カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル

〜自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界!〜

親の

【おすすめ】Ashley事件から生命倫理を考える

afcpさん経由で『アシュリー事件』という本が刊行されることを知りました。
2004年、アメリカの6歳になる重症重複障害の女の子に、両親の希望である医療介入が行われた──1、ホルモン大量投与で最終身長を制限する、2、子宮摘出で生理と生理痛を取り除く、3、初期乳房芽の摘出で乳房の生育を制限する──。

自閉症の子を持つ親が、わが子の体が大きくなってパニックや問題行動が起きたときに手に負えなくなることへの不安から「これ以上大きくならなくていい」と嘆くのを聞いたことがあります。

しかし、それは「成育の制限は不可能」という前提があっての言葉であって、実際に「医療」(←これはカギカッコが絶対に必要)的に手を下す意図があるわけではありません。
「大人になった時のことを考えて、今やれることをやろう」という決意とともに、気を許した仲間内でもらすグチに過ぎません(「そんな不穏当なことは口にすることも許されない」という立場には私は立ちません。)。

米国であったアシュリー事件では、現実に「医療介入」がなされたそうです。6歳のときに両親の主導で。

『アシュリー事件』の本は、著者が長年ブログで論じてきた成果をまとめたものです。(「アシュリー事件」という本を書きました - Ashley事件から生命倫理を考える -

この著書のサブタイトルにある「メディカル・コントロールと新・優生思想の時代」についても関心があります。(関連記事:カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 選べないからしあわせ
でも本当は、著者が、アシュリーさんと近い重症重複障害のあるお子さんの親の立場から問題意識を持ち、粘り強くブログを書き続けていると知ったから、ぜひとも読みたいと思いました。

ブログ「Ashley事件から生命倫理を考える」を読ませていただいて、この記事が、胸に刺さりました。

・親の立場から、障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと - Ashley事件から生命倫理を考える -
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/59289641.html

施設に入れることを選択してしまった親がAshley事件を批判することの意味を
ずっと考え続けることによって、私は批判する資格を得ようとしていたような気がします。
このあたりのことは、まだ、うまく表現できません。また改めて言葉にしたいと思います。


ともあれ、そういう問題意識のあり方でAshley事件を追いかけてきた私が、今、Angela事件で
親から子への支配を強めようとする力がとめようもない勢いになろうとしていることを思う時、


障害学や障害者運動の人たちにお願いしたいと思うのは、こういう時だからこそ、
障害児・者と親の関係を「親は敵だ」といった対立関係で考えることを
いったん、外してみてもらえませんか、ということです。


うちの娘にとって自分は一番の敵なのだと、私は本当に、痛切に、そう思います。


施設に入れた決断だってそうだし、今だって、娘は自分があそこで暮らしたくて、施設にいるわけじゃない。
自分が帰りたいと思った時に家に帰ることを許されるわけでもない。


管理でガチガチの師長が許せなくて、施設中を大騒ぎにして闘って、
自分では「子どもたちの生活を守った」つもりだったこともあったけど、
いろんな意味で娘は結局、私の闘いの一番の被害者だったのかもしれない。


他人との暮らしで母親よりもよっぽど世知にたけたオトナになって
「もう、この子は一人で生きていけるよ」と言われるほど成長しているのに、
それでも「今の世の中に残して逝けるものだろうか……」と勝手に気をもんでいる私が
彼女の敵でなくて何だろう、と、心底、思う。


でも、それは「娘にとって私は一番の敵だという面は確かにある」ということであって、
「全面的に敵である」ということでも「敵でしかない」ということでもないと思うのです。


言い訳でしかないのかもしれないけど、
20年前の日本に、レスパイトサービスがあり、ヘルパーさんがいてくれたら、
私たち親子には、もしかしたら、別の暮らし方もあったのかもしれない、と思う。


全身を火の玉のようにした、すさまじい号泣に夜通しさらされて
汗だくになって、必死で抱き、あやし、ゆすり、夜中の町を車で走り続けて、
ろくに眠れないまま仕事に行く日が続いていた頃に、
もしも週に1晩だけでも娘を安心して預けられるところがあったら
私たち夫婦は、おそらく、その一晩の眠りを支えに、他の日を頑張り続けることができたような気がする。


寝込んでばかりいる幼児期の娘と一緒に狭い家に連日閉じ込められて、
ろくに手伝ってもくれない人たちから責められ続けて、
私の心がじわじわと病みつつあった娘の幼児期に、
もしも、誰かが家事だけでも手伝いに来てくれたら、
「私を助けにきてくれる人がいる」という、ただ、そのことだけで、
私にはものすごく大きな救いになったような気がする。
そしたら、私たち親子の生活にも他の形があり得たのかもしれない、と思うのです。


私には「親が一番の敵だ」という障害学や障害者運動の人たちの主張が、ものすごく痛い。
(ぜひ全文も)

……私は、この言葉を読んで、「親の贖罪意識」を感じました。

すべての親が、そうだとは言いませんが、多くの親は──

・ハンディなく産んであげられなくてごめんね
・望むように暮らせるようにしてあげられなくてごめんね

と、自分を責める自罰的な思いをどこかに持ち続けて生きているように思います。

毎日育てていて、
これでいいのか?
という自問

大人になって、
これが望んだ「将来」か?
という責め

こんなことしかしてあげられない
という無力感

毎日が、葛藤の連続です。
だから、親が病んでしまうリスクは非常に高い。
だから、あえて「考えないようにして」マヒさせる、「かえって幸せだよ☆」と明るくふるまうのも、生きるための自衛手段だったりする。

わが子という「他人」の人生を左右する選択を、狭い選択肢のなかから選んでいく責任を負わされた人生はやっぱり重たくて。

「こうするしかなかった」という思いはあっても、いつも自責の念と表裏一体。
いくつになっても。死ぬまで、続くのかな?

引用記事は、このように結ばれます。
私がこの3年間で考えるようになったのは、「どんなに重度な障害がある子どもでも、
一定の年齢になったら親元から独立して、それぞれにふさわしい支援を受けながら、
それぞれの形で自立して暮らしていける社会」を共に求めていくことはできないだろうか、ということです。

AshleyやAngelaやウチの娘のような重症児・者や、
今、行き場がなくなってベッドふさぎのように言われ始めている超重症児も線引きすることなしに。
もちろん、なるべくなら、家族や友人のいる地域で。

そういう社会を目指す支援があれば、親も少しずつ子どもを抱きかばう腕を解いて
他人に託してみるという経験をすることができる。そして、
「ああ、それでも、この子は大丈夫なんだ」と発見するステップを
上手に踏んでいける社会であれば、親もいつまでも抱え込まなくて済む。
親が抱え込んだあげくに連れて死ぬしかないと思いつめる悲劇も減るのではないでしょうか。

「親が一番の敵」という対立の構図から、
「親が子の敵にならないでも済む社会」「子も親も自然に親離れ子離れができるような支援のあり方」という
新たな広がりのある地平へと、一歩を踏み出して、親とも一緒になって
差別や人権侵害と闘う障害学とか障害者運動というものが、

英米から科学とテクノと、その御用学問である生命倫理との包囲網が
こんなにも激しい勢いで狭められていく今の時代に抗うために、ありえたらいいなと、

障害のある我が子にとって自分が一番の敵だという面があることを自覚したからこそ、
むしろAshley療法を批判し、それを通して訴えたいことが山のようにある、
そういう私には、たぶん、正面からAshleyの親を批判する資格があるはずだと、
やっと思え始めている親の一人から、

今の段階では、まだ、こういう言葉でしか表現できない
「障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと」でした。

贖罪にとどまらない、前に進む呼びかけが心に届きます。
無駄なことなんかない。社会は少しずつよくなっていく。そう信じて努力を続けたいです。

この記事を結びに紹介します。

・「夏にプールに入れる」というQOL - Ashley事件から生命倫理を考える -
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/63798163.html

これが、親なんですよね。

『海洋天堂』観てきました

映画「海洋天堂」のストーリー

妻と一緒に映画『海洋天堂』を観てきました。

先入観を持ちたくなかったので、できるだけ、事前情報を入れずに行きました。

観に行けて本当に良かった。

冒頭のシーンでいきなりノックアウト。
ラストのメッセージが、「これを『平凡な』と呼ぶか…」と圧倒されつつ、心に深く染み入りました。



私は、この映画を観て、「ベストをつくそう」という思いを新たにしました。

まだの方、ぜひ。

名古屋では、名演小劇場で、9月2日まで!

【おすすめ】わたしは成年後見人

成年後見制度のイメージをつかむために有益なページを紹介します。親がわが子の成年後見人になる場合の流れが紹介されています。

・わたしは成年後見人
http://www.h3.dion.ne.jp/~bhur/meisou/kouken.htm
わが子のために、わたしは成年後見人になった。そのいきさつ、手続きをとりまとめてみました。これから取り組む人たちへのささやかな応援となることを願って。

親亡き後の対策―― わが家のように一人っ子の場合、親亡き後の後見が一番の問題であり後見の本番である。そのためどのような法的に有効な後見の備えをしておくか現在思いなずんでいるところ。でもまず親がこの法定後見人になるところから始めた。
子どもが成人した後、いきなり親以外の個人後見または法人後見にいくことも考えられますが、いったんは親が法定後見人になる場合が多いでしょうね。

私は、法人後見に非常に関心を持っているのですが、佐藤彰一先生のこの記事を読んで考えさせられました。

・satosholog: 法人は人でナシ ?
http://www.satosho.org/satosholog/2006/07/ha_c012.html

・satosholog: 入所施設の法人後見 1(〜4までのシリーズ記事)
http://www.satosho.org/satosholog/2007/02/1_014a.html
ただこの国の場合、法人後見待望論ないしは法人後見万能論とも思える論調が成年後見推進論者の中に散見されますので、とても心配しているのです。

たしかに私にも「法人後見万能論」的な思い込みがあるように思います…。

カイの権利を守る担い手は誰が一番適任なのか? 個別に、具体的に、自分が動いて見つけて、築いていかなければいけませんね。そろそろ考え始めていきたいです。

障害者の財産管理の危険性

・asahi.com(朝日新聞社):障害者施設利用者の預金2千万円不明 神奈川県警が捜査 - 社会 http://www.asahi.com/national/update/0622/TKY201106220229.html
横浜市のNPO法人が運営する知的障害者のグループホームとケアホームで、複数の利用者の預金が無断で引き出され、少なくとも約2千万円が使途不明に なっていることが神奈川県の調査でわかった。県は法人の管理責任を問い、月内にもグループホームなどの指定を取り消す方針を固めた。同県警は業務上横領容 疑での立件を視野に捜査を始めた。

このような犯罪が繰り返されるたびに思うことだが、「人間は弱い」という冷徹な認識が必要だ。

少額なら、気の迷いが起きることはなくても、数百万、数千万円が目の前にある、自分のものにしてしまってももしかしたら誰にもわからないかもしれない…という状況で、しかも、多額の借金がある、あるいは事業運転資金でどうしても金が要るという動機がプラスされたら──自分を抑えることが至難の業になる。

横領や詐欺をする人間が、特別に性悪なのではない。
「第三者のチェックが入らない条件下で、他人の大金を自由に扱える」状態をつくってはいけないんだ。

銀行は相互チェックを徹底している。
会社でも、出金手続きは別部署が行うことでチェックを入れるのが普通だし、お店でも売上金の複数での確認は基本中の基本。

同一法人の内部手続きによるチェックでは足りない。「第三者(この場合は、後見人でしょう)が明日にもチェックしにくる」という状況によって、犯罪発生を未然に防ぐことができる。

第三者チェックの仕組みは、弱い人間を、犯罪者にしないために必要なんだ。

親としては、できるだけ多くの財産を子どもに残したい。が、そのことがかえって横領などの犯罪の危険性を高めてしまうことにジレンマを感じます。
だから、こういった信託の仕組みがあることを勉強しておきたい。

・特定贈与信託 - 信託協会
http://www.shintaku-kyokai.or.jp/trust/trust01_08_12.html
特定贈与信託は、特別障害者(重度の心身障害者)の生活の安定を図ることを目的に、その親族や篤志家等が、信託銀行等に金銭等の財産を信託するものです。

信託銀行等は信託された財産を管理・運用し、特別障害者の生活費や医療費等にあてるため、信託財産の一部から定期的に金銭により支払います。

「多額の現金を管理させない」という方法での抑止です。

親に、「使命感」とかいう美談に置き換えて

あき母さんの「AUTISTICな日々」経由で、
ハルヤンネさんの書いた

・レイルマン2を売り切ってしまうにあたっての考察1

・レイルマン2を売り切ってしまうにあたっての考察2

を読みました。

圧倒的な共感を覚えた。それは、私の場合、深い深いところにあるかなしみ。

心して読んで。ぜひ。

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ハルヤンネさんが書いた『レイルマン』
だれがなんと言おうと、名著。
表紙絵は、戸部けいこさん♪

Live forever

あまり考えないようにしているが。

カイにとって、「思い出」とか記憶に関するものを残すのは難しいこと。

ぬくもりや愛情は、具体的な物質的なもの。
パパのじょりじょりやママのさらさら。



いのちが終わるとき、からだは消える。
しがみついて心を落ち着けたくても、そこにはもうない。

「思い出」のかたちで残せる親子はいいな。

願うのは、Live forever
可能な限り、長く
君の未来を見通せるまで

志賀利一さん「発達障害児をもつ家族のライフサイクル」

昨日の記事で、反抗期のことを書きました。その話をするなら、志賀利一さんのこの記事を紹介しなければ!

・志賀利一さんの紹介→志賀利一先生がやってくる-虹っ子広場

志賀さんには、2004年1月に愛知のTEACCHプログラム研究会で講演をしていただきました。
私は、お会いする前から──というよりも、志賀さんのホームページのこの記事「発達障害児をもつ家族のライフサイクル」を読んでいたから、ぜひ講演をしていただきたい!と依頼したのでした。

今でも、決して忘れることのない文章です。私は、これに出会って、救われました。

まえがきにこうあります。
発達障害児をもつ家族のライフサイクルについてまとめてみました(5年ぶりの改定です)。なるべく一般化しようと試みましたが、いかがなものでしょうか。家族も専門家も、子どもの年齢の増加とともに、今どういう課題を抱えているか、将来どんな課題が登場するのかが整理できていればとても助かりますね。その雛形のつもりで書きました。コメントならびに批評を入れていただけると幸です。

ここでの基本的なスタンスは、

「スマートにあるいはごく当たり前の子育てをいかにスタートするか」から「スマートにあるいはごく当たり前の子育てをいかに終わりにするか」です。

今回読み返してみて、あの頃の気持ちを思い出すとともに、これまでのところ、私たちも、ここに書かれているライフサイクルを歩んできたなあと実感します。

私が、「救われた」と思ったのは、1歳から7歳の頃に関するこの記述です。
人生の中でもっとも社会適応が難しいのがこの時期です。身体がまだ小さいのが大きな救いになります。

なぜこれが救いなのか? それは、「これ以上悪くなりようがない」と思えたからです。

また、「思春期が大変だ」と先輩たちから聞いていたのですが、志賀さんは、10歳から14歳くらいの時期をこう書いています。
多くの場合、この時期になると家の中では非常に適応がよく、外でも以前のように頻繁にトラブルを繰り返すことはなくなってきます。また、これまでほとんどみられなかった、感情豊な表情や表現を見せて親を喜ばせたり、安堵させる子も少なくありません。限界はありながらも、慣れ親しんだ人とは良好な意思伝達が可能になってくる子も多くなります。

混沌の中にいる2歳児を抱えながら、私は、この記述が希望の光に思えました。

この記述には続きがあります。
一方、少数ではありますが、比較的知的な障害が重い子の中で、これまで際立った問題行動もなく扱いやすかった子が、急に人の指示に拒否したり、攻撃的な行動を見せる場合もあります。扱いやすさゆえに、これまで周囲が、障害特性の正確な理解やそれに合わせた構造化された対応を取ってこなかった場合が多いようです。

そうか、と思い、小さい頃からの対応が大切なんだなと思って今まで育ててきました。

「これまでほとんどみられなかった、感情豊な表情や表現を見せて親を喜ばせたり、安堵させる子も少なくありません。限界はありながらも、慣れ親しんだ人とは良好な意思伝達が可能になってくる子も多くなります。」

うん。そうなんです。
10年前に想像した以上に、(限界はありながらも)カイとの意思伝達はできるようになってきています。

根拠のない、空手形のような「希望」をふりまくことは、罪深いことかもしれません。
しかし、専門家たちが、積み上げてきた蓄積をもとに、将来のライフサイクルについて語ることは本当に貴重で、参考になります。

時には、幼少期の死ぬか生きるかの瀬戸際で、救いになることがあるんです。

ですから、志賀さんのこの文章は、親は必読だと思います。
そして、支援者のみなさんも、ぜひ読んで、親をサポートしていただけたらと願います。

・発達障害児をもつ家族のライフサイクル
http://www009.upp.so-net.ne.jp/machito/othe/ot_ls2k.html

(ファンレターのような、追伸)

志賀さんへ

いつの日か、「発達障害児をもつ家族のライフサイクルVer.3」がアップされることを、気長に待ち続けています!^^

「親の会」について考え始めました

昨夜、Twitterで、大きな親の会と小さな親の会、それぞれの意義と役割について考えてみました。

Togetter - 「大きな親の会で、なぜ「メンバーシップ」が重要か?」←ここにまとめておきました。

今朝、読んだ方から反応もいただいて、「親の会に対しては、みなさん色々な思いをもってらっしゃる」とあらためて認識しました。

私は、ピンポイントで、愛知県自閉症協会のことを考えているのですが、
その思考の過程を共有していくことがもしかしたら何かの役に立つかもしれませんので、
これからもTwitterやブログなどでも書いてみようかな?と思っています。

ひとつだけ、はっきりさせておきます。私は、だれのことも責める気はないです。
「ああしなさい」「こうしなさい」も言いません。
自分が経験して、今考えていることを、できる行動に移していきたいと思っています。個別具体的に。

ご恩送りがしたいんだと思います。先輩達が切り開き、舗装してくれた道に、自分は花を植えたい。

パンの思い出

昔の話。

私よりも、ふたまわり以上年長のかたで、よく、パンをくれる人がいました。
障害者の授産所の移動販売を見かけるたびに、食べ切れないくらいたくさんのパンを買っていたようです。
月に何度も。

会話のはしばしに「もしかして」と思うことがありました。
カイの障害がわかってから、「○○さんのご家族に、障害のあるかたはいますか?」とたずねました。その人に相談ができたら、と思って。

その時の彼の答えは、「自分の家族に、『障害』のある者はいない」というものでした。
ああそうか……、と思って私は話題を切り上げました。



その後しばらくしてから、仕事のイベントに、彼が息子さんを連れて見に来てくれました。
高校を卒業して就職をしたばかりと言っていました。お父さんに対して、「完璧な敬語で、早口に話す」息子さんを見て、私は「……ああ。そうだったのか」と思いました。



──今日は、他のことを書こうと思っていたが、このことを思い出して書いておきたくなった。


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おいしいよ、わっぱんのパン

【アーカイブス】たいへんだけど、Life goes on!

2006年11月2日に書いた記事ですが、昨日の記事の「関連記事」としてzenbackが教えてくれたので読んでみました。すっかり忘れていた記憶が蘇ってきました。

・ 【講演報告】たいへんだけど、Life goes on!
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/50805223.html
10月29日(日)に、就学前の知的障害児通園施設で、お父さん対象にお話をしてきました。
この日は、園の「父兄参観日」で、午前中は、子どもたちの園での様子を見学して、午後に講演を聞く流れでした。
私はこの講演のパートを依頼されました。

この父親向けワークショップの構成は、なかなかよいのでは? 機会のある方はおためしください。

この講演前のためらいと意気込みを書いた記事「Yes」も合わせてどうぞ。

・Yes
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/50794708.html
自分は「明るい未来」の話が知りたかったな。
具体的に我が子がどう成長していくのか知りたかった。
周囲が、社会がどう受け入れてくれるのか、この子に居場所があるんだろうか? それが知りたかった。
希望という「ウソ」の絵空事じゃなく、専門家のする他人事の話じゃなく。

この記事は、コメント欄がすてきです。
みんなありがと〜。

受容には2つある

2月2日の夜に「頑張れって言わないで: こうくんを守れ!!!」の記事を読んで、私はこんなことをツイートしました。
  • 支援者の、「あの親は受容できてる/できてない」の品評が僕はやっばり嫌だな。すごい違和感があって、わかりあえなさを感じてしまう。なんでそんなふうにいえるの?って posted at 23:51:00

  • 私は昔、支援者寄りの存在ととらえられて、「困った、しょうがない親」についての愚痴?を聞かされて、おいっと思った。いつもこんな品評してるのか?だとしたら相手に伝わってるよ絶対。ランク付けになってしまっている。それはプレッシャーになる。 posted at 00:02:03

  • もちろん、親御さんとの対応に真剣に悩んでいて、どう接したらいいかという相談で、受容云々が出てくるのはアプローチを考えるために手がかりにはなる。品評やランク付け、無意識に、受容がゴールみたいにとらえ、いつか誰もがいかなきゃならない段階みたいな認識が、危ない。 posted at 00:10:28


  • 早朝に、@naokonagataさんが、こんなツイートを返事してくださいました。
  • @kaipapa2shin @koumama_はじめまして。フォローありがとうございます。受容には二つあるのではないかと・・・。一つは子供の障害の受容。もう一つは、「障害のある子を授かった自分自身の傷つきの受容」。私は二つめの部分が認められず、自分に頑張ることを強いていました。 posted at 05:07:40

  • この2つの区別は、とても大きな気づきを与えてくれました。

    ・「ありのままのわが子でOK」ということと、
    ・「未だ傷が癒えない自分」は、

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