カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル

〜自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界!〜

【おすすめ】大震災 自閉っこ家族のサバイバル

大震災 自閉っこ家族のサバイバル
大震災 自閉っこ家族のサバイバル
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読みました。

手元に持ってはいたのですが、なかなか開くことができず置いていました。

ところが、ここ数日のうちに、2人の方(親の立場ではない)から
「大地震の本読みましたか? あれは素晴らしいです」と声をかけられ
「自分は、震災の凄まじさをこの本でようやく知りました」
「これは、自閉症の関係者だけが読むのはもったいないですね」とまで言われ、
読まねば!と決心しました。おおげさですが、震災の、しかも自閉っこ家族の実話を読むことは、私にとっては勇気のいることでした。

ちょうど、おかざき福祉まつりに行こうと決め、こうままさんたちのブースでは『大震災 自閉っこ家族のサバイバル』のチラシを置いて宣伝をすると言っています。よしっ、これはめぐりあわせだ。行き帰りの道中に読むのだ!

本の構成は、
前半の2章は、仙台市内で被災した高橋みかわさんにフォーカスしています。
「第1章 ライフラインのとまった街で」は、みかわさん家族のサバイバルについて。
「第2章 ブログとメールでつながりあった」は、みかわさんが震災後に発信を続け仲間たちを支えた「みかわ屋通信」について。

みかわさんの論理的な支援の組み立てなおし方(トイレ、お風呂がダメ。こだわりのある子が混乱しないようにするには、、、とすぐに代替案を具体的に準備する)は、驚異でした。

高橋みかわさんは、実は『重い自閉症のサポートブック』の著者です。「模倣をしない/できない」自閉症の子どもの子育てに長年取り組んできて、誰よりも、本人の特性を観察し毎日支援を組み立て続けてきたからこそ、緊急時でも対応ができたのですね。

そして、自分や家族のことだけではなく、周りのひとたちに対しても惜しみなく注ぐ「情け」(ここはあえて「情け」という言葉を使いたい)の豊かさ。
こういう人が強くて、本当の優しさをもつ人なんだなと。本から伝わってくるものがありました。
電車で読んでいて、なんども熱いものがこみ上げてきて、ぐっと奥歯をかみしめて耐えました。(たぶん前に座っていた女子高生はこわかったかも…)

後半は、石巻編。

4つの家族の話が語られます。被害が甚大だった石巻では、まず1日1日を乗り切ることで必死です。
情報が不足していて、広範囲で未曾有の被害が起きていることを知らない状態で、何が起こったのかわからなくても、自閉の子を見つけ出し、引き取って、家族で(母親が)なんとかサバイバルする。

みかわさんが書いています。
有事の時、お父さんは社会というコミュニティーに取られる。でも、そうだからこそ社会の機能が回復し、まわり始め、日常に向かって動きだす。
……わかってはいるけれど、あらためてその現実を突き付けられた。
子ども、家庭のことは、お母さんがどんと引き受けるしかない現実……

父親として、考えなくてはいけません。

「第4章 地域の避難所で」は、地域の避難所で過ごした自閉っこ家族が語られます。

ここで、最初は体育館で避難をしているのですが、そこにはいられなくなり、美術室などの教室に移動をさせてもらうのですね。この対応がしてもらえたから、避難所で長期間生活をすることができたのではないでしょうか。

体育館で大勢の人に囲まれて過ごすカオスの状況では、自閉症の人は追い詰められて、パニック、自傷、他害の危険性が非常に高くなります。周りの人にも強いストレスを与え、お互いにとってまずい状況になる。このスペシャルニーズに対して、教室を開放してくれたことが、避難所生活を可能にしたのだと思いました。

私たちは、カイが避難所で暮らせるとは思っていません。自宅でなんとか暮らそうとするでしょう。自宅がダメな場合は、、、被災していない地域に避難をするしかないと考えていますが、移動の手段がない場合には、数日間から数週間は避難所で過ごすことになります。教室に分けて入れてもらえたなら……なんとかなるかもしれません。

そんなことを考えながら読み進むと、石巻支援学校のお話が最後に出てきました。(よく考えられた構成)

「学校は地域のものだから、地域が必要としているときは地域に返す」という校長先生の方針に感銘を受けました。この基本方針が揺るがなかったから、腰の座った支援が実行されたのだと思います。

そして、あとがき。このコンパクトなまとめが、また素晴らしい。立ち読みでもいいから、この「おわりに」の5ページを読んでいただきたい。ぼくは、人が生き抜く力を感じました。
全文引用したいぐらいすごい文章なのですが、一番好きな部分だけ紹介。
●自閉っこが持っている『生きる力』

非常事態を察知して誰に言われるのでもなく自分からやり遂げています。
まさに究極の自己調整、適応力を発揮しています。

これこそが、彼らが本来持っている『生きる力』なのではないでしょうか。
では、そんな立派な力を持っているなら、何があっても大丈夫でしょうか。
いいえ、それは違うような気がします。
あのとき、自閉っこはとても辛かった。でも、そうするしかなかった……
できるなら、平和な環境で、自閉っこの持っている『生きる力』を
発揮できるようにしてあげたい……心の底からそう思います。

なんて言うんだろう。

人生は困難の連続ではあっても、泥沼のなかからでも、何かをひろいあげることができる。
そして、見つけた何かは、明日につながる可能性。
でも、その何かを磨いて、よく観て、真価を見抜く力が要る。
その力は、「信じること」なんじゃないかな。

本当に貴重な本です。まだのかたは、ぜひ。



<告知!>
NHK名古屋で、2011年9月30日「おはよう東海」で、朝7時45分頃から6分間くらい、東海大地震が来た場合の備えについての特集(だと思う)で、自閉症の子をもつご家族と高橋みかわさんが登場します。
「おはよう東海」が見られるかたは、ぜひチェックを!

【おすすめ】『芸人交換日記〜イエローハーツ』

芸人交換日記 〜イエローハーツの物語〜
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今日は、これ。大プッシュ!

あらすじは、売れないお笑い芸人コンビの交換日記が描き出す「夢」の物語──って、ちょっとキレイすぎ?

展開は予想できました。
そして、「こうなるのかなー」と自然と主人公たちを応援したくなり、「こうなってほしい!」と願い、きっちり、泣かされてしまいました。
いいよね、こういうの。王道。

すごいなー。鈴木おさむさん。『ブスの瞳に恋してる』も最高だったけど、この本もイッキ読みでした。

元気になりたい人、どうぞ☆

「なんとなく」と「ロジカル」

デザイナーの発想は参考になることが多くて、本など、なるべく手にとるようにしています。

ベストセラーになった『佐藤可士和の超整理術』も刺激的でした。
特に、クライアントからの徹底的なヒアリングをするというくだりが。

佐藤可士和さんの場合、ヒアリングは単にクライアントが言語化できているニーズを聴くことじゃないんですよね。適切な質問を投げかけることで、クライアントが本当に「欲しい、と思っているもの」を整理してあげる。

「それ」が明らかになると「自ずとデザインは決まってくる」、という信念に基づく仕事のやり方は目からウロコでした。

感性よりもロジカル重視な印象を受けました。「整理することが=デザインすること」。
と言いつつ、モノを創る段階では、当たり前ですが、美的な感性を全開にしています。

「なんとなく」って、結構好きなんですよ。
「なんとなく」はすごく哲学的で。
「なんとなく」選んでいる──ときって、いろんなモロモロをミックスしてシェイクして、無意識に決めている気がしますから。

自分は、どちらかというと理屈っぽいほうだと思いますが、感覚的な部分も強くて。
「なんとなく」と「ロジカル」のバランス、みたいなことが気になるのかな?

だから、こんなふうに、思考をしてデザインをして、生きているデザイナーたちに憧れるし見習いたいと思っています。

佐藤可士和の超整理術 (日経ビジネス人文庫)
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仕事をするということは、社会のためにするということです。

これまでに「彩り〜Mr. Children」の記事などで、仕事、「働く」について考えてきましたが、
昨日紹介した『ナガオカケンメイの考え』の語りが心に残ったのでメモ──

・「仕事をするということは、社会のためにするということです。」:P.93-95
2002 08 19

 仕事というものがいったどこに、実はあるのか。
 そんなこと、考えたこともなかったが、ふと、つらい仕事をひとつひとつ乗り越えていくスタッフの姿を見ていて、仕事とは、「社会」の中にあるものなんだと実感しました。

 何を言っていると思われるかもしれませんが、仕事が「社会」にないということを考えると、それは、学校の課題をしている生徒に近くなる。仕事は「社会」の中にあるもので、それをする人のことを「社会人」と言っている。
 知っていました?

 仕事をするということとは、「社会のために何かをする」ということ。社会に何かをすることを「仕事をする」と言うんですね。僕はそう思います。
 仕事、仕事と言っていながら、実は「会社のため」にやっている人もいる。それでは、せっかくの仕事が「仕事」になっていない。そう思う。どうせ仕事をするのなら、しっかり社会に戻してもいきいきと育ってくれる「仕事」に育てたい。
 会社や上司のためにやっている仕事は、「仕事」なんかじゃないんです。
 仕事とは、「社会のため」にやること。そして、仕事とは、そのほとんどが社会のためになくてはならないと考えたい。

 アルバイトだって、社会のためを思って仕事をすれば、立派な社会人だ。
 今の仕事、大きく「会社」で育てて、「社会」の海に解き放とう。

ナガオカケンメイさんの日記はこちら。ナガオカさんの会社D&Departmentのサイトはこちら
なんか、この人と会社に興味があります。お店にも行ってみたい。

『ナガオカケンメイの考え』

ナガオカケンメイの考え (新潮文庫)
ナガオカケンメイの考え (新潮文庫)
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金沢21世紀美術館で買って読んでいます。

ナガオカケンメイさんの日記をまとめた「仕事論」なんですが、いいですよー。

仕事をするということは、社会のためにするということです。
とか。
──会社や上司のためにやっているんじゃない。

人生は実は「人から頼まれたこと」をやることなのかもしれません。
とかね。
──チャンスは「人から頼まれた時」にある。

漠然と思っていたことを、すっきりとことばにしてもらえた気になる読書体験です。
「なんか、仕事していてスッキリしないなあ…」というかた(特に新入社員と中堅)に。おすすめ。

「これは人災だ」という感覚

脱「貧困」への政治 (岩波ブックレット)
脱「貧困」への政治 (岩波ブックレット)

穴を見つける会に参加してから、貧困をテーマにした本を固め読みしています。
この本は、岩波ブックレットなので、非常に薄くて、内容もシンポジウムの記録なのでとても読みやすかったです。
自分が、ぼんやりと感じていたことに、鋭い光が当てられたような感覚を覚えました。

貧困のことを論じるのは勉強中で、まだ荷が重いのですが、山口二郎さんのこの言葉が心に残りました。

・「プレカリアートの乱? 21世紀日本の若者と貧困 パネルディスカッション」:『脱「貧困」への政治』P.43
「これは人災だ」という感覚

先程の議論にも出てきた派遣切りですが、なぜいまごろ騒ぐのでしょうか。そもそも派遣労働の拡大とか労働の規制緩和というのは、不景気の時に簡単にクビを切れるようにするためにやった。だから、いまこそ労働の規制緩和は完結したのです。「成果」が上がっているわけですよ。

私は派遣切りで騒いでいるテレビや新聞などメディアの人に言いたい。経済財政諮問会議や規制改革会議で、例外なき規制緩和の旗を振ったやつを連れてきて「この状況をどう思うんだ」って聞いて欲しい、と。竹中平蔵や宮内義彦、八代尚宏などは「これこそおれたちが目指していた社会なんだ」と言えるのか。

ともかく、これは絶対に人災です。だからまず、「これは人災だ」という感覚を持って世の中を見なければいけない。そこから始めなければいけないと思います。

社会は常に変化し続けています。
変わっていっている実感は誰しもあると思います。

が、その変化が「何」?なのかを言語化することはとても難しい。
ましてやその変化の「原因」を特定(とまではいかなくても仮定)することはさらに難しい。
しかも、それが、災害や事故のようなものではなく、数年という時間をかけて「結果」の現れてくるものだとすると、「原因」を探ろうとする思考回路が全く働かなくなってしまう…。

「時代の変化」だと、ただ受け容れ、流されていく──これは、「子どもの思考」なんでしょうね。
子どもでいる間は、無力で、「変えられるもの」がほとんどない。だから、与えられた状況のなかでやっていくしかない。子どもは、その思考に適応して、生活をしている。

大人になるということは、「変えられるもの」と「変えられないもの」を区別して、自分が決められることに取り組めるようになることだと思います。

「社会」と呼ばれる大きなものでも、制度の変更によって、変えられる。
変えられるものだから、「選択」によって、成功も失敗も起こり得る。
「選択」は自然に起きるものではない。「誰か」が、選択をしているんだ。

原因は何か? 誰がやったのか? 何を意図していたのか? を振り返って検証することは、怒りにかられ「血祭り」にあげる対象を探すためじゃない。

この検証の放棄は、「社会が変えられる」という大人の力と自覚の放棄につながる。
社会は複雑だから、単純なひとつの原因や主体に帰結できることは稀ですが、結果からたぐっていって、からみあった糸をほぐし、「これなんじゃないか?」を見つける試み。
見つけたと思う原因もまた「仮説」に過ぎないという自覚を持ちながら、オルタナティブな(別の)選択を選びなおして、社会の変化を起こす試み。

この繰り返しを、「意味がある」と信じてやり続ける。それが、大人なんだと思います。

「これは人災だ」という感覚と聞くと、他責的に響くかもしれませんが、
実は、それが「社会は、人によって変えられる」という大人の思考につながっていて──
子どもだったら、社会の変化を天災のようにとらえ、無力感で何もできないでしょうが、
もうそろそろ大人になりたいと思う今日この頃です。

はてしない物語

テレビもネットも新聞も、つらくて見ていられないときは、
物語を読むといいと思う。

地震が起こるずっと昔に書かれた物語を本棚から取り出してみる。

僕は、『はてしない物語』を読んでいたよ。
映画「ネバーエンディングストーリー」の原作(「りまーる」とつぶやいておく)。

「旅」のことを考えていて、無性に読みたくなった。
最初に読んだのは、中学生か高校生の時。あの時には、ただのファンタジーとして読んでいた。
今読むと、暗示と寓意に満ちた物語に驚く。

ファンタージェン国は、「虚無」によって蝕まれている。
「虚無」にのみこまれると、「そこにあった」はずのものが消えて無くなる。
そしてその先にはもう何もなかった。なんにもなかった。はげ山でもなければ、暗くなっているのでもなく、ぱあっと明るいのでもない。それは、目が耐えられなくなる何か、視覚がなくなったのかと思わせる何かだった。目というものは、まったき無を見つづけていられるものではない。

そして、「虚無」に自ら飛び込んでいく者たち──
不気味な恍惚状態でかれらがじっと見つめているもの──、アトレーユもそちらに目を向け、そして、見た。原っぱの向こうに、虚無が広がっているのを。

虚無は目の前全部を斜めに区切って大きくすっぽりと包みこみ、ゆっくりと、しかし一瞬も止まることなく、じりじりと近づいてきていた。

原っぱの妖怪たちがぴくぴく動き始めたのに、アトレーユは気がついた。…一陣の風にあおられた枯葉さながら、全員が一斉に虚無に向かって走りだした。そして、つっこみ転がり込みとびこみして、あっというまに吸いこまれていった。

妖怪の群れの最後の一人が音も立てず跡かたもなく消えうせたと思った瞬間だった。アトレーユは自分の体が少しずつ、ぐいっぐいっと虚無に向かって動きはじめたのに気がつき、愕然とした。虚無の中にとびこんでしまいたいという欲求が圧倒的な強さで襲いかかってきたのだ。

虚無とはなんだろう? 物語では、ファンタージェン世界での一応の謎解きが与えられる。その解じたいも、滋味深く、物語の醍醐味に満ちたものだが、語られていない、深いところに思いを馳せてしまう。

僕が実感として「知っている気がする」、「虚無」とはなんだろうか。あなたにはわかるかもしれない。

アトレーユは、「気力をふるいおこし、歯をくいしばってふんばった」。
そして、ゆっくりと、じつにゆっくりとながら向きをかえ、眼に見えない強い水の流れに逆らって進むように一歩一歩を前に押しだし、ようやくそこから離れることができた。吸引力が弱まった。アトレーユは力のかぎり走って、でこぼこの石道にもどった。霧の中で、滑って転んでははねおきながら、その道がどこへ通じるのか考えることもせず、走りに走った。

目というものは、まったき無を見つづけていられるものではない。
虚無の中にとびこんでしまいたいという欲求は、どこからやってくるのか。
その時に、気力をふるいおこし、歯をくいしばってふんばることができるか?

いや、こども向けの物語なんですけどね。おおげさに、深読みして語りすぎるのもどうかとおもうんですが。
地震が起こる前から読みだして、今日読み終わって、書いておきたかったので。

はてしない物語
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大人買いムーミン

昨日の続きを書きたいのですが、仕事で脳みそがくたくたのため後日にしますね。

Twitterでフォローしている@moomin_valley のつぶやきがよすぎて、講談社文庫のムーミンシリーズを大人買いしちゃいました。小学生以来の再読になりますが、楽しみです。
どうしてみんな、ぼくの旅のことを、そっとしておいてくれないんだろう。

むりに語らせられると、ぺらぺらしゃべったが最後、ばらばらになって消えてしまうんだ、それでおしまいさ。

旅のことを思い出したくても、自分のしゃべった声しか聞こえなくなっちまう - スナフキン

スナフキンかっこよすぎ!

「ただ、そばにいる」

重松清さんの小説を最近よく読んでいます。
ストーリーの面白さも、ですが、主人公たちの懸命さに惹かれます。

吃音の少年を主人公に描いた『きよしこ』から──
 お話は──少なくともぼくの書くお話は、現実を生きるひとの励ましや支えになどならないだろう、と思っている。ましてや、慰めや癒しになど。ぼくはそこまで現実をなめてはいないし、お話にそんな重荷を背負わせるつもりもない。
 お話にできるのは「ただ、そばにいる」ということだけだ、とぼくは思う。だからいつも、まだあったことのない誰かのそばに置いてもらえることを願って、お話を書いている。
これが、重松さんの小説を書くスタンスなんだと思いました。

「ただ、そばにいる」



ブログ更新を再開して、お気に入りに入れていたブログを巡回してみました。
更新停止中は、他のブログも、限られた友人ブログ以外見ていなかったので、数年ぶりの訪問でした。

ブログ自体が無くなったもの…

「終了宣言」がされたもの…

存在しているけど、更新が止まって数年前の日付のまま…広告コメントで埋め尽くされているもの──主を失った空き家のようでした。

「さみしい…」

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルも、同じだったんですね。

訪問のたびに、更新されない画面を見て、
「カイパパ元気かな?」と主の心配をして、小さく胸を痛めてくれたんじゃないかな…
それでも、あきらめず、訪問してくれてありがとう。

あきらめて、去った方々もいらっしゃるでしょう。
「昔なじみの変わり果てた姿」を見るのは、だれだってつらい。

何かを成し遂げる、といった大きな目的は、もう持つことはない。
自分には、誇るべき活動もなければ、シェアできる有益な情報もない。
平凡な仕事と暮らしがあるだけ。

毎日じゃなくても、極端に間隔をあけることなく、
短い記事でもいいから、更新をしていこう。

ただ、続けていこう、と思っています。



気が向いたときに、訪れると、そこに古い友人のおだやかな暮らしがある。
それを見て、なんとなくほっとする。そんな存在になりたい。

きよしこ (新潮文庫)
きよしこ (新潮文庫)
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本:『経営を見る眼』

経営を見る眼 日々の仕事の意味を知るための経営入門
■本:『経営を見る眼』

今日の日経新聞の書評欄で、響いた一節──「人は性善なれど弱し」
「人は性善なれど弱し」としつつ、
経営とはそのような「他人を通して事をなすこと」だと『経営を見る眼』は語る。
部下を一人でももっている方におすすめ。
(評:中沢孝夫氏)
昨日書いたエントリに関し示唆を与えてくれそう。読んでみたいので、メモ。

どきどきしながら読んでいる〜『発達障害だって大丈夫』

■どきどきしながら読んでいる〜『発達障害だって大丈夫』

 堀田あけみさん(Wikipedia)といえば『1980アイコ十六歳』の作者で、『アイコ十六歳』といえば映画『アイコ十六歳』で、富田靖子さんのデビュー作だよなあ。名古屋が舞台だった。堀田あけみさんも名古屋在住の作家だと記憶していた。

 その、堀田さんが、書かれた本。

発達障害だって大丈夫―自閉症の子を育てる幸せ


 堀田さんは3人のお子さんをお持ちで、真ん中の次男が自閉症とのこと……
 この本は、ノンフィクションでご自身の子育てのことを書いています。
 1月30日刊行された本なのですが、たまたま立ち寄った本屋で平積みされていて手に取りました。
 お子さんは、小学1年生で、市立小学校の養護学級に通っている。そして、名前が「カイト」君(「カイちゃん」と呼ばれている!)。色々と共通点があって、驚きました。

「堀田さんがこのブログを見たこともあるかもしれないな」「町ですれ違っているかもしれないな」なんてことを思いながら、読み進めています。

 子どもが小さいうちに、先が見えない段階で、書いたものを発表することは本当に勇気がいることだと思います。著名人だと余計に。

 同じ境遇の親としては、「書いてあること」に隠れている「書かれなかったこと」を想像してしまう。ふつうなら、楽しく元気に読めてしまう個所でも、グッと来てしまう場面があったりして…。

 堀田さんは、教育心理学の先生でもあります。「親」と「専門家」の両面を持つ方なので、この本も、親としての呼び掛けに加えて、専門家として語っている要素も混ざりあっています。ご自身の「子育て体験記」でありながら、「障害の受けとめ方」の提案であったり、「子育てのアドバイス」であったり、奥深いです。

 基本的に、非常に明るい、元気なトーンで書いてあります。元気になりたいときにピッタリ。勢いのある発言が多くて、面白いですしね。逆に、不調の時は、堀田さんのお子さんと自分の状況を比較をして「うちの子はやっぱりダメなんだ」と悩んでしまうおそれも無くはない……かな。

 それにしても、こういう本が、どどーんと出る、書店で平積みにされるのはすごい変化を感じます。社会が変わってきたんですね。

 おすすめです。ぜひ、みなさんもお読みになって感想を聞かせてください!

『県庁の星』

■『県庁の星』


出張していました。

話題の『県庁の星』、映画を観たかったのですが行ける見込みがなく、新幹線で原作本を読みました。

それほど期待していなかったのですが、面白かった。
以下感想です。

★ストーリー

ストーリーは単純。県庁のエリート「野村聡」が、郊外の中堅スーパーに1年間の民間企業派遣研修に出向き、スーパーで働く人々と出会い成長していく物語。

★テーマ

この小説のテーマは、「コミュニケーション」と「内省」だ。

・自分の目に映っている「他人」の姿が真実だとは限らない
・自分が「自分の思い」だと思っていること(だけ)が、本当の自分の思いだとは限らない

★「コミュニケーション」――理解してから、理解される

小説は、「野村」と「二宮泰子」(パートだが、実質的に店を仕切る「裏店長」と呼ばれている)が、それぞれ1人称視点で語る形になっている。

当初、野村の目には、スーパーとそこで働く人たちの姿が、「怠け者で、何も考えていないダメな連中」と映っている。二宮やスーパーの人たちの目には、野村が「エリートで、頭でっかちで現場や人が全然分かっていない、鼻持ちならないヤツ」と映っている。

その、目に映る「相手の姿」が、変化していく。「同じ人間」なのに、理解するにつれて、「別人のように」見えてくる。この変化が感動的だ。

お互いが「先入観」にとらわれて、相手を「ダメだ」と決めつけているうちは、言葉は届かない。相手のことを理解しようとする前に、評価を下してしまうから、そこで思考がストップしてしまう。これまで生きてきた経歴・立場が離れていればいるほど、このワナに陥りやすいんだろう。

印象的だった部分を引く――
「慣例、前例って言うんでしょ。能力がないからじゃないの? 人を見る力がないから書類の数字を引っかき回してるんじゃないの?」――二宮の言葉(p.185)
……
「中身を見る力のないヤツは、印刷されてる数字を信じるしかない。魚の目を見れば新鮮かどうかすぐにわかるもんなんだ。昔の人はきちんと見ていたよ」――高橋の言葉(p.218)


野村が、スーパーの同僚をバカにすることをやめて、自分のやり方に相手を合わせようとするのをやめて、まず相手を理解しようとし始めてから、相手の反応が変化してくる。「理解してから、理解される」(『7つの習慣』第5の習慣←難易度が高い!)の実践だと思った。

★もう一つのテーマ(だと私が考えた)――「内省」について

・自分が「自分の思い」だと思っていること(だけ)が、本当の自分の思いだとは限らない

ということ。印象的だった部分を引く――
「気持ちって一つじゃありませんでしょ。表に出て来る感情の下にはね、違う気持ちが潜(ひそ)んでいるでしょ。
たとえば、子どもがしっかりしたことを言えば、大きくなったんだなって思いと同時に、親離れされたようで寂しく感じたりね。泰子さんは生意気なこと言ってという部分をお詠(うた)いになるでしょ。
そこをね、一つ捲(めく)って、その下の気持ちを詠んでご覧になるといいんじゃないかしら」

「独立したいと言われたら、甘いと思う気持ちの下にいろいろ隠れていると思うのよ。
失敗してもいいから好きにやりなさい、見守っているからね、とかね。
もう一つ下には心配だわって気持ちがあるかもしれないわよね。
そのまた一段下には、心配するのが親の仕事だからと、諦(あきら)めの気持ちがあるかもね」――すず子の言葉(p.151)


自分の心を、一枚一枚めくっていく。「本当の気持ち」なんて、自分のメンタル・モデルにまかせきっていたら、見つけられない。すず子の言葉に影響されて、二宮も変化していく。

――と、レビューをしてみると、『県庁の星』は、アメリカで多い、小説仕立ての自己啓発やマネジメント学習本の、日本では稀な成功例のように思えてきた。

――という感想はかなり特殊ですが、こんな理屈っぽく読まずに、単純に、成長物語、サクセス・ストーリーとして、胸が熱くなりますよ。オススメです。

(ちなみに、映画では、柴崎コウが演じる二宮(「アキ」と下の名前が変わっている)ですが、原作では、20歳の息子のいる40代後半の太ったオバサンですのであしからず(^^;)

冬休みの課題図書

■冬の課題図書

 「夏の課題図書」に続き、恒例の課題図書リストです(★印は読了)。
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