カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル

〜自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界!〜

日記

のどの渇き

何か嫌なことをされた時、嫌だと声をあげることをためらう。
相手を気遣ったり、
気まずくなるのを恐れて、
自分が我慢すればいい。やり過ごせばいい。
やさしい人ほど、そういうことを繰り返してしまいがち。

違和感の表明は、のどの渇きを伝えることに似ている。
我慢もできる。

けど、我慢しすぎるとカラカラに渇いて、声が出せなくなる。

年末に「生産性」と「性教育」について考えた

おはようございます。カイパパです。今日も来てくれてありがとうございます。
お休みの後、仕事が予想どおりたまっていたり、進んでいたりしていて、浦島太郎とまではいきませんが、浦島次郎ぐらいの状態で二日間。まとまった記事を書くエネルギーが足りません。
なので、軽く思いつくまま書いてみます。

わたしは、FeedlyというRSSリーダーで、お気に入りのブログを読んでいます。iPadで読むのが一番はかどります。
年末は、各ブログで「今年の記事ベスト10」とか「今年読んだおすすめ本10冊」などセルフまとめ記事が多くて、お得です。
今回も印象に残る記事や購入本に出会えました(また積ん読本が増えてしまった^^;)。

印象に残った記事
・アーロン・シュワルツの「生産性について」を読み返す
http://lifehacking.jp/2013/01/aaron-swartz-productivity/

若くして自死してしまった天才ハッカーの、等身大のライフハックがとてもよかった。人は、死に向かって一直線に飛ぶ矢のような存在だ。限られた生命の時間をどう大切に使っていくか? そのためのエネルギーをどうセーブして使っていくか? を想った。

購入本
・木全 和巳「児童福祉施設で生活する“しょうがい”のある子どもたちと“性”教育支援実践の課題」
→Amazonリンク



紹介記事はこちら。
・キリンが逆立ちしたピアス:今年の十冊
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20131230/1388398260

高価な本なので、購入をためらっていましたが、キリンのピアスでお勧めされていたのをみて購入。他人に聞きづらい、自然には覚えてもらえない性のことを家庭で教えるためのヒントがあれば…と願っています。
性教育について、他にお勧め本があればぜひ教えてほしいです。

本当にいろいろなひとがいる〜Just the Way We Are

今年も12月になり、この一年間をふりかえってみたりしたくなりました。
先週やっと、プレッシャーがずっとかかってきたプロジェクトが終わったこともあって、とても心が軽くなった。

そのせいだけじゃないけど、
2013年は良い年だった。
悪いことは何も起こらなかった。
そう思う。

「良かった探し」的な思考パターンは身につかず、楽観的ではあるが「アラが目につく」タチの僕が、こう思えるようになったのは、今年、今までにもましていろいろな人たちと出会ったからだ。

直接は一度しか会っていないが、Facebookでつながり、なんだかんだと毎日言葉をかわした人もいる。
知らなかった、聴いたことがなかった心の中の思いを聴かせてもらったりもした。
想像もしなかった経験をしてきたひとや、自分とはかけ離れた考え方や感じ方をするひともいた。おどろくほど"怠惰"でかつ動じないひととも出会った。

外国とのやりとりも多かった。
文化の違いが、クリティカルに仕事に跳ね返るから、肝を冷やすことや怒りに震えることもあった。
だが最終的にはつじつま合わせて一緒に握手して笑ったりした。クソーと思いながら(イライラ焦っていたおれのほうが損している…)と悟ったり。日本の仕事のやり方をそのまま代弁するよりも、自分が「調整弁」となって、架け橋するのがあるべき姿だと思うようになった。やっと。

人間と言っても、けっこうな幅がある。
若い頃は気がつかないが、生まれた街、通った学校、働いている職場、そこで出会えるひとというのは「既にセレクトされている」のだということ。「外」にいるひとたちと出会う機会は本当に少ない。自分から出ていかなければ、出会えない。
出会ったからいいことがあるかというと、不愉快な思いや嫌な気分になることのほうが多い。経験上そうだ。理解し合えない違和は不快なものだ。時間がない生活の中で、わざわざ不愉快な思いをするかもしれない「外」との出会いに時間を使う余裕なんかない。感情が動くことは、ものすごくエネルギーが要る。自分が「変わってしまう危険」だってある。
そのことを、無意識に知っているから、「外」に出会いや経験が待っていると知っていても(知っているからこそ)、それが良いものかどうかわからないし、良いものだとしても「エネルギーを消耗する」と感じて、出かけることを躊躇する。僕はそうだったんだな。

「みんなちがって、みんないい」って、道徳的表明としてはケチのつけようがないと思っているけど、感覚的には、
「みんなちがって、みんなイヤ」がフツウじゃない?と思ってもいた。

僕の場合は、実感として「本当にいろいろなひとがいる」と思えた時に、驚きとあきれと同時に「自由」を感じた。そして、「それはいいことだ」と心から思った。
なぜかというと、出会ったひとたちがみんな生きていたからだ。すごく違っているけど、みんな生きている。スタイルや考え方や反応やルールが違っているけど。何だ、生きているじゃんと思った。
僕が、これが正しい、こうじゃなきゃと思った範囲から外れていても、みんな生きている。その在り方を僕がいいと思うかよくないと思うかは、全く関係なく、それぞれに生きている。

なんだこれ?

と思った。
それが、一人や二人じゃなく、今年は、これまでになく「外」にいるひとたちと出会えたんだ。
その時は気がつかなかったが。「この人が」というのではなく「幅」が少しずつ僕を変えてくれた。どれだけ狭いセレクションされた範囲で、自分は暮らしてきたんだろう?と思う。
その範囲で、これからも生きていくこともできたかもしれないけど、たぶん必然に導かれた──というよりローリングストーンに巻き込まれてしまった小さなみみずみたいな感じで、今のこういう心持ちにいたってしまった。

「みんなちがって、みんなヘン」

ヘンなのは、よくも悪くもない。好きとか嫌い以前に、「違うんだ!」ってこと。いろんなかたちで生きている。それが自由。

すごくすがすがしい。

出来事がどうとかよりも、12月に、こういうことを書き綴る心持ちにあることが2013年が良い年だった証だ。

問いかけてもらわないと言葉は出てこない

木曜日に、仲間たちと会議をした。会議の内容は、これからの活動方針と具体的なイベントについてだ。イベントについては、今後アナウンスをすることになるが、まず「やるか/やらないか」について話し合うことが必要だった。

わたしは、そのイベントをやることについてためらいを感じていた。だから、この会議を招集してもらった。にもかかわらず、仕事が長引いて2時間も会議に遅刻をしてしまった。

仕事の緊張を引きずったまま、(会議が進むにつれ、情報と感情の共有がなされ空気が醸成されている)会議に途中参加するときのアウェイ感といったら…。しかも今回は、ネガティブなスタンスで、難しい決断にのぞむのだ。

口は開いて言葉を発するのだが、わたしが意図したよりも、よりシニカルで後ろ向きに響いてしまう。言葉の「トーン」それ自体で傷つく人が出てしまわないかと不安になる。自然と口が重くなった。

緊張感が高まる中。
わたしたちのメンバーにはプロのファシリテーターが複数いる。ファシリテーションを学んでいる人たちはもっと多い。
彼女たちが迷いながら問いかけてくる。それに答えてみる。(ちがうな)と思う。
わたしも問いかけ直してみる。答えが返ってくる。「これは、こういうことか?」と聞き直す。彼女も(ちがうな)という表情をする。
問いかけと答えのやりとりを繰り返すうちに、(そうだ)と思う「言葉」が見つかる。(これが言いたかった)という「言葉」だ。

「言いたかった言葉」「見つけたかった視点」が出た瞬間から、会議の色が変わる。

暗いモノトーンから、淡いパステルへ。そして、強い緑に。芽吹いていく。

この日わたしが見つけたキーワードは「距離感」だった。
何かにコミットする/しないを決める前に、学ぶ/避ける/無視する/攻撃する/etcの態度を選ばなければならないその時に、「まだ」「選べない」という地点がある。「そこが自分のいる地点だ」と認識しなければいけない。その地点から、対象とする何かとの「距離」を測り、違和感や疑問の原因を分析していくこと。
それが、必要だった。

見つけてしまえば「当たり前のようなこと」なのだが、ひとりではわからなかった。言葉を発することも、重くて、できなかった。

言葉の力を信じている。

でも、問いかけてもらわないと言葉は出てこない。そういう時がある。

他人がいてよかった。
苦しみもかなしみも他人から生じるとしても、他人なしでは自分の気持ちさえわからないから。
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ありがとう。

さて

昨夜は、じぶんでは見つけられないような民家をカフェにしたお店に行った。マスターがフェアトレードで売ってるニット帽をかぶっている。畳の上にあぐらをかいて座る。食べ物メニューは一品のみ。飲み物はチャイとかいろいろ。器は一点物のこだわりある手焼き。有機農法の野菜と卵美味しかった。
他のお客さんはみんなエコな優しい雰囲気の人ばかり。スーツが場違いだった。

「大量生産大量消費の時代が終わったのよ」と会話が耳に飛び込んできた。いかにもな会話なんだけど、若い女性二人組がその話をしているのはめずらしかった。

大量生産大量消費のおかげで、あまり働かなくても食べていける今が維持されていて。都会で古民家カフェが花咲いてるんじゃないの。と。スーツな男は思ったりした。

けど、大量生産大量消費「だけ」してれば満足な時代は終わったのかも。

さて。



【追記】
皮肉な感じにならないように書いたのだけど、皮肉な感じになってる。
スーツな男は、うらやましかった。
なんか、しあわせそうだったんだもの、みんな。
スーツは浮いていた。

スーツ着ている人がしあわせそうに見えることは少ない気がしてきた。

地下鉄来ない。

語る資格

「わたしは知っている。なぜなら経験したからだ。あなたは知らない」までは、事実だとしても、そこから「だから、あなたにはそのことについて発言する資格はない」と言ってしまうと断絶が生まれる。

実際に経験できたことは、それぞれわずかでも、一人ひとりが得た経験を、知識にして、それをシェアしてここまで人類はやってきた。物の言い方が下手くそで反感を買ったり、伝え方が未熟だとしても。
「そのことを話す資格がない」という断定は、対話を抹殺するわけで、どうかと思う。

「経験していないあなたに、そのことを語る資格はない」と言った人のその時の心情を想像してみる。きっと、許せないと思う何かがあったのだろう。「知ったかぶりの断定」が先の発言者からあったのかもしれない。無礼や無神経も。

自分にも、そう言ってしまった経験がある。
その時わたしは腹を立てていた。もうこの相手とは対話したくないと思った。だから、対話をシャットアウトするために放った「攻撃の言葉」だった。そして、この「経験」という攻撃には効果がある。未経験者の言葉を奪う効果が。

だが、攻撃した者(わたし)も、冷静になればわかるはずだ。自分が「したという経験」も、ごく部分的なわずかなものだということ。それだけで、その事柄の全てを語れるのかどうなのか。本当はわからない。同じように、限定的な範囲での経験でしかない。

経験者だろうがそうでなかろうが、「わかったようなことを言うな!」という批判は、どちらからでも言うことができる。
そして、その発言をした人は、傷ついている。「傷つけられた」と思っている。

理解の架け橋を落とすのは簡単だ。というより、必ず崩れ落ちていく橋を、日々ことばを尽くして直し続ける行為だけが、橋を保つのだろう。

静音ヘッドホン

年に数回、飛行機に乗る。飛行機のストレスは騒音の影響が大きい。ここ数年はノイズキャンセリング機能のついたイヤホンを使ってる。
持っているのは、5000円くらいのやつ。ノイズを減らす機能は悪くはないけど、2年前に時間がなくてエイデンで急いで買ったものなので、音楽の音質は今ひとつであった。

来月から行く出張に備えて、ヘッドホンを新調した。迷ったが、レビューやブランドを検討した末、BOSEのQuiet Comfortにした。「30日間無料返品保証」が決め手。やっぱり実際に使ってみないと本当にいいかわからない。高い買い物だしね。
まだ、3日間しか使ってないけど、いい。
ノイズキャンセラーとして極めて優秀なのは評判どおり。そして、音楽も、いつも使っているAppleのカナルタイプのイヤホン(これも、けっこういいやつ)とは違う聴こえ方で楽しい(Appleのイヤホンにも特性があってナカナカだと再評価できた)。

だが、BOSEも「完璧」や「究極」ではない。「あともう少しこう響いたらいいのに…」とかえって欲が出て、イコライザーでいじってみたり、音量をあげてみたりして遊んでる。

で、面白いなと思った。「こうじゃない」と思えるのは、「こうだ」と思う音が自分にはあるからだ。
その「音」を僕はどこで得たのか? 基準はどこで見つけたのか。
ライブだと思った。
2年前からライブにコツコツ行くようになった。そこで毎回思う、音楽は「全身」で体感するものだ。「耳」だけで普段聴いている体験は、音楽としては一部だということ。
音は空気を揺らし、物理的に届く。音圧は全身を叩き、押し、慰撫する。やさしい声は頬をなでる手のひらのように。

デジタルの音を再生して、イヤホンで聴く体験は、音楽体験のごく一部を切りとっている。原理的に。耳だけを使いながら、どれだけあの生の体験を再現できるか、五感に蘇らせるか、チャレンジなんだよな。

日常の音楽体験は、録音とイヤホンと僕の想像力がつくりあげるミクスチャーだよね。
全く解像度の低い、たとえばiPhoneのスピーカーで聴く時も。音質が悪いから楽しめないかといえばそんなことはない。
一緒に聴く人、場のライブ感。鳴るスピーカー。
地下鉄の中でのヘッドホン。ひとりだけBGMつきで血湧き肉躍ってるのもいい。

僕は音楽が好きだ。人が好きだ。この世界が好きだ。

イブの手当て

今はそうでもないけど、頭痛がひどかった頃、薬に頼っていた。
「頭痛、生理痛にイブ」イブは、EVEと書くから、女性という意味だけど。
僕は「慰撫」だと思っていた。

慰撫。

昔、「手当て」の話を教えてもらった。仙台のあるお母さんに。
治療する意味の「手当て」は、本当に、手を当てることだった。痛む所に手を当てることが、もっともプリミティブな治療だった。そして、「手当て」には効果がある。
自分で、痛むところをさすってもいいけど、他人が「手当て」してくれると、痛みが本当にやわらぐ。僕にも経験がある。
これってなんだろう?

痛みを黙ってこらえているのもいじらしい。
でも、「痛い」と口に出して、誰かが心配して、背中をさすってくれたら、それだけで治る痛みもあるよね。

…おれ、こんなところで、背中さすって何やってんだろう? 泣いているコイツの、役にぜんぜん立っていない(泣)

そう思うやさしい人。あなたは、役に立ってますから!

手当てをされて、余計泣けてしまうのは、涙を流すのを手伝ってくれたから。

慰撫の手は、実は、誰もが持っている。自分を、じゃなく、他人を「手当て」するだけでいい。



【カウントダウン】

1000記事まで、あと3! 
(わーーーーーぉ)

10年ひと昔×4

「大人になったな」と実感したのは、10年前のことが自分の経験として語れるようになった時だったと思う。
20歳になって、10歳の頃(から)の記憶がはっきりと残っていることに気づき、「10年ひと昔」という決まり文句が、自分にもわかると実感した。

そこからの時間の流れは加速し、子どもの頃と比べたら、光速並みに過ぎていった。

ひと昔ふた昔なんて余裕だ。「ミムカシ」という言葉は無いが、もうそこまでいくと、「歴史」の範疇だからかな。

今日は、居住福祉ネットワーク東海の勉強会に行って来た。テーマは、高蔵寺ニュータウン再生だった。40数年前にできた高蔵寺ニュータウンは、同じ世代(当時は子育て世代)が大量に入居し、同じだけ歳をとり、高齢世帯となった。
ニュータウンだから、出身地はバラバラで、子育てという共通項がなくなってしまってからは、バラバラに戻っていった。
40年前は、可能性に満ち溢れ、輝くような未来がすぐそこに見えていたのに。

勉強会では、意見交換の中で、一番印象に残ったのは、「コミュニティが形成されなかった」という言葉だった。65歳まで仕事をして、引退したらそこには何もなかった。

ニュータウン誕生から40年間。
そこから見えた実験結果は、「コミュニティは自然発生しない」という法則じゃないだろうか。

ニュータウンだから、極端なかたちで、現れているけれど、都会に住んでいても同じだと思った。
40年間同じところに住んでいようが、自分から働きかけていかなければ、コミュニティはできない。コミュニティに属していなくても、当分、学校や会社が守ってくれる間はまだいい。だけど、そういったよりどころがなくなり、地域に帰っていった時、助けてくれる人が誰もいない現実が、誰の身にも起きうる。

社会に帰属して、貢献して、がんばってきた最後のステージで、なにこれ? いきなり「孤立」?
「ひと昔」がようやくわかったぐらいの頃には、想像もしなかった未来だ。

コミュニティについて、もう少し考えてみたい。


【カウントダウン】
 いよいよ10カウントです。

 1,000記事達成まで、あと10!

がんばった経験

ぼくにとって、一番強烈だった経験は、つぼみの会父親部キックオフから『ぼくらの発達障害者支援法』だ。

半年くらいまえに書いた記事(「フロー」「フローのあとに」では、この凄い経験をふりかえってみようとした。

が、その時のことが思い出されて、続きが未だに書けていない。未完のまま。

「もう一度やれ」と言われても絶対にできない。というより、「自分がやった」とは思えない。強烈な体験は、それが成功であれ失敗であれ、心に傷を残す…

体験が、ぼくを「変形」させて、このかたちになった。
元から持っていたもの、ひとからもらったもの、出会い、体験、失ったもの、
全てが、くっついてはがれて削れてこすれてガタガタになって盛り上がったりえぐれたりでこぼこなぼくをつくっている。

経験が「回路」をつくった。

そのスイッチが入った時、ほぼ自働的にがんばっている。

いやではない。
これが、自分だから。
つくっている最中は、辛くて辛くて辛くて……
でも、できあがったものは本当に素晴らしくて、

「とても自分ごときがつくったものとは思えない」

じぶんを見くびっていたじぶんを見返して、そう思いたい。

(ほんとに?)



【カウントダウン】
 1,000記事達成まで、あと11!

「頑張るのがよくない理由」


昨日書いた記事に関連して、最近読んでとても腑に落ちたこの記事を紹介します。

・nyalog: 頑張るのがよくない理由
http://nyalog.blogspot.jp/2013/06/hard-work.html
マラソンのスタート直後に「頑張って」走ったらどうなるのかというのは想像に難しくない。トータルでのタイムはきっと劇的に悪くなるだろう。エネルギーの前借りは借金で、借金には利息が付くのだ。

このマラソンの話がわかりやすい。
無理して頑張ることが「借金」で、利子がつくから返済が追いつかなくなるという例えが秀逸です。

「多忙は怠惰の隠れみの」というのは、糸井重里さんから教えてもらった格言だけど、忙しいときによく思い出す。「頑張る」ことで「頭を使って考える」ことから逃げてしまっていないか?

私は無理ができない人間です。
瞬間的に爆発的なエネルギーの放出を得意とする短距離ランナー。
限界まで行ったら、エネルギーがカラになるので、そこからはまた貯める日々。そのくり返しです。

昔はそういう自分が歯痒かったけど、今は「そういうカタチの人間なんだ。そういうカタチの使い所で使えばいいんだ」と思うようになりました。万能ではありませんが、場面によっては、スゴく(?)役立ちます。
信じてくれた人を裏切らないように、あらかじめ、期限や範囲を決めて、やれることを示して頑張る。そう心がけています。

無理はせず、がんばるよ!


──この話題で、この過去記事を引かないわけにはいかないですね。

・「がんばれ」って言わないで 「がんばらないで」と言わないで
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/742875.html

10年前のこの頃からは、私も親であることに慣れて、強くなっています。
何よりも、カイの成長が大きいのですが。

がんばらなくてもいい日が、いつか来るといい。

でもたぶん。楽しくってがんばっちゃう、そういう日々がいいな。

がんばらなきゃいけないときに、がんばる人を支えるもの


カイパパです。忙しいです。

「がんばらなきゃいけないときに、がんばる人を支えるものは何かな?」って考えていました。

まずは、
「がんばらなきゃいけない辛さ、しんどさをわかってあげること」ですね…きっと。

できることなら、逃げたい、休みたい。でも、「今はがんばろう」と思ってがんばっているときには、
そのタスクを分担はできなくても。励ましたり、気持ちを思いやったり、言葉がけしかできなくても、それをしてもらうことが、がんばるひとのささえになるんだよね。

「やって当たり前、と思われているんじゃないか?」という感覚が一番つらい。被害妄想的に落ち込んでしまう。

「やりたくないなら、やらなきゃいいよ!」とか
「いいよ、じゃあ、他の人がやるから」とかではなくて。

がんばろうとしている人にはがんばる機会を! そして、ささえを!

心さまよう

この土日心が定まらなくて、漂ってる感じだった。全然集中力がなくて、何もタスクをやりたくなかった。実際ほぼ全くできなかった。

「何が」というわけではなくても、心のエネルギーが落ちている。弱っている。

心配事や悩みがあると、考えていないつもりでもそのことを考え続けちゃうんだね。そのせいで、ここにいるのに心が半分どこかをさまよってる。

でも、もう大人だから、「これはこれでいい」と思うことにする。

そういう時、心を自由にさまよわせても、大丈夫なんだと。僕の心は戻ってくる。それくらいの経験は積んで来たよね。

だから大丈夫。

おやすみなさい。

ざわざわする

なぜか心がざわざわする日というのあるもので、
つらいことや、かなしい時が頭に浮かんだり消えたり。

先週岩手を旅行しました。被災地もまわりました。とても親切な人たちにお世話をしていただいて、本当に楽しくすてきな旅でした。岩手が大好きになりました。

帰ってきてから、「落ち込み」がやって来ました。体調のすぐれない一週間でした。

心を痛めつけるのは、外にあるものではなくて、自分が「中にいれる」と決めたもの、あるいは「忍びいってしまった」ものなんでしょう。

ブルー

年の瀬このいそがしい時に

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ひざの上で、しどけなく寝ているとらチャンを起こしたら、


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「なに? もう出番??」
「いやまだ。──あと10年後」


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「……」


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殴られた。


よいお年を〜!

本日、衆議院選挙

後で振りかえることができるようにメモ。

自民党が大勝。自民党総裁は、安倍晋三氏。親学推進議員連盟会長。

・自民党政権公約(PDF)
http://jimin.ncss.nifty.com/pdf/seisaku_ichiban24.pdf

全議席数確定:自民294、民主57、維新54、公明31、みんな18、未来9、共産8、社民2、大地1、国民1、無所属5

次の参議院選挙は、2013年7月。

フローのあとに

 ようやくことばが浮き上がってきたので書いてみる。

 前回の記事「フロー」の続き。

「フロー状態」に入ると、能力の限界を超えたパフォーマンスができてしまう。フロー状態の瞬間はひとつひとつのステップは意識していない。その特徴は、あとからふりかえって「自分がどうやったのかわからない」こと。「なんでできたのだろう?」「もう一度やれと言われてもできない」

 フロー状態についての解説はある。「フロー状態に入るには?」という方法論は大きなテーマだ。そんなすごいパフォーマンスをいつでも思いどおりに出せたら、と思うもんね。

 しかし「フローのあと」について、解説ではほとんど語られることがないが、経験から学んだ法則がある。

──フロー状態のあとには、「落ち込み」がついてくるということ。

 その理由について、考えてきたことを書く。

(1)エネルギーの枯渇
 フロー状態では限界を超えた力が出る。そこで使いきってしまったエネルギーを(フローのときは無尽蔵に思えたのだが)再チャージするためには時間がかかる。
 疲れた、と表現されるけれど、エンジンをかけようとしても空回りして動けない「ガス欠」のような感覚だ。車体もエンジンも異常はないが、動かない。だから、動かない(動けない)ことのフラストレーションはすごい。

(2)フロー状態への渇望
 フロー状態による刺激は強烈だ。非日常的な輝きにあふれ、次から次に襲いかかる課題をクリアしていく緊張と達成感の連続。苦しみが楽しみであり、快感となる。「もっと」「もっと」と強いものを求める依存性がある。そして、フロー状態が終わり、日常に戻っても、その刺激が得られないことが渇望を呼ぶ。

(3)「あの時の自分に追いつけない」自己嫌悪
 フロー状態の時の自分は能力の限界をさらに超えた結果を出し続けることができた。称賛もされ、自己評価が高まる。「フロー状態の自分」が「あるべき姿」だと思うようになる。
 ところが、フローは終わる。
「できる自分」の残像(イメージ)が残っているから、「できるはず」と思ってやってみる。けれど、それは失敗に終わる。「あれ、どうやったんだっけ?」
 自分がやったことなんだから、同じことができないわけがない、と思う。そして、自己模倣を始める。できあがった「自分っぽい模造品」を眺める最悪…。
「フロー状態の自分」と比べて、ダメになってしまったと思い込む。

(1)(2)(3)の(無自覚な)悪あがきの末にたどり着く境地は、「フロー状態」から顔を背けるようになる。「あの時の自分」がまぶしすぎて、今がダークすぎて、直視できない。今の自分がダメなんじゃなくて、「あの時の自分」「あの時の出来事」じたいを認められなくなる(認めると今が情けなくて、惨めになるから)。

 それが、凡人がフローの後に経験する「落ち込み」でした。

 一般化できるのかわからないけれど、「こういうものなんだ」、「フローのあとにはこれがついてくるんだ」、と知っていたらよかったと思っています。

フロー

昔のことを時々思い出す。

今年になって、草の根ささえあいプロジェクト関係のイベントに顔を出すようになって、いろんな分野の方たちや若い親たちに会うようになった。大部分は「カイパパ?」という反応だけれど、たまにカイパパ通信を知っている人もいて、昔よく読んでいましたと声をかけてもらったことも。

このブログは来年10年目になる。
ブログが上陸して、かなり早い段階で始めた。草創期の他のブログも含めての熱気とか仲間意識みたいなものは特別な思い出だ。その頃のブログの本当に多くは更新を停止してしまった。閉じてしまったブログも多い。

カイパパ通信も、長い冬眠期間があった。

はじまりから発達障害者支援法成立そして名古屋市発達障害者支援センター開設、『ぼくらの発達障害者支援法』出版までの約2年半が、このブログがもっとも発光していた期間だった。

たまたまその場に居合わせたから、そのタイミングで、自分にしかできないことだけをやろうと思って必死でがんばっていた。「もう一度やれ」と言われてもできない。というか、「いったいどうやったの?」と自分でもあとになって思うくらい。それが、人生最大のフロー体験だったのだと後になって気がついた。
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この写真は2006年4月の出版記念会でのショット。

【この記事の続き】
・フローのあとに
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52444016.html

ちいさい秋みつけた

最近思っていること。

耳にすることば、目にすること、が「厳しい」トーンで流れていっている気がします。
罵倒するようなことばが当たり前のように飛び交い、それは、右も左も同じようで。
「やさしさ」を守ろうとしている人たちも、余裕がなくなって、焦燥感から「厳しい」ことばで言い返している。

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友だちがFacebookで、「どんぐりみがき」と書き込んでいて。わあ、秋だなあと思っていたら。

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その数時間後に、こんなかわいい作品が!

何が言いたいのかというと、ぼくは、とってもしあわせな気持ちになったのです。
たぶん友だちはどんぐりをひろって、どんぐりをみがいて、どんぐりに色をぬって、その間ぢゅう、にこにこしていたんじゃないかな? そして、こうやって写真を紹介してくれて、観たぼくたちもしあわせにしてくれた。

世界がどう変わろうとも、季節はめぐって、ひとは生き死に。呼吸をするように、身のまわりの景色をとりこんでいく。

「厳しい」ことに立ち向かうとき、刃物じゃなく、どんぐりを手にしたい。

弱いことは、わるいことじゃない。強い人も、もっと強い人には弱かったりする。みんなどんぐり。

ちいさい秋みつけた。

今日も良いお天気で

これ何かわかります?

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ヒント

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答え

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けっこう想像力への挑戦ってかんじ。

朝日がまぶしいぜ

あたたかくなりましたね!

昨日は朝日がまぶしかったです。
空に「紗」がかかって見える気がしましたが、黄砂だったのかな?

いってきます。


・気象庁:黄砂情報
http://www.jma.go.jp/jp/kosa/

休んでないけど

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生は複雑だ。未来はわからない。自分の可能性もこの歳になっても発見がある。

経験をつんで限界がわかったと悟った気になって、それ以上アクセル踏みこまなくなっていた人が、間違って踏んでみたら物凄いパワーで加速しちゃったり。みたいな。それで壁に激突!といった惨事もあるから注意なんだけどさ。

自分で、自分を見限るな。

日記:河原で考えた

近所の河原を散歩しました。

初めはふつうにウォーキングしていたのですが、土の上もいいかなと思い、歩いてみました。
歩きにくかったです。
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こんな感じ

舗装された道と比較すると、だいたい5倍くらい時間がかかりました。当たり前といえば当たり前なのですが、なんでかな?と考えてみました。

目線が下向きになっている、と気づきました。

でこぼこしているので足がぐらぐらします。何があるかわからないので用心深く進む必要があります。それが、「目線が下向きになる」原因です。

走る時、目線は遠くを見ています。舗装された道は、足元をいちいち確認しなくても、かなり前の方に視点をおいて飛ばすことができます。逆に、足元ばかりみていると、スピードは出ません。

「道なき道」を行くときは、危険がどこに隠れているかわからないので、慎重に足元を見て歩かないといけません。だから、ゆっくりになる。遠くばかり見ているとケガをします。「もっと速く!」と思っても、あせらなくていい。

難しい道を進むとき、「近目」になりすぎるわるさもありますね。そういう時は、一度立ち止まればいいんですよね。立ち止まれば危険なく、先を見通すことができます。
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たこあげしているおじいさんと孫がいたり


歩きにくいとはいっても、草刈りはしてありました。
なんの手入れもしていない生い茂ったところを進むには、もっと時間とエネルギーが要ります。
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これは散歩ではむり


舗装された道も、昔は、こんなやあんなで。最初に歩くひとがいて、続くひとがいて、今では、早いスピードで大勢を運べるようになったわけです。

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あせらずいこうと思いました

サンタクロースの正体

カイが児童デイサービスで作ってきたサンタクロースです。
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カオが可愛い

上手にできているなあと感心していると、妻が、カイくんにこれなにかきいてみてというので、

「これ、なあに?」ときいてみたら、





「…ぎゅぅにゅうぱっく」とカイ。

た、正しい!

(牛乳パックに紙を貼って作られています^^)

imagine

glee第11話で、ろう学校の生徒がうたうimagineが、すっごくよかった。

glee imagine (YouTube)で見れます。(Thanks to habaneroさん!)

今日が終わる直前に、ここで泣かされるとは。

アレンジも素晴らしかった!

日記:電波時計

ある時、「電波ソーラー時計は、時刻合わせも、電池交換もいらない。カンペキな時計だ」と自慢している人がいて、素直に、「なるほど一本持っているといいかも」と思っていた。

1年ほど前に、気に入ったものを見つけて買った。
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ところが、うちは電波の入りが悪いらしくて、電波の受信に毎回失敗している。電波がなければ普通のクォーツなので、だんだんと時刻がずれていく(今見たら、1分進んでいる)。
しかも、リューズがないので時刻合わせができない。ありゃりゃという感じなのだが、デザインが気に入っているし、どうしても合わせなきゃという時には、どこか電波の受信が出来る場所に行って手動受信をすればいいだけの話だから、まあいいやと思っている。

そういえば。

昔、友人が、ソーラー時計を買って「……俺が死んでもこの時計は動き続けているのかな」と暗い目をして言っていたっけ。

だいじょうぶなのに。
ソーラーは光を当てなきゃ止まるし。電波時計も電波が来なきゃズレっぱなし。

きみがいなきゃダメなんだ。

彼は勉強家

今日は、振替休暇をとって午後お休み。
週1回のカイの個別療育を見学に行った。

診断がついてから、ご縁に導かれてこの教室に出会い、もう10年になる。
当時のカイはカオスの中に生きていた。パニックや奇声で苦しみと混乱を訴えていた。
シンプルに構造化されたこの教室でだけは、集中力を発揮して、少しずつ「こんなこともできるんだ」という成長を積み重ねてきた。

今日は、10個の自立課題と5個の作業課題をやった。
一つひとつの課題はカゴに入れられ、番号を振った棚に入れられた。課題はカイ自身が左側の棚から出し、作業をして、終わったら右側の棚にしまう。おなじみのワークシステムだ。

私が見学するのは久し振りだった。今回もまた「こんなこともできるようになったんだ!」とうれしい驚きの連続だった。
特に感心したのが、紙を四つ折りにして封筒に入れて封をする作業をした時。紙が残り2枚になった時に、封筒を示して、封筒が1枚足りないことを教えたこと。見通しを持って作業をしていること、不足をこちらに伝えてくれたこと、が素晴らしいと思った。

S1080002
封筒を指さして、足りないことを伝えている

10年の積み重ねがあってのことだ。
感謝の気持ちが熱いものになってあふれてしまいそうで、見送ってくれた先生の顔が直視できなかった。

療育の後は、音楽の時間。こちらは初めての見学。
オートハープやハンドベル(押して音がなるタイプ)を、シールで色分けされたボタンを、先生の指で示されたタイミングで演奏をしていた。「演奏」だよ!!
間違えたときは、自分でもわかるようで、やり直して。きちんと曲になっていた。カイが、演奏、している!!

S1080001
ハンドベル。シールの楽譜にあわせて演奏

ピアノも、右手と左手を使って、3つの音ずつ順番に弾く練習をしていた。ぎこちなく、かたい音だけれど、いつか一人で曲を弾けるようになるかも?なんて、期待をもたせてくれた。

最後の、「グッバイ、かいくん♪」という先生の歌を聴いた瞬間、涙がこみあげてきてしまった。
この子がこんなに興味を持って、音楽を楽しんで取り組めるようにしてくださった努力と愛情に、「衝撃」を受けていた。

私は、なーんにもできていないダメおやじだが、何よりもダメなのは、わが子のもっている能力(ちから)をみくびっていたことだと今日は思い知った。

ここにいる先生がたは、子どもの「育ちの芽」を、「兆し」を、どんな細かいことでも見逃すまいとして限られた時間の中で集中して探している。それは、カイという人間を敬して、みくびらないという信念からだ。

私はいつの間にか「障害児の親」に慣れて、カイをみくびっていなかったか? 今日はそのことに気づかされた。

別れ際に、先生がかけてくださったことばを記しておく。

「彼は勉強家だから、わたしたちもやりがいがあります」

祝福のことばです。

日記

親指の関節を痛めて、1か月くらいテニスができなかった。
せっかく、いいぐあいに伸びてきたかなあ、楽しくなってきたなあというときに…

1か月治らなかったから、もう治らないかも。とほほ。。。とか思いつつ、痛みはあるけど、サポーターを付けて再開をして1週間が経った。どういうわけか痛みが引いてきた。

強く押すと、まだ痛みはあるが、あきらかによくなっている。

左手の指とくらべると、関節が太くなった。

またラケットを張り替えた。
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