──

過剰な情報に惑わされずに、わが子を「観る」こと、
それは親だけではとても難しいので、伴走してくれるサポーターがいてくれたらいいですね。
他に二人といない、いろいろなものをあわせもった特別なわが子を、育めるように。
カイ ミニカーを整列
ミニカー整列!(過去記事

深く愛された記憶

今日は、お世話になっている先生のピアノ教室の発表会を見に行きました。
カイは小学校を卒業するまで、先生に音楽を教えてもらっていました。その頃のことは記事「彼は勉強家」に書いたことがあります。

この発表会を観るのは、3度め。この発表会は、障害のある子もない子も、まぜこぜで発表をするところが特長です。その子ができる方法で、演奏をします。

前回も前々回も、涙がこみあげてきて困りました。

見ていて何よりも感じたのは、
この子どもたちが愛されているという事実です。
手間をかけて、楽器の選択や並べ方のくふうをして、
時間をかけて教え、練習し、
舞台に立つ。
うまくいくこともあれば、いかないこともある。
本人がどれだけ認識できているかはわからない。

でも、
この「深く愛された」記憶は、
きっと、親と離れても残るだろう──

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そんなことを思いながら、暗やみをいいことに、今回も泣いてしまいました。

【報告】ふわりんクルージョンでお話させていただきました

昨日、東京は両国で開催された「ふわりんクルージョン2014」のセッションに登壇させていただきました。
テーマは「発達障害を支える人材の質を高めるには」。

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コーディネーター山口久美さん(SNOW DREAM)のもと、佐藤貴志さん(はるにれの里)、小林信篤さん(横浜やまびこの里)といった錚々たる専門家と(…わたしなんかが席を並べていいのだろうか?と思いながら)、親の立場から、カイの成長、親として心を痛めていること、支援の方針としてのTEACCHプログラム、英国自閉症協会のSPELLフレームワーク、国際開発援助の分野から学ぶ「援助者の傲慢さへの戒め」について、お話しさせていただきました。

このような大勢の前でお話しするのは、多分10年ぶりくらいでした。始まる前は緊張しましたが、話し始めたら、会場のみなさんによって「聴き取られていく」感じで、どんどん思いが言葉になっていきました。
特に、カイの話をするのは楽しく、心が晴れやかになる思いでした。

10年前とは、自信が全然違う。それは、カイのおかげです。私は変わった。

未熟なわたしの言葉に真剣に耳を傾けてくださったみなさん、ありがとうございました。心がシンクロして、話しながら泣きそうになるのをこらえる瞬間がありました。
戸枝さんはじめむそうスタッフのみなさん、貴重な機会をありがとうございました。また一緒に勉強会をさせてくださいね。
そして、山口さん、佐藤さん、小林さん、一堂に会した時、なんだか初めて一緒にセッションをする気がしない不思議な安心感がありました。これからも、このご縁を大切にしていきたいです!

親の会は「運動体」に純化していく

・毎日新聞(2014年03月20日):「手をつなぐ育成会:社会福祉法人の解散決める」
http://mainichi.jp/select/news/20140321k0000m040123000c.html
 知的障害者の親らでつくる「全日本手をつなぐ育成会」(久保厚子理事長)は20日、社会福祉法人としては解散し、法人格の無い連合体として活動する方針を発表した。決算後に厚生労働省に解散認可を申請する。

 同会は全国の育成会を取りまとめ、機関誌発行や政策提言などをしてきたが、少子化などで会員が減り、「身の丈に合った組織運営が必要」と判断したという。解散後も各地の育成会が連携し、同様の活動を続ける。

これは象徴的なニュースですね。

このニュースから始まった、障害児者の親の会についての一連のツイートがまとめられています。非常に重要で本質的なことが議論されています。必読です。

・これからの「親の会」
http://togetter.com/li/645195

たとえば、




このことについて、私も以前から考えてきたことがあるので、書きます。

サービス提供を行う「事業体」としての側面を、サービスが全くない状況で、親の会が担わざるを得なかった時代がありました。たとえば、障害を持つ子どもの居場所をつくったり、キャンプをしたり。親の会が、サービス提供主体にも、なりました。

しかし、親の会は元々は、障害を持つ子どもの生きる権利、発達する権利の保障を国に求めるアドボケーターとしての「運動体」であります。
「運動体」として、権利保障を求めつつ、今ここで困っている人たちがいるので、やむなく自らサービス提供を行ってきた。

福祉制度充実の実現によって(お金の流れができたことで親の会以外の参入事業体が増えた)、事業体としての役割は、他に任せて、親の会は「運動体」として存在意義を純化させていく(「運動体兼事業体」から「運動体のみ」へ戻っていく)流れと捉えています。

「運動体」と「事業体」の視点は先輩お母さんのNさんに教えていただきました。

そして、ご自身が関わってきた親の会活動を現在進行形のかたちで@lessorさんが分析してくれています。




















lessorさんが端的に指摘してくださっているとおり、
福祉の制度化が進む中でも「親にしかできないこと」があると思うことができ、負担感を充実感が上回れば、親の会はまだ維持される
と私も思います。

私の場合は、「自分の役割、できることはなにか?」という問題意識で考え続けています。
4月から(もうすぐですね!)、愛知県の自閉症親の会である「愛知県自閉症協会」で、新しい動きを始めようと思っています。

社会の流れと無関係どころか、実は、親の会ほど流れに影響される組織もありません。
本当に存在価値が無くなったのであれば、解散すればよいが、障害のある人もない人も当たり前の暮らしができるようには、なっていません。今回、自分にとって、気持ちを新たに、「がんばろう」と思えました。

4月からの愛知県自閉症協会に関心を持っていただけたらうれしいです。
来週あたりから、発信を始めていきます。

(3月21日8:15追記)
「運動体に「純化」」という表現は、厳密に考えると、やや狭すぎるかもしれません。
というのも、親同士がピア・サポートしあう、ペアレントメンターなどの相談支援(これは事業と言える)などは、親の会でしかできないことだからです。何も事業をやらないということには今後もならないでしょう。
「親の会にしかできないことをする」ということで、ミッションを再定義する作業が必要なんだと思いました。

*注意*ニュースの見出しだけを見て、「育成会が解散する」と誤解のないように。
全国組織である「全日本手をつなぐ育成会」が、社会福祉法人としては解散し、法人格を無くした形で活動は続けると書かれています。また、各地の県や市単位での育成会で法人格を取っている(事業も行っている)ところは数多くあり、全日本手をつなぐ育成会とは別法人ですから、当然のことながら今後も活動を続けます。

【おすすめ】親が精神疾患になったときの子どものケアガイド

・親が精神疾患になったときの子どものケアガイド
「家族のこころの病気を子どもに伝える絵本´↓」解説よりポイントを抜粋 2014.1 ver.1
http://pulusualuha.p2.bindsite.jp/care.html

こういうサイトがあるから、インターネットはすばらしい。

子どもは守ってくれる存在を必要としています。親は、子どもを守る第一の存在ではありますが、様々な事情で、それができないことがあります。そのとき、親は自分を責めるでしょう。
ですが、子どもは、子どもなりに(子どもだからこそ)自分自身を責めてしまう。

この記事には、親が弱っているときに、子どもを守るためのノウハウが書いてあります。
〇劼匹發里擦い任呂覆い海箸鯏舛┐泙
(略)
◯「あなたのせいではないよ」「病気はだれのせいでもないよ」
×「いい子にしてたらお母さん早く良くなるよ」「そんなわがまま言ったらお父さんの病気が治らないよ」

なんでも自分と結びつけて考えてしまうことは、自分の経験でもありました。
また、障害をもつ子どものきょうだいの体験談で、「弟が『バカ』なのは自分のせいかもしれない」と思いやんでいたということを聴いたことがあります。

親からすれば、「まさかそんなことを」と思うようなことを、子どもは他人に言えず、自分を責めてしまうのですね。

私は、この記事を読んで、あらためて「子どもは守られなければならない」と思いました。

親がその任務を果たせないとき(そんなときはいくらでもあります)のために、「こまったときカード」を作っておくことなど、実践的なくふうが書いてあります。
おすすめです。

支援者が「機能」になれる仕組みを考えてみた

■安心して任せられることの保証は?

支援者と親の間に流れる川
「川」の続き
この2つの記事を読んだ親の仲間が、私に言いました。
支援者が「機能」だということはそのとおりで、そうあるべきだとは思うけど、
結局、わが子を安心して任せられることの保証が「この人だから」ということになっている。
だからどうしても、「この人」に託したいという親の思いになっている。

このつぶやきをヒントに、支援者が「機能」として、存在価値を発揮できるようになるには、何が整えばいいのか?を考えてみました。

■人は「材料」にあらず

よく「人材」と言うけれど、人は「材料」ではない。人と「その人が提供するサービス」は切り離せない。
人がやることだから、属人的になる。
<安定したサービス提供の担保(保証)>が、「いい人だから」ということ(のみ)になっている。
これが、「あの人だから」任せたい、になってしまう理由。

<安定したサービス提供の担保>が、「Aさんという個人」のままであっては、
「支援者は機能であって、代替可能で継続的な支援を提供し続ける存在」だという「そもそも論」は、単なるお題目にすぎない。

だから、属人的な支援ではなく「仕組み」をつくることが必要だ。よく言われます。
この「仕組み」について、できるだけシンプルに考えてみました。

■安定したサービス提供を担保する3つの仕組み

(1)複数人で支える体制があること
まず、複数の人が関わっていることが必要だ。そして、単に、バラバラの個人がいればいいわけではなく、Aという人をB、C、Dが支えるといった体制が要る。

(2)サービスの質を向上させる方法があること
よい支援は、知識とスキルとマインドが不可欠だ。

だが、それは、自然には身につかない。学校では習わないことを知り、自分の尺度では理解できない異文化交流するための「コミュニケーション」を学び、実際にやってみることが必要だ。
センスが良ければ独学でも学べる。しかし、時間がかかるし、センスは誰にでもあるものではない。
年月をかけて蓄積された知見がある。これを無視をしてはいけない。体系立って、教えるメソッドが要る。例えば、医学は、人類の初めからずっと実践と失敗をくりかえしながら、現時点でベストとなった教授法が確立されている。
発達障害への支援は、歴史が短く、そこまでの確立したものはないが、「これは間違いない」「こうすると改善する」という蓄積がある。
この蓄積を活かし、知識とスキルを向上させる「現時点でベスト」の育成方法を整えたい。

マインドも、教える方法がある。
支援者に求められるマインドの基本は、「立場の互換性」を心から実感していることだと思う。
「支援を受ける側に自分がいたとしたらどう感じるか? 支援者にどうして欲しいか?」この発想ができること。そのためには、「支援を受ける側に自分がいたかもしれない」とイメージする想像力が要る。
その想像力は、疑似体験や当事者の生の声を直接聴くことで育てることができる。

(3)評価と是正のプロセスがあること
これはどういうことかというと──

「良いことをした」→「正」のフィードバック
「悪いことをした」→「負」のフィードバック

というかたちで「評価」が与えられ、その影響により、

「良いことをした」→「正」のフィードバック→もっと「良いことをする」
「悪いことをした」→「負」のフィードバック→もう「悪いことはしない」

自ら「是正」できる一連のプロセスが存在するということです。

「良いこと/悪いこと」を判別するには、ジャッジする基準が整ってなければいけません。
また、その基準をあてはめ、行動の「良い/悪い」をジャッジする存在が必要です。
セルフジャッジもあり得ますが、ひとりよがりに陥りがちです。(1)の複数で支えることが、評価と是正のプロセスを回します。

以上の3つが整えば、<安定したサービス提供の担保>する仕組みになるのではないか──という整理と提案です。

■「達人」はいらない

福祉の人材育成が叫ばれています。わたしも、心から個々人のレベルアップを望む者です。
しかし、資格制度や研修ばかりを充実させても、必要十分ではありません。(2)サービスの質を向上させる方法ばかりに注力して、(1)と(3)を軽視していると、「達人」がまれに出てくるだけになってしまうでしょう。

「達人」は素晴らしいのですが、「この人(達人)」のサービスを担保する根拠(後ろだて)となるのは「この人」だけです。
「1人の達人」に過大な期待をいだき、達人の争奪戦を行っていては、けっきょくその達人もつぶしてしまいます。

(1)複数人で支える体制があること
(2)サービスの質を向上させる方法があること
(3)評価と是正のプロセスがあること


この3つを意識して、整えて、仕組みをつくりましょう。足りないものは何か?を常に考えて、とにかく、「ひとりぼっちではやらない」ことです。

できるだけシンプルにまとめてみました。ぜひご意見・ご指摘をいただけたらと思います。

「親代わり」を考えた時に思い出す文章

ずっと心にためていたものを、がぁっっと吐き出したあとには、しばらく口を開きたくないような感覚になる。書かれた記事は、読まれて、広がり、わたしの目には見えない深いところに吸い込まれていったんだろう。吐き出したわたしは、どこかで、エネルギーを満たさなければならない。

とりあえず、いってみよう」というブログがある。

ブログを書いているのは、自閉症の息子さん(現在社会人として就労している)をお持ちの方で、相談支援の最前線で働いている。わたしは、この方に会いたくて、会いに行った。一度話をしただけだが、今思い出しても胸の中があたたかくなる。そんな存在だ。

このブログの中に、「親代わり」を考えた時に、思い出し、読み返したい記事がある。

「くちづけ」という映画がある。知的障害のある娘と無理心中をはかる父親を描いたものらしい。
「らしい」としか書けないのは、映画を観ていないからだ。今後も観ることはないだろう。映画を観ていないのだから、映画について云々するつもりはない。
わたしが紹介したいのは、「くちづけ」の感想として書かれた文章だ。

絶望のかわりに、あるいは絶望の果てに、「他人」という、おそろしくも、有り難い、存在が、この町にはいる。たしかにいるんだってこと。それを思い知らせてくれる記事だ。

たぶん当初は、3つの連載記事にするつもりはなく、書き始められたのだと想像する。
抑え気味に始まる。しかし、だんだんと、母親としての思い、過去の交錯する記憶、そして今自分が目の前で支援している暮らしがあふれだすように語られていく。

ゆっくりでいいので、読み通していただけたらと願います。

(1)くちづけ 〜すごく遠回しな感想〜
http://blog.livedoor.jp/bach0123-habanero02/archives/7895993.html

(2)くちづけ 〜すごく近いつぶやき〜
http://blog.livedoor.jp/bach0123-habanero02/archives/7879772.html

(3)くちづけ 〜本当のきもち〜
http://blog.livedoor.jp/bach0123-habanero02/archives/7903303.html
人間は、弱い。
誰だって弱い。
たった一人で抱えたまま、誰にも言えなかったお父さん。
辛かっただろうな。

私がもし、あの「舞台」の中の誰かだったら。
入所施設を紹介する前に、
お父さんではなくマコちゃんと話していただろう。


あなたはどこで暮らしたい?

と。

この言葉に、弱いわたしは気がつかされる。
苦しいのは、わたしじゃない。生きて、暮らしていくのは、カイであると。

だからそう。だから胸を張ってさ!

「川」の続き

昨日の記事(支援者と親の間に流れる川)は、やっと書けました。時間がかかりました。

無茶過ぎる願いですが、親は、無意識に支援者に「親代わり」を期待している。そこから来る温度差、ギャップが断絶を生んできた。

このことが明確に整理できたのは、わたしにとっては大きな気づき。

こんな無茶なことを親が願っていると、気がついていない支援者もいるかもしれない。ビジネスライクな人が増えてきているから。
だが、真剣に親と向き合い、支援者のあるべき姿を考えたことがあれば、このあまりにも重い「願い」に気づき、逃げ出したくなったことがあるだろう。

そこで、支援者が「私は親代わりにはなれないのです」とはなかなか言えない。
だから、書いた。

親としては、この気づきはつらいことであったし、書きあぐねたのもそれが理由だ。痛くて、つらくて。いったいどうしたら安心できるのか。そういうことを思いながら、迷いながら書いた。

こうやって、一度悟りを開いた気になっても、「親代わりを願う思い」は止められないものです。
だから、思いはあってもいい。それでも親側が、無限に支援者に期待することは踏みとどまろう。
支援者には支援者だからできることがある。それは、親と同じに、無限に責任を背負い込むことではないんだ。そういうことを伝えたいです。

そして、今度は、支援者が果たすべき「機能」について、具体的に考えたい。
その中には、カオス状態の親のむきだしの「願い」をどう受け止めるかについても、機能としてなければならないだろうと思います。

今回の記事は、まず一度「絶望」というか、あきらめることがスタートだよねという主張。
支援者は、ちゃんと考えてる。ちゃんと考えている支援者はいる。
だから、一緒に場というか機能を編み上げていこうよということです。

支援者と親の間に流れる川

12月8日「ケアホームをみんなで考える勉強会」報告の最終回(その4)です。書きあぐねて、こんなに遅くなりました。長いですが、最後まで読んでいただきたいです。

勉強会の内容については、その1その2その3を参照してください。

■勉強会後のつぶやき

勉強会が終わった夜、わたしはFacebookでこんなことを書きました。
それから、やっぱり支援者と親との間には、見えない川が流れている。それは、否定しても仕方のない事実であり、立場の違いをプラスに変えられるようにしたいと思いました。

その「川」が何なのか? これほど支援者も、親も、参加して真剣に熱意を持って参加した勉強会の感想が何故それなのか? 自分でも違和感がありました。そのことを考えたいと思います。

■ある支援者のなげき

ある支援者が、こう語っていました。
親の人から、「あんたを信じていたのに裏切られた」と言われたことが、ずっと理解できなかった。
自分は、直接介助はしなくなったが、経営者として組織を作り、もっと多くのサービスを安定的に提供できるようにしたのに。

──この親の「裏切られた」という気持ちを、わたしは理解できる気がします。

信頼する「この人」にわが子の生活を託したい。「託せる」と思える人に出会い、安心して自分はフェードアウトしたいと願ったことのない親はいないはずだから。

一方で、「どうして裏切り者呼ばわりされるのか理解できない」支援者の気持ちもよくわかります。

「自分が一人で直接支援するよりも、人垣のように、多くの支援者が関わり支える仕組みを作ったのに」なぜ、このような言われようをしなければならないのか。

ここにあるすれ違い(意識の断絶)に、わたしが感じた「川」の意味を気づくヒントがありました。

■支援者は「機能」。有限責任。

支援者は、「機能」。必要な支援を提供する。
誰がその「機能」を果たすかは代替可能な存在。代わりとなる人はいる。質をクリアした支援を提供できればよい。
代わりがいるからこそ、長期的に継続できる。
責任は有限のものとして果たされる。

■親は、「存在」そのもの

親は、親という「存在」そのもの。
子どもを育てることから、必要な環境を与えることや日々の支援まで「機能」を含んでいるが、
唯一であり、代替が難しく、寿命に制限される一回限りの「存在」であることに本質がある。
責任は死ぬまで続くものと意識される(※「続くべきもの」だという規範をわたしは主張しているものではありません。カイの親として個人の意識を語っています。)

■支援者と親の間に流れる川

最初に紹介した支援者のなげきは、こう続きました。
「あんたは経営者になってラクをしている」と批判されるわけがわからなかった。
だが、本当の気持ちは、私個人にずっと自分の子を見てほしかったということだったのだろう。
私(支援者)=親になってほしかった。それがかなわなかったことを嘆いているのだ──と10年たってやっと気づいた。

どう思われるだろうか?

この訴えは(個人的にはものすごくよくわかるけれど…)無茶なものだと、親は気づかなければならないとわたしは思います。
なぜなら親の支援者に対する「親代わり」になってほしいという要求は過剰なものだからです。
その要求によって支援者を期待で押しつぶす危険がある。しかも、支援者が「機能」であるからこその良さを消してしまうからです。

その「良さ」とは、代替可能な存在であるからこそ、Aという支援者がいなくなっても、次のBという支援者が後を継ぐことができる継続性です。

親は死ぬんだよ。
支援者は去っていくんだよ。
そして、誰もいなくなった──にならないように。

親は、特定の誰かに「親代わり」を全委託する叶わない希望は捨てるところをスタートにしなければならない。

「川」と呼んだギャップは、支援者と親のあるべき姿が異なることから来ている。

■支援者は「もうひとりの親」ではない

「支援者は、『親の願い』をまるで分かってくれない」と叫ぶとき、その「願い」が「親と同じだけ、子どものことを思い、24時間365日支援し続けてくれ」というものだとしたら、それは「支援者」ではなくて「もうひとりの親になってくれ」と求めていることになる。
それは、実現可能性がないし、適切でもない。

あきらめることから、リアルな未来の暮らしを組み立てなおさなければならない。

支援者は、親と同じように唯一の存在としてわたしたちの子どもに永遠に関わり続けることはできない。そうするべきでもない。
支援者は、自らの手ではなくても同じ支援(機能)を提供できる他の支援者を組み合わせて、暮らしを組み立てることを考えている。「シフトを組む」というのはそういうことだ。

「川」はお互いをはばむものではなかった。違う存在を「わたし」と見間違えていたから流れていると錯覚した幻。

見つからない「青い鳥」を探すのはもうやめて。
有限性を知る支援者たちと、継続できる機能について、一緒に考えよう。

↓続きです↓
・「川」の続き
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52520840.html

同じ時を刻む

昨日の草ラボで、ヘルパーのカトウさんのことばを聴いて、髪の毛が逆立つような感覚を覚えました。
(この感覚は、あんまり一般的ではないようですね。「鳥肌が立つ」に近い、驚きと感動が混ざった刺激への反応です。「総毛立つ」のマイルドバージョンですかね。余談)

カトウさんが話してくれたことは──
それぞれの人(支援者、当事者)の
“時が流れる”中で
同じ“時を刻む”こと…
それが『よりそい』。

わたしは、ワークショップの全体ファシリテーターをしていたのですが、思わず、グループの中に入っていってコメントをしてしまいました。
恋愛とか結婚とかでよく言われることだけど、
それまで全く別々の人生を生きてきて、別々の体験を積み重ねて、価値観もバラバラなふたりが一緒になっていくことはたいへんなこと。
だけど、出会ってから、ふたりで一緒に時間を過ごし、同じものを見て、感じたことを伝え合い、共通する経験を重ねていくことが、ふたりの関係を強くし、守ってくれる。
それは、恋愛に限らないんだと思う。
ひととひとが、同じ場所で、同じ時を過ごしても、同じものを見ていなかったら、別々のことを考えていたら、同じ"時を刻んだ"ことにはならない。
街で、ヘルパーと障害をもつ人が一緒にいるのを見かける。でも、ヘルパーは地下鉄に乗りながら、ずっとケイタイをいじっていて、障害をもつ人は手持ちぶさたで動いてしまう、その時だけヘルパーはリュックをつかんで引っ張り戻す…。こんなふたりは、同じ時を刻んでなんかいない。

ことばが自由に操れるわけじゃない。
感じ方や見え方も違うけど。
だったら、こちらから、相手が感じていること、見ていることを、知ろうと。
せっかく同じ空間で、同じ時間を過ごしているのだから、共通する体験を積み重ねていって、特別な関係を築き上げられたら。ヘルパーって、すごい職業だと思うんだよ。僕は。

大切な「命」を、大切な「生」によりそって、限られた時ではあるけれど、同じ時を刻む、そんな支援ができたら、本当にすごい。僕は、あなた方を全力で応援する。

おすすめ:自閉症の息子を撮った写真集「Echolilia」エコリリア

・アメリカぷるぷるアート紀行:自閉症の息子を撮った写真集「Echolilia」エコリリア
http://ameblo.jp/altru-art/entry-11633647165.html
より引用。
サンフランシスコを拠点として活躍する写真家のティモシー・アーキバルドさん(Timothy Archibald)が撮影した、彼の自閉症の息子エリージャ君の写真集が話題になっています。

写真集のタイトルは「Echolilia」エコリリア。もとは反響言語−Echolalia(他の人が話していることをただ繰り返して発声すること)をもじったもののようです。

わたしは、ブログで紹介されている数枚の写真を見るだけで、胸をぎゅっとわしづかみにされてしまいました。
特に、クリアボックスの中に裸で収まり、静かに目を閉じている姿に、既視感を覚えました。
笑ってはいない、喜んで入っているわけじゃない? 困惑している? そのまま眠ってしまったのか──とても静かです。
他の写真もそう。笑ってはいない、戸惑っているような表情のひとつひとつが、ことばにはならない「何か」を感じて、静かに感覚を集中させているようにみえます。

そして、この写真は、エリージャ君の父親が撮影しています。キャプションは無くても、すべての写真に、「LOVE」と大書してあるようだ──

写真は、ティモシー・アーキバルドさんのサイトでもっと多く見られます。ぜひ見てみてくださいね。

<追記>引用記事の最後に、記事を書かれた森井あす香さんのこのコメントが添えられています。少し気づきづらいので、引用しておきます。
ティモシーさんによると「写真を撮ること」を通して、ティモシーさんとエリージャ君の関係性が変化し、深まっていったそう。初めは写真を撮られることを嫌がっていたエリージャ君も、次第に被写体になっていることを理解し、ティモシーさんも彼の「儀式」を受け入れられるようになっていったようです。

父親は、初め、息子の理解できない行動に、自分にできる方法(写真)で近づこうとしたのでしょう。
それが、この、独特の緊張感のある、胸をつく作品になっているのだと思います。

エリージャ君が本当に「理解」しているかどうかはわかりませんが、父親の行為を「嫌がらない」というかたちで、父親の世界を受け入れてくれているのでしょう。(うちのカイが、わたしのカメラにうっとおしそうにピースをするように…)

「当たり前」になる日、を読んで

・「当たり前」になる日:こうくんを守れ!
http://koumama.seesaa.net/article/375860507.html

本気で、感動してしまった。

辛かった療育通園施設、保育園が思い出されます。

あたたかくて、一生懸命で、愛情豊かな保育士さんたち。だけど、スキルが無かった…。
親として、いっときも気が休まることがなかった。

こうままさんがこの記事で紹介している「併用」とは、保育園に通いながら、療育施設(障害に対する発達の支援)にも通うこと。「併用」は、まだまだ当たり前ではありません。

「当たり前」になるといいな。
というか、こうままさんは目標となる実践をつみあげている。さらに進めば、保育園と療育施設が別々じゃなく、保育園で療育もなされることが「当たり前」に!?

じーんと感動しながら、僕は、後から来るひとたちのために何ができるんだろう?って思った。

保育園も、学校も、時期が来たら卒業していく。たくさんの涙が流れても、通り過ぎて行ってしまう。留まる当事者がいないから、改善が進みづらい。
保育士も孤独だ。療育施設との連携が取れれば、長い時間を過ごす、家庭や保育園での生活が、子どもにとってわかりやすくなり、混乱が減るでしょう。そこが成長のスタート地点になれば、すばらしい。

障害がなくても、そうなんだけど、障害のある子どもには、たくさんの、たくさんの人の関わりがあるといいです。親が、傷めつけられ、しおれてしまいがちだから、余計にね。
当たり前じゃないことを当たり前にするのにはパワーが要ります。
でも
だれかが「よしっ」って頑張って1歩を踏み出さないと地域は変わりません。
そうやって
これまでも、先輩方が頑張ってきてくれたから「今」のこの状況がある。
そのことに感謝し、自分にできる精一杯の「一歩」を踏み出していきたいですよね。

はい。

福井公子さん:「障害のある子の親である私たち──その解き放ちのために・11」

生活書院サイトに連載されている福井公子さんですが、今回は、大切なことが書かれすぎています。

・「障害のある子の親である私たち──その解き放ちのために・11」福井公子さん
http://www.seikatsushoin.com/web/fukui11.html

今回の連載は、3つの章立てがしてあります。それぞれについて、簡単な要約と感想を書きます。

ひとつめの章「勝ち組・負け組」では、「自立」を「自活」と同義に捉えることで健常者中心の価値観にからめとられていることを指摘しています。

この文章で紹介されている当事者のことば──
「オムツを替えて貰う時、腰をうかせようと一生懸命やることが(障害者にとっての)労働だ」

これは、市場では価値があるとは評価されない、しかし、生存のためにできることをやる(つまり、生きることそれ自体が)労働だ、と言っています。

『枠組み外しの旅』(竹端寛2012)からの孫引きですが、横塚晃一『母よ!殺すな』から引用をします。
なぜ彼女が殺意をもったのだろうか。この殺意こそがこの問題を論ずる場合の全ての起点と鳴らなければならない。彼女も述べているとおり「この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ」とおもったという。なおるかなおらないか、働けるか否かによって決めようとする、この人間に対する価値観が問題なのである。この働かざる者人に非ずという価値観によって、障害者は本来あってはならない存在とされ、日夜抑圧され続けている。」

ここで語られている「彼女」とは、1970年に2歳の障害児をしめ殺した母親のことを言っています。横塚氏は、脳性マヒ者の当事者会「神奈川県青い芝の会」のメンバーとして、この母親への減刑嘆願運動に対して異議申立てをしたのでした。

福井さんは、その当事者運動を意識して、こう結んでいます。
 かつて障害者運動を進めてきた当事者の方々は、効率や生産性を重視する健常者中心の労働環境をきっぱりと否定し、独自の労働観を貫いてきました。それがいつの間にか健常者中心の価値観にからめとられているのではないでしょうか。


この指摘は、正しい。だがしかし。だがしかし…。中学生の息子を持つわたしには、カイにとって、居心地のよい場、いきいきできる機会は、どこに見い出せばよいのか……? もっともっと、わたしは色々な人と語り合って、学びたいし、考えたい。

2つめ「私たちのこと」では、日常の暮らしの中で、親が「親だから…」ということで、自らの思いを吐き出せず溜め込んでいる。その結果、社会は何も変わらず、「障害者の親」という立場から自由になることができないことを、バスに間に合わなかったときのエピソードとおしゃべり会での吐き出しを紹介して、示しています。本当に、そのとおりだ。

3つめ「家族支援ワークショップ」では、福井さんが、親が集まり、親どうしが思いを共有しあう「おしゃべり会」をファシリテーションやコーチング、アサーションの技法を取り入れて実践していることを紹介します。
そう。単なる井戸端会議では飽きたらなくて、意味のある時間を共に過ごし、親のセルフヘルプの場をつくるためには「やり方」がある。そして、その「やり方」は持ち運び可能、伝えることが可能な方法なのだと示してくださっています。

これは、わたしも、ぜひとも自分が(仲間と一緒に)やりたいことです。うん。

3つの章それぞれが重くて。ふだんわたしが考えないようにしている(目を背けている)現実について、深い共感と(ではどうしたらいいの?という)根源的な問いかけ(自問)を投げかけてきます。それは、とても胸の苦しいことなのですが、福井公子さんという先輩お母さんが、今こうやって立っているじゃないか!と勇気もくれます。

ぜひ読んでいただきたいです。この連載は、過去記事が蓄積されないので(出版が待ち遠しいです)8月中に見に行ってくださいね。

・「障害のある子の親である私たち──その解き放ちのために・11」福井公子さん
http://www.seikatsushoin.com/web/fukui11.html

アクセス出来ない

連続して「がんばる」について書いています。
実は、出来事があって、思うところがあったからです。

自分は、子どもがもう中学生で、これから将来のことが見えない不安があるけれど、過去の歩んできたことは今の足場になっている。「これまで起きてきたこと」は「何が起きてきたか」を知っている。だけど、当たり前のことだけどカイが生まれた14年前には何もわからなかった。
期待と失望、とにかくわからない……という困惑、眠れない。そして、今、この瞬間に、そういう思いをしている親たちがいる。適切なささえが得られずに、混沌の中にいて不安で叫んでいる子どもたちがいる。
10年前よりは、はるかに制度的な支援が充実して来ました。情報も探せば多すぎると思うぐらいあふれている。だけど、必要な人に届いているかというとそれは別の問題だ。

「こんなに充実してきているのに。探せば見つかるし、申請すれば得られるのに。なんで?」という素朴な疑問が投げかけられることもある。

それは、「探せない事情」がある、からです。

実は、親の会とか、自助グループで出会える「仲間たち」というのは、その時点で「ある条件をクリアした」人たちなのだということ。「アクセスできた人たち」どうしの会話では、「アクセス出来ない人たち」の存在や事情が抜け落ちる。

その場にいないから、見えなくなる。

では、「アクセス出来ない」事情とは何か?

育児に困ったときに、保健所などで相談することができる。
育てにくさは、生来の何らかの原因があるかもしれないと思う。
そして、その原因を医師が見つけてくれる可能性がある。
小さい頃から、見た目ではわからない「障害」があるということ。
わが子は、その障害をもっている可能性があること。
障害が理由で、育てにくさになっている。
そして、その育てにくさには、専門的な「コツ」が必要だということ。
その「コツ」を教えてくれる場所がある。
障害のある子どもを支えるための福祉サービスがあること。
その福祉サービスは、市役所での「申請」が必要だけど、
市役所に、相談に行けば、やり方を教えてくれること。
いろいろなことが難しくて、考えることができない状態は、もしかしたら、親自身の病気かもしれないこと。
親の病気を治療する、そのための病院があること。
──こういうことを知ることは、だれにでもできることではなかったりします。

また、
誰か教えてもらったけれど、働かなければならず、実際に足を運ぶ時間がない。
サービスにはお金がかかると思っていて、自分には払うお金がないから無理とあきらめている。
自分の親(祖父母)が「障害」を認めない、反対をして診察を受けさせてもらえない。
──など、アクセスをできなくさせる事情もあります。

社会から「見えなくなった人」は、「いなくなった」わけではない。誰からも手を差し伸べられず、孤立して途方に暮れている。
子どもの障害だけじゃなく、複合的な要因が重なっている場合が多くて、子どもがサポートを受けられるようになるためには、ときほぐして、それぞれの要因に複数の支援者が関わる必要がある。そのためには「発見される」必要があるのに、「見えない」から「ない」ことにされている。

子育ては、家庭だけで抱え込まないでいいんだよ。

子育てだけじゃない。
「生きること」を、家庭だけで抱え込まなくていい。

最初は恥ずかしいかもしれない。抵抗はある。だれでもそうだ。でも、ここまで必死でがんばってきた自分をほめて許してあげよう。
また、がんばるときは、じきに来るから。

「白旗」をあげる勇気をもとう。



<今回から、1,000記事までのカウントダウンを始めます>

【カウントダウン】
 1,000記事まで、あと13!

責めないよ

子どもを可愛いと思えない、子育てがうまくできない、周りから白い目で見られる…

親失格だ、と自分を責め続けてきた末に、

「障害だ」

と宣告されて、これ以上、何を責めるの…?

責めないよ。

わからないなりに、精いっぱいやってきたんだもの。
今が「底」だ。
これから、一緒に浮上しよう、ゆっくりでいいから。

あなたと同じ思いをしてきた人が、どんなにたくさんいるか。きっと知ったらびっくりするよ!

だから大丈夫。

よくがんばってきたね

発達障害の診断を受けて、

「なんで今まで気づいてあげられずにいたんだろう…」

と自分を責める親がいる。

ちがうよ。

「診断も無いのに、よくこれまで育ててきたね。たいへんだったでしょう!よくがんばってきたね」だ。

そして、

「これからは、一人じゃないよ、仲間と支援者がいるよ」

ぼくも、その一員だよ。
みんなで支えあって暮らしていこうね。

感想:「障害のある子の親である私たち──その解き放ちのために」

・福井公子さん:障害のある子の親である私たち──その解き放ちのために・4
(※この連載は、過去記事が蓄積されないため、元記事を読むことはできません。すみません。連載は、生活書院サイトで続いています。)

この文章を読みながら考えたこと──

何もかも家族で抱え込んで、必死で抱え込む、それは、自分の中に「内面化された世間」が責めるから、そうしているのかもしれません。

社会や地域が、「優しくしてくれるはずがない」と思うのはなぜ? 
「優しくない」現実を見過ぎたから? でも、ちゃんと頼ったことあった?

「優しくしてくれるはずがない」と思うのは、わたしが、「優しくする」自信がないからかもしれない。役に立たない者、弱い者を大切にする自信がないからかもしれません。
「内面化された世間」が、「迷惑をかけるな!」「親の責任だ!」「面倒みろ!」と叫んでいるのかもしれません。

一度、この「内面化された世間」を掘り起こして、自分の中の「世間」を、改革しなきゃいけないんじゃないか…と最近思うのです。

くりかえし読みたい文章。痛みとともに。

失敗の連続→見くびる

親として同じ境遇の若い親御さんたちに伝えなきゃならないことは、実は私たちは「失敗の連続」でここまで来たということです。

カイが診断を受けてから就学前の時期が、私が一番自閉症の勉強をした時期でした。「こうすればうまくいく」という様々な方法を、勉強することはとても大切です。
けれども、教えてもらったことを帰宅してすぐにやってみたとしても、ほぼ100%失敗しました。
なぜ失敗するのかも、その時はわかりませんでした。

役に立ったのは、原理原則的な、「自閉症とはこういう障害だ」という理解でした。「氷山モデル」は、いつになっても、発想のヒントになります。

「こうすると失敗する」(「すべからず集」)は役に立つことが多いです。

たとえば、「声かけは理解できない」「大きな声での指示はかえって怯えさせる」「視界に入るところに、触ってほしくない物は置かない」とか。

幼いうちは特に、親もエネルギーがあるので、がんばって色々なトライをして、失敗をします。やりすぎてしまうことも。
そして、どこかで「こんなのは役に立たない」「うちの子のレベルでは無理だ」とあきらめてしまいます。

いま振り返ってみれば、失敗の要因は、子どもの「その時の能力レベル」を見誤るところにあったんだと思います。「今は、まだその時期ではなかった」ということ。

子どもの成長のスピードが、多数派の発達とは全くちがうのですが、目に見えないところで、少しずつ少しずつ伸びていきます。

ところが、親は、もうある時点で「あきらめている」ので、前に失敗したことをもう一度試してみようとはしないんですよね。「できない」と見くびってしまっている。
大人である自分と同じように子どもを固定化して見てしまう失敗です。

そこを、親以外の、教員やヘルパーが「(親御さんはできないと言っていたけど…)やれるんじゃないか?」と思ってトライしてくれることで、「できるようになっていた」とわかることが結構あるんです。

親の失敗体験によって、失っている子どもの成長の機会というものが、たくさんあるんだと、13歳の子どもを育てていて思うのです。
この、↑「親」は、「教師」や「ヘルパー」や「医師」「専門家」で置き換えることもできるんじゃないでしょうか? 長い期間ずっと見てきた経験が、邪魔をしてしまうところが。

時間をおいて、もう一度トライしてみることが大切。
そして、やっぱり、親だけで子どもを囲い込んではいけないんだと思います。
色々なタイミングで、様々な人々に関わってもらうことで、「発見」を待っている能力がある。

子どもの成長を見くびることこそが、最大の失敗だ。と最近強く思います。

<関連記事>
・彼は勉強家
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52355936.html

わかることば

少ししかおぼえてられなくても、
たくさんのことばを知らなくても、
耳をすませて、聴いているんだよ。

わかることば

小さな心で、わかることばをつないで、
せいいっぱいの想像をめぐらせて、
見通しを探している。

「人間あつかい」

「バスでのできごと」の記事を、本当にたくさんの方に読んでいただきました。ありがとうございます。

あれから、ずっと考えて来ました。

なぜこれほど、予想を超えて、読んでいただけたのか…

たぶん、みなさんが日常で目にしたことのある光景を、いじめられる本人とその家族の視点から、見返すきっかけになったのかなと思います。もし、そうであれば、とてもうれしいです。

記事をアップしてから、非常に緊張を感じました。
カイの現在の姿もさらして、現実に対してメッセージを出す行為が、どのように受けとめられるか。心配でその日は眠れませんでした。

眠れないなか見ていた、Facebookで、友だちが書いてくれた記事への感想

「あたりまえ」に見えることが、どれだけ練習し、緊張を乗り越えた冒険なのか。
どれだけそこに見えないたくさんの愛があるのか。

を読んで、初めて緊張がゆるんで、涙がこぼれました。

どれだけことばを選び、心をこめて、書いたとしても。「ハリネズミ」のように、「だれもわかってくれない」とおびえ、他人を遠ざける気持ちが、胸の中にはあって。
それでも、憎しみが連鎖するかわりに、優しさが連鎖するようにと祈りを込めて書き続けたいと思いました。

私が伝えたかったのは、「人としてみてほしい」ということでした。

どれだけ、風変わりで、理解しづらくても。人間だよ…?

「人間あつかい」されないことほど、むごい仕打ちはない…

それが、伝わったとき、やっと、私たちは、涙を流すことができます。

tsugaku

バスでのできごと(野球部のみなさんへ)

高校野球部員のみなさんへ

バスでのできごと
(*バス内で高校の野球部員が知的障害者に嫌がらせをした動画を撮影しLINEにアップしていた2012年12月に起きた事件)

報道を読んで、みなさんにお手紙を書こうと思いました。

私は、中学校に通う知的障害と自閉症のある男の子の父親です。息子の名前は、カイと言います。カイのパパということで、「カイパパ」という名前で10年くらいの間活動をしてきました。

カイは生まれた時から変わっていて、こちらの伝えたいことが全く伝わらず、夜は眠らず、とても育てづらい子でした。それでも、私たちは、「いつかよくなる」と信じて育ててきました。
カイに障害があるとわかったのは、2歳の時でした。重い知的障害と自閉症。最初は何が起きたのかわからず、ショックを受け、かなしみに暮れていました。しかし、気づいたのです。診断があったからカイが障害になったのではありません。診断の前も後も、カイはカイだ。そう思ったら、この子の成長につきあっていこうと心が決まりました。

(みなさんにはたぶん想像もできないくらい)不器用で、できないことだらけの息子ですが、13歳になり、少しずつ成長してきました。成長のひとつひとつが、奇跡のようです。ひとりでトイレに行けたとか、着替えができたとか、そんな「当たり前」にみえることが「すごい!」と感動をしてきました。

それでも、カイを1人で外で行動させることはできません。車や自転車を避けることができないことも心配ですが、「目的地へ行って、家に帰ってくる」という概念が理解できていないことが、理由です。

中学校には、私かヘルパーさんが付き添って通学しています。中学校の通学路は下見をして慎重に決めました。自閉症の人は、一度決めたら、その決めごとを守ろうとする傾向がとても強いからです。同じパターンをくりかえすことで、わからないことから来る不安をおさえようとしているのだと思います。

カイには、3歳年上のお友達がいます。彼は今は、1人で地下鉄に乗って、特別支援学校の高等部に通っています。カイよりも、できることが多いお友達なのですが、1人で通学できるようになったのは本当にすごいことです。何回も何回も練習をしたそうです。

初めて1人で通学した朝。お父さんが隠れて見守りながらついていったそうです。
お父さんが緊張しながら観察していると、驚いたことがありました。電車を待つ間の立つ位置は、お父さんが立っていた位置とまったく同じ。乗り込んで椅子に座ってから目をつぶって「寝たふり」をするのも、お父さんがいつもするのと同じでした。

真似をしていたんですね。

私は、その話を聴いて、すごい!と思うと同時に、いじらしさに泣きそうになりました。自閉症の人は感情があまり表情に出ないので、クールに見えます。でも彼の内心は、とても不安だったんじゃないかな? お父さんと同じことをすることで落ち着く、それ以外のやり方は選べない。

カイがお友達のように1人で通学できるようになることは、憧れです。見込みは薄いけれど、あきらめたわけじゃありません。
とっても難しいことだから……。
もし、1人で通学できるようになっても、予定外のことが起きたときに、自分で対処はできません。不安で怯えてパニックになるかもしれません。

突然のできごとに対して、みなさんのように柔軟に対応することはできないので、誰かに助けてもらうことを期待するしかありません。親に電話してもらって、迎えにくるまで、安全な場所で待たせてもらうとか。

身体が大きいくせに、しゃべれなかったり、奇妙な癖があったりして、「おかしい」と思われるでしょう。でも、このことをわかってください。

身体が大きくても、
心は「3歳」くらいなんです。

もし、バスの中で、3歳の子が一人でおびえて泣いていたら、みんなで助けようとするでしょう。
もしも、障害のある人が困っていても、同じように助けてもらえませんか?

周りの方々に、助けてもらえると信じて初めて、1人で外出をできるようになれます。
私は、カイが1人で出かけられる将来をあきらめたくありません。

住む地域はちがっても、みなさんが、カイのような人たちを手助けしてくれたらどんなにいいかと心から願っています。

バスで、ひとりで通勤することが、毎日どれだけの不安に満ちた「冒険」か──
ここまで来るためにどれだけ多くのひとたちの、愛情や想いがそそぎこまれて、できるようになった「今」があるか──

わかってもらえますように

IMG_5013

13歳の息子の父親より

【4年後のメッセージ】
・RE: バスでのできごと(野球部のみなさんへ)
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52647993.html
 4年が経って、もう一度野球部(だった)みなさんへメッセージを書きました。


(*)兵庫県西部の県立高校の野球部員ら1年生10人が今月11日、路線バスの車内で知的障害者とみられる男性に嫌がらせをし、その様子をスマートフォンで撮影していたことがわかった。高校は10人を5日間の自宅謹慎にした。

 高校によると、生徒らは11日午後6時ごろ、下校中のバスに乗車してきた男性の前にかばんを置いて通行を妨げたり、男性がいつも座る席に生徒が座ったりする嫌がらせをした。男性が怒る様子を撮影してスマートフォンのアプリ「LINE」に投稿し、仲間内で閲覧していたという。

 校長は「相手の立場に立つ優しさがなく、明らかな人権侵害。今後も徹底的に指導する」と話した。教頭が男性の家族に面会を求めたが断られたため、校長が電話で謝罪したという。(朝日新聞、2012.12.28)

「同じ」

「同じ」病気、「同じ」障害、というものが、個々人でみたら存在しないんだと思う。病気の進行度、重さ、環境、経験、年齢もろもろみんな違う。

むしろ「同じ」障害だから。余計にうらやましくなってしまうことだってある。嫉妬なのかな? 自分にはある。

『電池が切れるまで』という子ども病院の子どもたちが書いた詩を集めた本がある。そのなかに親の書いた、「親の思い」という詩がある。自分よりも「恵まれている」ようにみえる親をうらやましく思う気持ちをストレートに綴っている。

それを、ときどき思い出す。

だから幸せ装うのも不幸装うのもやめる

@s1224: 障害は辛いよ、本人も家族もね。だから幸せ装うのも不幸装うのもやめる。言ってもわからない人には言わない、力になってくれる人には信頼と感謝を。


 Twitterでこのつぶやきを読んで、自分がつぶやいたんじゃないか…と思うほど同意した。この意味を、自分なりに考えてみた。

「幸せ装うのも不幸を装うのもやめる」
 日々のなかでは、幸せにも不幸にも振れるときがある。それは当たり前。ところが、経験から言って、幸せなときに表に見せるのは不幸だったり、不幸なときにカラ元気で幸せを装ったりと、逆を装って振舞ってしまうことがあった。本当の気持ちを隠そうとしてしまう。なんの意味があるのか。
 本当の気持ちを他人に見せたら、弱さをさらけ出してしまうと思うの?……わからないけど。変なバランス感覚。もしかしたら、他人の評価を気にして、演じてしまっていたのかもしれない。「障害児を持つがんばっている親」みたいなモデルを。

「言ってもわからない人には言わない、力になってくれる人には信頼と感謝を。」
 これは、散々信じて裏切られて、何度もトライした末にたどり着くことなんだ。心を壊さないように。だけど、さしのべられた手を握り返す勇気は捨てない。
 8年前に書いた記事「他人の偏見には鈍感に。他人の親切には敏感に」をリンクしておきます。
 障害はしんどい。ハリネズミみたいになって、小さなことがスルーできずに痛くて、差し伸べられた手まで触るなと払いのける。そんな日々を長く続けてしまわないでね。

ショプラー先生、ありがとう

 先月、大阪維新の会の「家庭教育支援条例」の案が報道されたときに、またか…と暗然としました。

 そのときに、Twitterで、自閉症のきょうだいをもつ学生のかたが、私あてにメッセージを送ってくれました。

「兄は自閉症です。両親の、兄とわたしへの愛情や育て方に違いがあったとは思えません」と。

 このパワフルなメッセージが、思い出させてくれました。
 
 10年前に、ノースカロライナ大学TEACCH部創始者エリック・ショプラー先生が自閉症カンファレンスNIPPONのために来日されたときのことです。私は、先生の講演を聴くことができました。
 
 ショプラー先生が、若い頃、シカゴ大学でベッテルハイム教授に師事して臨床心理学を学んでいたとそこで初めて知り、とても驚きました。ショプラー先生は、ベッテルハイム教授が主張していた「自閉症は不適切な母子関係による情緒障害である」とした説に納得できず、シカゴ大学を離れ、ノースカロライナ大学に移って研究を続けました。
 
 ノースカロライナ大学で、自閉症の原因が親にあるのかを検証するために、親にインタビューをしたときのことをお話しされました。
 親たちは、わが子の障害の原因が自分にあると自責の念にかられて、非常に不安定で自信のない答えをした。しかし、質問を「あなたは自閉症の子どもを抱えながら、健常のきょうだいを立派に育てられましたね。どのように育てられたのですか?」と変えて尋ねてみた。すると、それまでの苦渋に満ちた表情がパッと明るくなって、誇らしげに、自分の育て方ときょうだいの育ちのことを語ってくれた……と。
 
 ショプラー先生が、「親は、自信を失わされていた」「自分は、そうではないと確信をした」「そして、親は共同治療者であるということをTEACCHの理念にした」と語られました。
 
 今日の記事を書くために、内山登紀夫先生の『本当のTEACCH』を読み直しました。該当する部分を引用します。
 先行研究では自閉症児の親(特に母親)は思考障害があったとされていたのである。ショプラーたちは親の罪悪感がテスト結果に反映していると考えた。そこで自閉症児と定型発達児のきょうだいをもつ親を対象に検討した。障害児をもつ親がいかにきょうだいをうまく育てているかみるのが目的だと保護者に説明して実験を行った。このような親の気持を配慮した上で実験を行うと、自閉症児の親がとりわけ思考障害があるという結果はなかった。
(内山登紀夫『本当のTEACCH』P.28 学研2006)
 
 論文や本で、同じことを読んでも、あの講演での「熱」は伝わらないかもしれません。
 ショプラー先生は、ベッテルハイムという師を乗り越えなければならなかったこと、母原病説によって子どもが親から引き離されて、子どもは混乱のなかにあり、親は自信喪失をしていた時代を変革してきた。そのことを「原点」として語る必要があると確信されていたのだと思います。
 その必要性は、日本でも、何度も「親の育て方が原因」という主張が蘇ってくることをみればわかります。

 内山先生は、2006年にブログ記事で書かれています。
 
・児童精神医学と福祉と教育: ベッテルハイムを批判しなければならないわけ
http://blogs.dion.ne.jp/tokio/archives/4704116.html
(引用者注:内山先生がベッテルハイムの著作を再読していることの理由として言及)

もう一つの大きな理由は「本当のTEACCH」(学研)に記載されている、故ショプラー先生にインタビューしたときに、ベッテルハイムに関して多くの時間を割いて説明してくれた。早稲田のカンファに来日されたときも、ベッテルハイムの批判にかなりの時間を割いて説明された。なんだが、少し違和感を持ったのですね。何故なら、ベッテルハイムというのは僕の世代の児童精神科医、特に発達障害を専門にする児童精神科医にとっては、完全に過去の人で、今頃、問題にすることもないような気もしたのです。
ショプラー先生はシカゴ大学でベッテルハイムに一時師事され、その後袂をわかってTEACCHを創立された。当時(1950年代から60年代)はベッテルハイムの全盛期ではあったでしょうが、その後70年代以降の自閉症研究の流れのなかでベッテルハイムの自閉症観は完全に否定された(ようにみえた)。
どうしてショプラー先生が、21世紀になってもベッテルハイム否定に、ある種の情熱をかけられたかのか、ヒントを知りたいと思ったこともあってベッテルハイムの著作を読んでいるわけです。

・児童精神医学と福祉と教育: ベッテルハイムとショプラー先生
http://blogs.dion.ne.jp/tokio/archives/4715546.html

ただ、彼(引用者注:ベッテルハイム)は多くの研究・臨床成果があがった90年代になっても自説を曲げなかった。ショプラー先生がこだわったのは、さまざまな根拠があるのに、自分の間違いを正そうとしないベッテルハイムのようなあり方が許せなかった、あるいはベッテルハイムのような人を認めると(批判をきちんとしないと)、自閉症の子どもと家族に不利益を与えるということを、我々のような次ぎの世代にきちんと伝えたかったのではないかという気がしてきた。日本でもベッテルハイムと同じようなことを言っていた人が自己批判もしないで、そのまま活動をしていることがある。「だめなものは駄目」ときちんと表出することが大切だ。

 このブログでも、何度か書いてきたことですが。
 
 自閉症の原因がどこにあるのかは、私たち親にはわかりません。

 ただ、わかっていることは、自閉症の特性に合わない接し方をすると、子どもは苦痛を覚え、激しい混乱状態に追い込まれ、生活が困難になるということです。

 自閉症だとわかったときに、その「原因」を考えない親はいないと思います。

 経験のない子育てに加えて、「自閉症の特性」といっても、わが子の特性を理解し、この子にあった子育てをすることは大変なエネルギーが必要なのに。原因が自分にあると責めることは、エネルギーを消耗するだけで。生きる気力を奪い、子どもに寄り添っていく自信をなくさせます。

・【わが子】★3 診断の前後で、わが子が別人になったわけではない
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/360803.html

 こんなえらそうなことを書いて恥ずかしいのですが……「診断の前後で、わが子が別人になったわけではない」と思えるようになるためにも、「原因は何か」という犯人探しはマイナスしかないと思うのです。

 大変な子育て。それは自閉症に限らず。
 子育てを親だけでかかえこまず、周りに助けを求められるようにするためには、「親を叩く」ことは愚の骨頂で、「よくここまで育てましたね。わからない中で、大変だったでしょう」という優しくいたわり、なぐさめるところから始めるしかないでしょう…?
  

 これ以上書くと、感情がぐらんぐらんしてくるので止めます。最後に。


 エネルギーをどこから補給をするか? どうすれば、気力がわいてくるのか?
 勇気と知恵が自分のなかから自然と無尽蔵にわいてくるなら、こんなブログ要らない。仲間も、専門家も要らない。
 
 でもそうじゃないでしょう。
 すぐに枯れてしまうでしょう。
 長く親をやっていれば、「省エネ」運転のこつはつかむけど、本当にガス欠になってしまうこともある。

 だから助けあいましょう。
 元気じゃなくても「生きているよ」と知らせあいましょう。

 それがはげましになるから。

「とにかくもう疲れたよ」「けど休めない」


 刺さる言葉が発せられて、誰かが傷つき、心情を吐露した時、

・ツイッターをやめました - Ashley事件から生命倫理を考える - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/65099302.html

 その心情を聴いた者が、そのまま放置せず、意を尽くして応えようとした。

・140字では表現できないのでブログに書いてみた: 歩くたこの木
http://takonoki-p.seesaa.net/article/270526020.html

 置かれている状況には変化がなくても、そこにいる「あなた」の気持ちを私は聴いた。その傷に「手」を「当て」たい。誤解やすれ違いがあったとしても。なぜなら立場は違っても「わたし」も血を流しているからだ。

 そう聴こえた。



<追記>
@iwatyan1963さんが、「歩くたこの木」の記事投稿の後につぶやかれた言葉を追記しておく。2つの記事を架け橋する内容だと思います。




10月8日の乙武さんツイートを巡って

Twitter界隈で(どこ?)、話題になっている乙武さんのツイート──「不幸」の烙印を押さないで──を巡って考えたことをメモしておきます。

乙武さんのツイートはこれです。

・「不幸」の烙印を押さないで:togetterまとめ
http://togetter.com/li/198105
「もしも、自分が障害のある子を授かったら」――そんな視点から読んでいただきたい乙武洋匡による連続ツイートまとめ。

この連続ツイートでの「主題」である出生前診断について、カイパパが書いた記事がありました。

・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 着床前診断に関するメモ
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/6802802.html
★グロテスクな未来
・診断をせずに障害児や重い病気の子が生まれた家庭を指差して「あの商品(着床前診断)を利用しなかった愚か者だ」と哂う人がでる
・もしも診断をしたのに、障害児が生まれたら「欠陥品だ」と返品を求める、あるいは損害賠償請求をする消費者が出てくる

・カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 選べないからしあわせ
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/6837338.html
★選べないからしあわせ

【気づいたこと】
・選べないことのしあわせもあるんじゃないか
=オプションがありすぎて、何を選んだか(選ばなかったことも含めて)すべて己の責任だと自分を責める苦しみが増えるばかりで、窒息しそう。

 実際に人に選べていることなんて少ないのにね。

2004年の記事ですが、読み返してみて、今の自分の感じていることとそう変わりませんでした。

乙武さんのメッセージ
6.つまり、生きてみなければ、その人の人生が不幸かどうかなんて、わからない。どんな苦しい境遇に生まれても、大逆転でHAPPYな人生を歩むことになるかもしれない。それなのに、生まれた時点で「この子は不幸だ」と決めつけてしまうのは、あまりにもったいない気がしてしまうのだ。

には、共感しました。

で。
このツイートをきっかけに、「親のあり方、受けとめ方」についての議論が始まっています。
いくつか紹介したいと思います。

たとえば、これです。

・乙武さんのツイートから、障害受容について改めて考えてみる:togetterまとめ
http://togetter.com/li/198163
乙武さんの「障害ある子をさずかったら」という一連のツイート http://togetter.com/li/198105 をきっかけに始まった、主に自閉症療育クラスタ・心理学クラスタでの障害受容の議論をまとめました。
関心ごとは「障害の受容」とは具体的に何か、自分にとってそれはどのようなものであるか、それを客観的に測定する方法はあるのか、といったようなことです。

批判的に論じた記事もあります。

・乙武さんの「おおらかな親のほうがよい」について - lessorの日記
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20111008/1318099122
 このtogetterを読んで「うわー、これはよくない」と思って、寄せられたブックマークコメントを見たら、みんな絶賛。世間的にはこれが「障害があっても人は幸せになれる」という美しい主張としてのみ受けとめられてしまう。自分は、障害児とその家族を支援する者である。無視できない。

 彼のツイートの意図はどうあれ、これは「障害を受容できない保護者は望ましくない」「障害を受容できない保護者の子どもは苦労をする」というメッセージとして機能する。

全文もぜひ。コメント欄も含めて、考えさせられます。

もうひとつは、乙武ツイートを「虐待」という視点から分析した記事です。説得力があり、とても胸痛く響きました。

・社会が押し付ける「良い親であれ」というプレッシャー - yuhka-unoの日記
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20111009/1318152312
これは障害児だけでなく、広く「虐待」というものを考えさせられるテーマだ。

結論から言うと、私は乙武氏のスタンスに疑問を持っている。なぜなら、子供を虐待する親のパターンとして、「良い親でありたい」という気持ちが強い人が多いからだ。だから、このような「良い親になってください」という形の呼び掛けは、逆に危険なのではないかと思う。

今、『機会不平等』斎藤貴男著(優生思想をベースにし、階級固定化を企図した教育改革、規制改革もろもろ…)を読んでいて、非常に暗い気持ちになっていることを申し添えつつ、「完璧なコドモ」を求め、それに相応しい「良い親」であろうとする(その逆も)努力を個人レベルで強いる(かつ個人レベルでは打開できない)社会は生きづらいですよね。

「だいたい」でいいと思います。満点なんて、幻想。

他人が言うことを真に受けるのはほどほどにしましょう。自分の心だってわからないのに、他人のなんて、ね。
語られたことが全てなわけではないし、嘘を言っていないという保証もない。他人の体験談は、あくまでも考えるための参考に 過ぎない。「だいたい」でいい。また変わるし。

こんな「適当」なことを言っていますが、しょせん他人のたわごとです。

もうすぐ明日ですね。とりあえず、リアルの荒波を乗り切っていこうと思います。

小学校最後の運動カイ

先週の土曜日、運動会でした。
カイはいつもと同じ生活が好き。運動会やイベント事は大の苦手。いつもの時間割が変更になって、運動会の練習が入り始めると調子を崩し、本人もとても苦しそう。

母子通園施設の時から始まって、毎回ハラハラしながら乗り切って来ました(がんばって乗り切っているのはカイです)。

たとえば、小学校最初の運動会の記事。(よみがえるなぁ…)

今回は数えてみると10回目の運動会。昔は、人目が気になったり、他の子と比べたり、いろいろな意味で大緊張をしましたが、いい意味で開き直れるようになりました。

ところが今回は──思いがけない展開でした。

徒競走。スタートは先生に付き添われ、いつもと同じように手を引かれて走るのだと思っていました──

S1020070
あれ?

徒競走、先生が先導してくれたけど、手は握らずに、1人で走り抜きました!
ビリでしたが意外と速く、走っている間ずっと余裕の笑顔でした。


そして、組体操。当然「マリオネット」状態だろうと想像していたのですが──

S1020048
えっ…誰も付き添ってないの?

S1020052
自分でよじ登ってキメポーズ。
「あれ、カイくんだよね??」と思わずつぶやいてしまいました。


本当にびっくりしました。

他の競技も、先生方のくふうとお友だちのフォローのおかげで、一員として参加できていました。
ものすごくっ、がんばってくださったことが伝わってきました。カイに関わるみなさんの真心があふれていました。感謝の気持ちでいっぱいです。

2004年の保育園での運動会のことを書いた記事を読み返してみました。

7年前の自分に伝えてあげたい。

「できない」は「今は、できない」だけ。
もしかしたら、ずっとできないかもしれないけれど、いつかはできるようになるかもしれない。
そんなことは「今」の時点では、だれにも断言できない。
親は、悲観もせず、楽観もせず、可能性を信じて育てていけばいいんだよ。

いつか、わが子が証明してくれるよ。
S1020074
ねっ!

【おすすめ】妖精が見える子供:私たちは生きている。

おすすめ記事を紹介します。

いつも愛読している、11歳の息子さんジューくんのお母さんのブログ「妖精が見える子供」から。
(妖精が見える子供は2004年から続いているのですね。けっこう初期から見ていますよ〜)

ママ友との会話を描いた文章です。

・私たちは生きている。 - 妖精が見える子供
http://blog.goo.ne.jp/big-mama-8123/e/cb8e41bc5fadd1256c099ee2cfcb860c
でもさ、私はいっつも思ってるんだよ。
ジューが死ぬ時最後に誰を見て何を思うんだろうってさ、
もちろん事故にあって死ぬ人とか、皆が布団の上で死ぬわけじゃないけれど
ジューが死ぬことで悲しんで残念がってくれる人がいるんだろうかとかいっつも思ってる。

皆は知らないだろうけど施設に行くと
ジューみたいなお年寄りがたくさんいて
簡単な内職みたいな仕事をすごく時間をかけてして
空いている時間は簡単な計算プリントや塗り絵をしたりして暮らしているんだ。
穏やかないい顔をしている人もいるけど
これがジューの将来かと思うとせつなくてせつなくて仕方がないし泣けてくるんだ。
だからせめてジューが私たちがいる間だけでも楽しい時間を過ごして
それを思い出してくれたらいいなぁって
夏休みの暑い中公園も行くし、プールだって行くよ。
パニックおこしてイライラしてたら夜にだって学校にいってブランコおしてあげる。
私はジューの笑った顔が見たいだけなんだ。
私たちが死んだらどうなるのかはわからないけど
自閉症だから何ともないことが辛いのだけはわかるから楽しい想い出もその倍の倍の倍くらいにしてあげたいんだ。
この子たちは
ちゃんと覚えてるからね。

映画「海洋天堂」を観て、思ったことでもあります。
子どもたちがちゃんと生きていける環境を創り上げて、移行もできて、安心して死ぬことはきっとできるだろう(そのための努力を惜しまない)。

だけど、残された子の「さみしさ」は、どうしてあげられるかな?

楽しい思い出をたくさんたくさん残してあげる──
この子たちはちゃんと覚えているから。

そうだよね。

時空を超えて届く救い

「肉親じゃなくても、友達ではなくても、手は差し伸べられる」の記事で紹介したハバネロさんの記事を読んで、思い出したシーンがあります。

3月のライオン 5 (ジェッツコミックス)
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将棋の棋士を描いたマンガ『3月のライオン』第5巻の中で、
主人公の桐山くんがお世話になっているうちの次女ひなちゃん(中学生)が、
クラスでいじめられている友達をかばって、今度は自分がいじめの対象になってしまうエピソードが登場します。
桐山くん自身も小学生時代から学校で無視され続け、今(高校生)にいたる過去がある。

「かばうとひなちゃんがやられるよ。だから、関わらないほうがいいよ」という「忠告」のとおりになって、ひなちゃんは泣きじゃくりながら叫ぶ。
ひ…ひとりぼっちになるの。こわいよう…
ほんとはずっと恐かった

でもっっ
でもっっ

こうかいなんてしないっっ しちゃダメだっ
だって私のした事はぜったい まちがってなんかない!!

この言葉を聞いて、桐山くんは──
その時 泣きじゃくりながらもそう言い切った彼女を見て
僕は かみなりに撃たれたような気がした

不思議だ ひとは
こんなにも時が 過ぎた後で
全く 違う方向から
嵐のように 救われることがある

桐山くんが、なぜこんなに衝撃を受け、救われたと感じたのか?を考えてみました。

子どもの頃の、つらい記憶や体験を、もう過去のこととしてやり過ごして忘れ去ったつもりでいても、傷はかさぶたがかかっているだけで、そこにあった。あり続けていたんだ。
だから、過去の痛みは現在の痛みとして、凍結されたまま残っている。
あってはならないできごとや不正に遭遇した。
それによって、傷つけられ、ねじ曲げられた自分がいる。もうもとに戻すことはできない。
だから、忘れるしかない。あたかも無かったことであるかのように。
笑って、なにもなかったかのように。「ふつうのようにくらすふつうのひと」みたいに。

それが、「乗り越えた」ことなんだろうか?
一般的には、「Yes」だ。
「ふつうのようにくらすふつうのひと」に見えるようになれば、「乗り越えた」というしかない。
他人には分かるわけないし、自分も忘れている。傷はもう、見た目にはわからなくなっている。

だけど、そのできごとの前後で、まるで別の人生のように変わってしまった経験は忘れられないし、消せない。不可逆的に変えられてしまった。そこで分岐して、「それまでどおりの人生」を歩む自分が別にいるんじゃないか?みたいな妄想をしたりして。

でも、ふだんは忘れているんだ。「乗り越えた」から。

そこに、唐突にあらわれる「救い」
それを、3月のライオンのこのシーンは描いている。

ひなちゃんは自分が正しいと思ったことを必死でした、だけ。
桐山くんとは関係がない行為。

だけど、桐山くんにとって、不正に立ち向かい、いじめられている友達を守った彼女の行為は、幼い桐山くんを救ってくれたと同じ意味をもった。桐山くんの「今」の中に、救われたい傷があるから。

私も、これに似た、衝撃的な「救い」を実感したことがあります。



──障害のある子の「親」が、プロの「支援者」の立場になっていく姿をたくさん見てきました。
私は、思うのです。

「親」たちは、

あの時、救ってほしかったけど救われなかった「自分」を
時空を超えて、救うために

今、あとから来るひとたちを救おうとしているんじゃないかと。

【おすすめ】Ashley事件から生命倫理を考える

afcpさん経由で『アシュリー事件』という本が刊行されることを知りました。
2004年、アメリカの6歳になる重症重複障害の女の子に、両親の希望である医療介入が行われた──1、ホルモン大量投与で最終身長を制限する、2、子宮摘出で生理と生理痛を取り除く、3、初期乳房芽の摘出で乳房の生育を制限する──。

自閉症の子を持つ親が、わが子の体が大きくなってパニックや問題行動が起きたときに手に負えなくなることへの不安から「これ以上大きくならなくていい」と嘆くのを聞いたことがあります。

しかし、それは「成育の制限は不可能」という前提があっての言葉であって、実際に「医療」(←これはカギカッコが絶対に必要)的に手を下す意図があるわけではありません。
「大人になった時のことを考えて、今やれることをやろう」という決意とともに、気を許した仲間内でもらすグチに過ぎません(「そんな不穏当なことは口にすることも許されない」という立場には私は立ちません。)。

米国であったアシュリー事件では、現実に「医療介入」がなされたそうです。6歳のときに両親の主導で。

『アシュリー事件』の本は、著者が長年ブログで論じてきた成果をまとめたものです。(「アシュリー事件」という本を書きました - Ashley事件から生命倫理を考える -

この著書のサブタイトルにある「メディカル・コントロールと新・優生思想の時代」についても関心があります。(関連記事:カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 選べないからしあわせ
でも本当は、著者が、アシュリーさんと近い重症重複障害のあるお子さんの親の立場から問題意識を持ち、粘り強くブログを書き続けていると知ったから、ぜひとも読みたいと思いました。

ブログ「Ashley事件から生命倫理を考える」を読ませていただいて、この記事が、胸に刺さりました。

・親の立場から、障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと - Ashley事件から生命倫理を考える -
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/59289641.html

施設に入れることを選択してしまった親がAshley事件を批判することの意味を
ずっと考え続けることによって、私は批判する資格を得ようとしていたような気がします。
このあたりのことは、まだ、うまく表現できません。また改めて言葉にしたいと思います。


ともあれ、そういう問題意識のあり方でAshley事件を追いかけてきた私が、今、Angela事件で
親から子への支配を強めようとする力がとめようもない勢いになろうとしていることを思う時、


障害学や障害者運動の人たちにお願いしたいと思うのは、こういう時だからこそ、
障害児・者と親の関係を「親は敵だ」といった対立関係で考えることを
いったん、外してみてもらえませんか、ということです。


うちの娘にとって自分は一番の敵なのだと、私は本当に、痛切に、そう思います。


施設に入れた決断だってそうだし、今だって、娘は自分があそこで暮らしたくて、施設にいるわけじゃない。
自分が帰りたいと思った時に家に帰ることを許されるわけでもない。


管理でガチガチの師長が許せなくて、施設中を大騒ぎにして闘って、
自分では「子どもたちの生活を守った」つもりだったこともあったけど、
いろんな意味で娘は結局、私の闘いの一番の被害者だったのかもしれない。


他人との暮らしで母親よりもよっぽど世知にたけたオトナになって
「もう、この子は一人で生きていけるよ」と言われるほど成長しているのに、
それでも「今の世の中に残して逝けるものだろうか……」と勝手に気をもんでいる私が
彼女の敵でなくて何だろう、と、心底、思う。


でも、それは「娘にとって私は一番の敵だという面は確かにある」ということであって、
「全面的に敵である」ということでも「敵でしかない」ということでもないと思うのです。


言い訳でしかないのかもしれないけど、
20年前の日本に、レスパイトサービスがあり、ヘルパーさんがいてくれたら、
私たち親子には、もしかしたら、別の暮らし方もあったのかもしれない、と思う。


全身を火の玉のようにした、すさまじい号泣に夜通しさらされて
汗だくになって、必死で抱き、あやし、ゆすり、夜中の町を車で走り続けて、
ろくに眠れないまま仕事に行く日が続いていた頃に、
もしも週に1晩だけでも娘を安心して預けられるところがあったら
私たち夫婦は、おそらく、その一晩の眠りを支えに、他の日を頑張り続けることができたような気がする。


寝込んでばかりいる幼児期の娘と一緒に狭い家に連日閉じ込められて、
ろくに手伝ってもくれない人たちから責められ続けて、
私の心がじわじわと病みつつあった娘の幼児期に、
もしも、誰かが家事だけでも手伝いに来てくれたら、
「私を助けにきてくれる人がいる」という、ただ、そのことだけで、
私にはものすごく大きな救いになったような気がする。
そしたら、私たち親子の生活にも他の形があり得たのかもしれない、と思うのです。


私には「親が一番の敵だ」という障害学や障害者運動の人たちの主張が、ものすごく痛い。
(ぜひ全文も)

……私は、この言葉を読んで、「親の贖罪意識」を感じました。

すべての親が、そうだとは言いませんが、多くの親は──

・ハンディなく産んであげられなくてごめんね
・望むように暮らせるようにしてあげられなくてごめんね

と、自分を責める自罰的な思いをどこかに持ち続けて生きているように思います。

毎日育てていて、
これでいいのか?
という自問

大人になって、
これが望んだ「将来」か?
という責め

こんなことしかしてあげられない
という無力感

毎日が、葛藤の連続です。
だから、親が病んでしまうリスクは非常に高い。
だから、あえて「考えないようにして」マヒさせる、「かえって幸せだよ☆」と明るくふるまうのも、生きるための自衛手段だったりする。

わが子という「他人」の人生を左右する選択を、狭い選択肢のなかから選んでいく責任を負わされた人生はやっぱり重たくて。

「こうするしかなかった」という思いはあっても、いつも自責の念と表裏一体。
いくつになっても。死ぬまで、続くのかな?

引用記事は、このように結ばれます。
私がこの3年間で考えるようになったのは、「どんなに重度な障害がある子どもでも、
一定の年齢になったら親元から独立して、それぞれにふさわしい支援を受けながら、
それぞれの形で自立して暮らしていける社会」を共に求めていくことはできないだろうか、ということです。

AshleyやAngelaやウチの娘のような重症児・者や、
今、行き場がなくなってベッドふさぎのように言われ始めている超重症児も線引きすることなしに。
もちろん、なるべくなら、家族や友人のいる地域で。

そういう社会を目指す支援があれば、親も少しずつ子どもを抱きかばう腕を解いて
他人に託してみるという経験をすることができる。そして、
「ああ、それでも、この子は大丈夫なんだ」と発見するステップを
上手に踏んでいける社会であれば、親もいつまでも抱え込まなくて済む。
親が抱え込んだあげくに連れて死ぬしかないと思いつめる悲劇も減るのではないでしょうか。

「親が一番の敵」という対立の構図から、
「親が子の敵にならないでも済む社会」「子も親も自然に親離れ子離れができるような支援のあり方」という
新たな広がりのある地平へと、一歩を踏み出して、親とも一緒になって
差別や人権侵害と闘う障害学とか障害者運動というものが、

英米から科学とテクノと、その御用学問である生命倫理との包囲網が
こんなにも激しい勢いで狭められていく今の時代に抗うために、ありえたらいいなと、

障害のある我が子にとって自分が一番の敵だという面があることを自覚したからこそ、
むしろAshley療法を批判し、それを通して訴えたいことが山のようにある、
そういう私には、たぶん、正面からAshleyの親を批判する資格があるはずだと、
やっと思え始めている親の一人から、

今の段階では、まだ、こういう言葉でしか表現できない
「障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと」でした。

贖罪にとどまらない、前に進む呼びかけが心に届きます。
無駄なことなんかない。社会は少しずつよくなっていく。そう信じて努力を続けたいです。

この記事を結びに紹介します。

・「夏にプールに入れる」というQOL - Ashley事件から生命倫理を考える -
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63798163.html

これが、親なんですよね。
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