カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル

〜自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界!〜

ゲド戦記読了

ゲド戦記を読み終わりました。
しみじみと長い旅を終えた余韻を味わっています。
親友が「心のベストテン第1位だ」といった気持ちがよくわかります。

ゲド戦記は、6冊のシリーズです。シリーズ3作目までの前半は大魔法使いゲドが活躍する冒険譚です。
後半はガラリと趣向が変わります。物語の世界は、秩序が揺らぎ、確信を失いかけています。女たちが、世界の成り立ちに対して違和感を感じ、行動する姿が目立ってきます。ひどい子どもの虐待も描かれます。

解説を読むと、第3作である『さいはての島へ』から第4作が1990年に発表されるまでに、18年の間があったそうです。そして、さらにそこから11年が経って、『ドラゴンフライ』と『アースシーの風』が発表されました。

調べてみると、初めの三部作は、それぞれ1968年、1971年、1972年に出版されています。このときは、児童文学として書かれ、世界の光と闇、行動と結果、意志と責任についてを物語っていますが、1990年、2011年に出版された後半の三部作は、もちろん児童文学ではありますが、かつての読者の成長に合わせるかのように、キャラクターの成長、世代交代とアースシーの世界の変化を通して、深化、変化した「世界(※物語の外の読者がいる世界)の在り方の見直し」を問いかけているようです。

時代の変遷による現実世界の変化が、ファンタジーの世界へ投影されていて、アースシーの物語の中で悩み苦しみ、解決の旅に出る主人公たちは、読者である私たちの分身でもある。このような感覚は、ゲド戦記が長い時間をかけて書き継がれたが故の同時代性のなせるわざだと思います。

これは、子どもだけが読むのはもったいない。大人が、物語の寓意を読み解きながら、世界を見る眼の曇りを拭い取るためにいい本ですね。

出版時にリアルタイムで読めていたら、もっと良かったのに!と思わないでもありませんが、今だからうけとめられる器ができたのかもしれません。出会えてよかった。折をみて、このブログでも感想を書いていきたいなと思っています。

出会わせてくれた鶴見俊輔さん、岸政彦さんに感謝します。
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『ちからたろう』とスパイダーマン

今日は本がテーマの会に参加してきました。
参加者は、ひとり一冊をもちよるルール。「この本をなぜおすすめしたいか」を聴くことで、その人の人柄と人生が垣間見れる楽しい企画です。
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この中で、ひときわ力強く目立っている『ちからたろう』は、わたしも大好きでした。

紹介してくださった方が、「この本のメッセージはなんだろうかと読み直してみたら、「みんなのためになろう」ということだった」とお話しされました。
力はやたらとある暴れん坊が旅に出て、村のみんなのために闘い、認められて幸せになる物語です。

「大いなる力には、大いなる責任を伴う」という言葉を、映画スパイダーマンで知って、感銘を受けたのですが、実は『ちからたろう』も、「力を良いことに使う」大切さを素朴に教えてくれていたんだなあと思いました。

そして、この場には持っている力をつかって「みんなのためになろう」としている人たちばかりが集まっていることに、大いに力づけられました。



──ちなみに、わたしが持っていったのは『関西の寺』です。仏像が好きなんです。


読書の秋というかいつも読み続けているけど

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『職業としての小説家』昨日届いたので、少しずつ読んでいます。

月までふた回り Walk Two Moons

とても印象的な言葉を知りました。

アメリカの児童文学作家シャロン・クリーチの作品
"Walk two moons"に次のような文章が出てきます。

"Don't judge a man until you've walked two moons in his moccasines."
(その人のモカシンを履いてお月さま2つ分を歩くまでは、その人を裁いてはいけない。)

相手の立場に立つというのはそのくらい難しいし、
「意識的な行動」を要するということですね。

・お月さま2つ分を歩くまでは:COACH A NEWS から引用
http://jnews.coacha.com/column/view/suzuki/20150819.html

生きていると、他人を批判したくなることもあれば、他人から批判をされることもあります。

「どうしてそんなことが言えてしまうのか?」「何も知らないくせに…」と怒りにふるえて、反撃に出たくなることも。

相手には相手の理由がある。わたしにはわたしの理由がある。
だけど、その理由は、お互いの人生を「相手の靴をはいて月まで二度行って戻ってくる」くらい歩いて追体験しなければ理解できない──。

う〜ん、それって超むずかしい。理解し合うのは不可能ってことかな?

そう。他人の抱えている理由や事情はほとんどが理解できない。だから、せめて「何かは特定できないが、何かしらの理由や事情があって、こういった言動に出たんだろう」と推定する。そこまでならできそう。この推定が「寛容さ」につながるんじゃなかろうか。こんなことを考えました。

そして、せめて。「相手の靴」をはいてみる努力はできるかな? 月まで行くのは無理でも。

Walk Two Moons
Sharon Creech
HarperCollins
2009-10-06

Kindle版を買ってみました。

人を殺さない人権

昨日の『言い残しておくこと』紹介記事をFacebookでシェアしたときに、わたしが書いたコメントを載せておきます。
・人を殺さない人権は、国家から人を殺すことを強制されない自由として構成可能だと思う。

・戦争犯罪人を認めることは、命令であっても拒否する「義務」があるとしなければ理が合わない。

→そして、殺さない人権を認めることは、国家が戦争を遂行することを不可能にするところまで行き着く可能性がある。根源的な転換をもたらすんだ。

「戦争に行きたくないのは、自分勝手」という論が一定のアピールを持つとしたら、それは「国家の命令で人を殺す義務」を想定しているからで、鶴見さんの主張はその真逆をいっている。
わたしは、殺さない人権を支持する。

もう一箇所『言い残しておくこと』から引用します。
なぜ人を殺すのはよくないかというと、たとえ反戦運動にしても、殺すという暴力を容認すると、自分たちの仲間に対する一種の暴力的な支配が出てくる。自分の思想を暴力に拠って守り押しつけるというところまでいくのに歯止めがなくなっちゃうと思う。わたしはそれが嫌なんです。

敵を殺してもいいという考え方は、結局は味方そのものに対しても暴力的になってくる。また自分に対して暴力的になっていく。自己欺瞞を暴力によって支えて、自分のなかに生じる疑いも全部暴力的に圧殺してしまおうというタイプになりやすい。その意味で暴力は否定していきたいという気持が強いですね。

敵に対する暴力は結局仲間に対する暴力的支配につながり、自分個人に対する暴力的支配につながる。 p.290

「敵」というのは戦争の敵に限られない。主義の敵、思想の敵、運動の敵、信仰の敵……すべての敵に対して、「敵だから殺してもいい」と容認したらどうなるのか? 

実は、「敵」の範囲は自明ではない。思想には幅がある。運動には方針・やり方に幅がある。信仰には解釈がある。何でもそうだ、「正しい」としたものから外れたものは「敵」認定できる。それが、仲間であっても。自分であっても。

「敵を殺してもいい」=「存在を抹殺してもいい」の逆のいき方を考えてみたい。
困難かもしれないが、そっちのほうが多様で、生き生きと命が繁茂するような、そういういき方がいい。
言い残しておくこと
鶴見俊輔
作品社
2009-12-16

『言い残しておくこと』鶴見俊輔

言い残しておくこと
鶴見俊輔
作品社
2009-12-16


今日読んだ本。
鶴見俊輔さんのことは気になりつつも、今までちゃんとその軌跡を読んだことがなかった。

・鶴見俊輔氏死去 万引き・退学…小学校卒でハーバード 行動派知識人

『言い残しておくこと』は、これまでの鶴見さんの著作やインタビューをもとに、人間形成(生い立ち)、行動とその理由、交友関係などについてまとめられています。亡くなった今この本を読むと本当に遺言として語りかけてくるような感じがする。

印象に残ったのは、母親との関係。「でかい家、裕福な家の子どもは必ず悪人になる」という信念を持つ母親に、殴られ「お前は悪い子だ」と徹底的にダメ出しをされ続け、育てられた。
私にとって、おふくろはスターリンなんです。彼女が正義も道徳も独占している。 p.13

私はゼロ歳のときから、おふくろに殴られながら、「おまえは悪い人間だ」といわれつづけた。だから、自分は悪い人間だ、というのが私のなかに生じた最初の考えなんです。 p.14

当時私はまだ言葉をもってないから、おふくろに言い返せない。そこで行動的に抵抗するんだよ。つまり悪い人間として生きる。この流儀は、85年の間通していて、全然ブレない。それが、私の信仰といえば信仰でしょう。 p.14

一生分、愛された。それは、窒息しそうな経験だった。 p.20

これは──「虐待」ですよね。
鶴見さんはそこから逃れ生きのびるために、不良になった。自殺願望が常につきまとっていた。

母親がどう鶴見さんの人間形成に影響を与えたかを示すくだりがある。

キリスト教も、イスラームも、マルクス主義も、ウィメンズ・リブも、You are wrong (おまえが悪い)と迫る思想に対して──
私はI am wrong だから、もしそれらから「おまえが悪い」といわれても抵抗しない。この対立においては結局決着はつかないんですよ。私がYou are wrongの立場に移行することはないし、You are wrongは私の説得には成功しないから。p.15

これはどういうことか?

教義や主義が「正しい」とするものに拠って、「おまえは間違っている」とジャッジして批判をしてくる。だが、あらかじめ「自分が正しいとは思っていない。私は悪い人間だ」と認める(=居直る)ことで、あらゆる宗派が持つ「正義」を無効化できる──ということかな。

一方、I am wrongの人間である以上、他人に対して「正義」の押し付けをすることができないという歯止めとしても働く。

そのことは、鶴見さんが中心となったベ平連(wikipedia)の運動にも反映されていたようだ。
そもそもベ平連というのは、ファリブリズム、まちがい主義なんです。このファリブリズムという言葉、もともとはプラグマティズムの創始者の一人、チャールズ・パースがつくったもので、まちがいからエネルギーを得てどんどん進めていく、まちがえることによって、その都度先へ進む、それが何段階かのロケットにもなっていくわけです。 p.121

この運動論は、今の安保法制反対運動にも通じている話だと思う。

この本は、どの部分をとっても、傾聴に値し、いろいろな人と話し合ってみたいと思うことばかりなのだが、わたしにとって新しく目を開かれたことを引用しておく。
わたし個人の目標は、戦争中は自分の問題なんで、「殺せ」という命令が下ったときに、それを拒む人権なんだ。日本での良心的兵役拒否の問題につながる、一種の石を打っているつもりなんだ。だけどいまのところ人権が、そっちのほうほ人権にいかない。バラバラになっているんだ。だけど、百年、二百年のなかには、自分の命を守るということと、人を殺さない権利を持つということとは合流せざるをえないと思うんだ。この二つは人間の人権としては一つの輪になっているはずなのに、いまのところはバラバラ。 p.293

日本は戦争裁判というのを受け入れたんだから。そう考えれば、あれの論理的な系としては、自分が不当と思う戦争については、自国の命令についてでも、個人は拒否する義務があると。それが論理的な系なんだ。そうでなければ戦争犯罪人なんてありえないじゃないですか。
 p.295

(戦争裁判のときのレーリングという最年少のオランダの判事が)いまの説を、東京裁判の国際シンポジウム(1983年)で出したんですよ。つまり、「戦争裁判を認めるということは、個人が自分がよくないと思う戦争に対しては、自国の命令に対しても断る義務がある」と。つまり権利というのはなくて、義務というのがあると。そこが重大なんだな。 p.295

この思想を、戦後70周年の今日、読めてよかった。

ひとりの人間の生身の限界を前提として

人間は生身の存在だから、常に壊れ続け、それを補う修復と回復を必要としている。
エネルギーは失われ、細胞は死に、器官は摩耗する。
だから、食べて、寝て、細胞をつくり、再生する。
痛んだ心は、そのままにせず、やわらかく包みこみ慰撫が必要だ。
生命の危機が近づくと、熱がどんどん奪われていく。冷えて、こわばって、動けなくなる。温めないと。
温かい食べ物、おふとん、お風呂。

脆さとか弱さとか。ひとりの人間の生身の限界を前提として、仕事や生活を考えて、制度をつくっていかないといけない。
14時間労働、3か月間休みなし。だとか。人間は機械ではないから。傷つき壊れてしまう。
そういう至極まっとうな指摘が、逆に新鮮に思えてしまうじぶんも、身体性を失ったグローバリズムに洗脳されているのかも。

『脱グローバル論』を読んでの感想。


・216ページ 内田樹
国民国家というのは、親族を地域共同体、さらには国家という量的・水平的に拡大していった制度ですけども、幻想的には「拡大家族」です。国民たちは幻想的にも「一家」を形成している。だから、この列島に住む1億3,000万人をどうやって食わせるか、つまり、幼児や老人や病人や働きのないなまけ者を含めて、身内をどうやって食わせるかということが国民経済の根本的な発想になる。確かに国民国家は古めかしい制度ですし、政治的幻想ではあるんですけれども、いいところもある。それはこの政治的幻想が生身の人間のサイズ、生身の人間の寿命、生身の人間身体能力というものを勘定に入れて制度設計されているという点です。人間をモデルにして、制度が構築されている。生きてせいぜい80年、1日に8時間は寝たい、1週間にせめて1日はオフが欲しい、飯は三度食いたい、たまには温泉にも入りたい、そういう生身の人間の欲求や言動を基準にして、社会システムができている。

それに対して、グローバル資本主義は「人間じゃないもの」をベースにして、制度を作る。「人間じゃないもの」と言うより、「一時的にならなれるけれど、長期にわたってそうであることはできないもの」と言うべきでしょうか。時給800円で、1日14時間働いて、3カ月間休みを取らない労働者とか、あれもこれも人が持っているものは皆欲しがって、一生かかっても返せない借金を抱え込んでも買い物をする消費者とか。そういう人ばかりでできている世界のグローバル資本主義の理想社会のわけです。だから、そういう社会を目指して社会改革を推し進める。でも、生身の人間は、80年間そういうふうには生きられない。どこかで倒れてしまう。

・218ページ 内田樹
まず食わせなくちゃいけない身内がいて、彼らを食わせるために仕事を作り出す。そういう順番で平川君は考えていた。生産性とか効率とか利益率と違うところで、人間は経済活動や企業活動を行うこともある。それを支えているのは、身内という概念ですよね。身内というのは、ずいぶんと曖昧な概念であって、どこからどこまで身内に含まれるのか定かじゃないんですけれど。頼ってくる奴がいると、とりあえずそれは身内である、と。たぶん国民国家では伝統的にそういう考え方をしてきたんじゃないでしょうか。腹を減らして奴がいたら、とりあえず食わせてやろうよ、と。そういう惻隠の情があらゆる制度設計の根本にあった。

脆さとか弱さとか。ひとりの人間の生身の限界を前提として。周囲からしたら「問題があるひと」で「なんでそんなことしたの?」とか思われてしまう場合でも、血縁や地縁のある「現実の身内」には見捨てられても、なお、「まぁ、しょうがない。なんとかしよう」と見捨てず手を差し伸べてくれる存在。

「身内」を極限まで拡大した「家族」的国民国家なんてきしょくわるい、と思ってきたけれど。人生、弱さを抱え、個人ではなんともならない、崖や落とし穴に落ちる現実がある。「助けて」とすがれる、「しゃあない、おまえは国民だから」と無条件で手を差し伸べてくれる国であってほしい。
胸苦しいニュースを、見ながら思う。

【読書日記】Tweet & Shout 津田大介著

今、「発信」のモデルとして最も注目している人が、津田大介さんだ。
Twitterで、彼をフォローし始めてからずいぶん経つ。きっかけは、歳が近くて、同じキャンパスにいたことがあって、中日ファンというところに親近感を覚えたからなんだけど。今では、有料メールマガジンも購読するほどに。考えてみれば、ほぼ毎日津田さんの発信に触れている。

著書は、動員の革命 - ソーシャルメディアは何を変えたのか (中公新書ラクレ) [新書]ウェブで政治を動かす! (朝日新書) [新書]を読んだ。

津田さんの本は、読みやすい。スッと読めてしまう。内容も、「知ってるよ」と思うことが多い。
だから意味がないかというとそんなことはない。彼は、ソーシャルメディアに深く関わっている人たちの世界と、外の世界を「通訳」として橋渡す役割を自覚的に果たしているから、津田さんの本を読むと自分の頭が整理される。

SNSを多少やっていて「知ってるよ」と思う人間が、「違うよ」と引っかからないことがすごいと思う。通ぶった解説をして墓穴を掘る人がよくいるけれど、津田さんの場合はその心配がない。

その中でも、今回読んだTweet&Shout [単行本]は、一番おもしろかった。自分が、音楽が好きで、ライブにもよく行くので、今回のテーマは興味深かったのだが、得られたものはそれだけではなかった。

あとがきにある内容紹介が、まとまっている。
本書は、インターネットが我々の日常に根付いたここ15年ほどの情報環境の変化が、コンテンツ産業(とりわけ音楽産業)にどのような変化をもたらしたのかを紐解き、クリエイターが既存の仕組みや資本に頼らず、自らプロモーションを行い、生み出した作品をリスナーや読者、視聴者などの消費者に届けるところまで構築することで、自由な創作環境を手に入れられるということを解説した、ある種のノウハウ本だ。

自由な創作環境を手に入れる具体的な方法として、津田さんは「300人を確保することだ」と言う。
「毎月500円の収入をもたらしてくれるファンを300人捕まえなさい」ということになる。500円×300人=15万円。毎月ファンが喜ぶコンテンツを提供し続ける対価としてげっ会費を徴収することで、ニュー・インディペンデントの柱が生まれるのだ。

確かにそのとおりで、毎月500円なら払いたい!と思うアーティストは私にもいる(津田大介さんのメルマガに630円払っている)。そして、300人だったら、エンターテイメントを目指す人がつかめなければ将来の展望もないだろう。

で、わたしは、自分が関わっているノンプロフィット(非営利)の活動も同じだと思った。
もし毎月15万円の収入が確保されたら、一人を常勤で雇うことができる。常勤職員がいると、活動の幅と質がぐっと広がる。
NPOの場合、月会費はあまり一般的ではないが、500円×12月=年会費6000円の設定は多い。この年会費を払ってくれるサポーターを300人集めれば、1人の常勤職員を雇うことができるわけだ。

笑顔を増やしていく活動という意味では、アーティストのやっていることと似た面がある(というか、NPOだから高尚だ、とか思っていない)。300人以上の方に「毎月500円払いたい!」と思ってもらえるような活動をして、実績を情報発信していくことを、まずは目指そうと思った。

本書中の、対談記事「アジカン」ゴッチと一緒に考える、3・11後の日本はおすすめです。

そうそうそれで。
3月1日に、刈谷で「NPOの「情報流通」促進事業フォーラム2014」というイベントが会って、ここに津田さんが来る。わたしも参加します。
こんなにも早く直接お会いする機会が来るとは! 楽しみです。



おすすめ記事「弱さ」で身を寄せ合って

Twitterでフォローしているよっひーさん@yohimaxは、Twitterで考えながら連続投稿をして、それをまとめてブログ記事にするスタイルを日々続けている。
わたしはよっひーさんの記事は、必ず読んでいる。

いつも、胸をつくメッセージが届くのだけど、この記事は最近じぶんが考えていることにシンクロしていた。紹介したい。

・「弱さ」で身を寄せ合って|誰もいないどこかへ
http://ameblo.jp/yohimaxa/entry-11639827875.html
 しかし、「ただ身を寄せ合う」ということの効能はバカにはできないのだ。
 経済的なスラムで、たとえ満腹にならなくても、1つのパンを3人で分けあって、3人が共に餓えない、ということに大きな意味があるのと同じで、たとえ満足や安心が得られなくても、同じ境遇の人がそこにいて、今日もいなくなっていない、ということには大きな意味がある。

先月、インドのスラムを舞台にした『シャンタラム』という小説を読んだので、イメージがわいた。
日本でも、今、インターネットなどを通じて、小さな「スラム」的な集落ができはじめているのではないかとよっひーさんは言う。

 ただ1つ言えるのは、「弱さでつながる」というのは、よく企業や団体や、あるいは同じ志や野心を持つ者同士が、連帯したり協働したり、または同盟を結んだりするようなイメージではなく、言うなれば「スラムで身を寄せ合って生きている」という感覚のほうが近い。
 お互いに力はない。互いに言葉を交わすことも少ないし、別段仲が良い、というわけでもない。誰か傷ついた人がいても助けられるような甲斐性を持っているわけでもないし、事実、そのつながりの中では、今日は誰々が自殺した、今日は誰々がいなくなった、ということが日常茶飯事的に起こっていて、それでも「ああ、あいつもいなくなってしまったんだな」という感慨のような感情を湧き起こす以上に、できることがあるとも思えない。

今回の記事もこれまでの記事との連なりの中で書かれているので、「支援」だの「理解」だのと言う人と実際に「それ」を受ける側の人たちとの間の断絶についても間接的に指摘をしている。「スラム」の住民は、同じ境遇だからこそ、よりそいあえるのではないか? そこに、その境遇よりも「高い」立場にいる人が入ってきて、「理解」をして「支援」をすることで、本当に救いになるのだろうか?と。


『シャンタラム』でも、そのテーマは通底していた。この小説のことは、またいつか書きたい。

『母親やめてもいいですか』レビューのレビューのつづき

母親やめてもいいですか
母親やめてもいいですか [単行本(ソフトカバー)]

先日『母親やめてもいいですか』のレビューのレビュー記事を書いたところ、@lessor_twさんが「うれしい」と言ってくださって。自分がいつもブログを愛読している方に、よろこんでいただけてよかったです!

以下は、lessorさんにあてて書いたわたしのツイートです。
きっと、家族支援にたずさわる人に読んでいただくとよい本なのでしょうね。
渦中にいる当事者には、キツイのかもしれない。そのあたりも含めて、lessorさんのレビューから、メッセージが伝わってきました。

わが子が、心から、愛するわが子だと思えるようになるか?は、、、母親でも父親でも、自明ではない、ということ。いわゆる障害が一切なくても、「時」が来るまで、揺らいだり、規範意識から見たら、間違っている反応を起こしたり、親も、ヒドいもんです。
だけど、そんなの当たり前なんです。この子は、わかりにくいし、戸惑う。
だけど、成長するから、親も、子どもも。
だから、辛いときは、避難所がありますように、そう願います。人の気持ちは、他人にはわからないけれど、気休めではあっても、お薬のように選びとる体験談や物語があってよい。そう思います。

そして、@nayuta_tudukiさんが、わたしの記事を読んで書いてくださったツイートが、とっても心にしみて、共感をしました。許可をいただき、転載します。




体験談ではあっても、それは「その人の」体験です。
読むわたしたちも、自分の体験にひきつけて、自分の体験を思い出している。
では、そういう体験をしたわけではない人は? きっと、主人公に感情移入して、仮想体験をするんですね。それがフィクションの力。
読まないことで、考えることができる。それもフィクションの力ですね。

マンガ『母親やめてもいいですか』レビューのレビュー

母親やめてもいいですか
母親やめてもいいですか [単行本(ソフトカバー)]

わたしのまわりで、プチ話題の本です。というか、わたしが「こんな本がでたよ」とFacebookページで紹介して、「読めるかな?」「読めないかな?」と友達と言い合っていたのでした。

わたしが書いたコメント──
「ふつうの(どこにでもある)ドラマ」のテーマに発達障害が取り上げられて、もし、このマンガで救われる親が増えたり、支えたいと思ってくれる人が生まれたらいいなあと願います。なんとなく、話題になりそうな予感があるので。

でも、ぼくはたぶん読まなさそう。

「共感し過ぎて、過去が蘇る」のがこわいのだと思います。すぐれたリアリティのある作品であればあるほど。記憶がフラッシュバックするんですよね。

そのやりとりをした際に、こうままさんが「lessorさんのレビュー待ち」と言っていたのですが、期待にたがわずlessorさんがレビューをエントリーされました!

・lessorの日記:「愛されないから愛せない」と悩む母たちへのマンガ
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130326/1364313830

嫉妬を覚えるぐらい素晴らしいレビューなので、(レビューの)レビュー(感想)を書きたいと思います。

わたしは特に、愛着形成のところを、しみじみとうなずきながら読みました。
そんなことよりも、このマンガで読み取られるべきことは、まず親子関係において自明視されている「愛着形成」の難しさ、だと思う。前半部分で描かれている自閉症の障害特性、医療機関での長い長い診察待ち、療育の役割などについては、さまざまな媒体でよく言われている内容だ。しかし、「子どもが私に対して愛着を示してくれない」「私も子どもをかわいいと思えない」という苦悩に対して、応えようとしたマンガを自分はあまり知らない。

 おもちゃをいろいろ与えてみても興味を示さず、大人にとっては魅力のよくわからないものへの強いこだわりから離れられない。良かれと思って連れて行った遊び場所でパニックを起こす。自分と目を合わせてくれないし、言葉でのコミュニケーションもできない。多くの親は「この子にとって、私はどのような存在なのだろう」と思わされる経験をする。単にごはんを作ったり、身の回りの世話をしてくれるだけの存在でしかないのではないかとも考えたりする。

そして、いわゆる「障害受容」について触れたくだり──
「どんな子どもでも人と関わりたい」「どんな子どもでも親を愛している」と断言できるかと言えば、これはきっと科学的な検証が難しいテーマだ。それゆえに愛着の可能性はいくらでも信じられるし、いくらでも疑える。いくら事例をあげられても、「うちの子は違う」と思って拒み続けることはできる。信じられるかどうかは、科学的知識の説得力とは別のところにあり、親の側の用意が必要であるのだろう。

 その用意ができていく過程を指して「障害受容」と呼ぶ人もいるが、すっきりとした一定の境地があるわけでもなく、一進一退を繰り返すことだってある。自分はつい先日、家族との死別を淡々と受け止めているように見える子どもの様子に複雑な気持ちを抱く親から話を聴いていた。その子はもう青年期だ。著者だって、先のことはわからない。子どもは変化するから、ずっと信じ続けるのは簡単でない。

子どもはひとりひとり違うし、親も違う。結局のところ、ぼくたちは、一回性の生を生きることしかできない。
だからこそ、他人が通った「轍(わだち)」を、「痕跡」として眺める理由があるのだろう。こうあるべきという「モデル」でも、「マニュアル」でもなく。

lessorさんはこう語りかけます。
信じられなくなったとき、さらには信じられない自分を許せなくなったときに、「実は私にも以前そんなことがあってね…」と語ってくれる人が必要である。しかし、なかなか表立って語る人は現れない。子を信じない親に世間の風当たりが強いことを、親たちは知っているのだから。たくさんの「禁句」を飲み込みながら、絶望を深めていくとしたら、どうか。

 だから、このマンガは貴重だ。帯の表表紙側にはこうある。「わが子が可愛くないお母さんのために」。

lessorさんの文体は、いつも冷静で理性的です。けれど、むちゃくちゃ優しさを感じるんだよね、親として。

このマンガを読むすべての人に合わせて読んでもらいたい良レビューです。lessorさん、ありがとう。

わが心の姉、こうままのレビューはこちらです。
・こうくんを守れ!!: あったらし〜い「本」
http://koumama.seesaa.net/article/353010061.html

意欲の仮死状態

・なぜ若者は保守化するのか――反転する現実と願望 [著]山田昌弘 - 大澤真幸(社会学者) - 本の達人 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
http://book.asahi.com/ebook/master/2013012200011.html

記事より引用。
 このデータが示しているのは、若者たちの強い安定志向である。一度入った会社に、解雇されずにずっと勤めていたい。あるいは、安定した収入がある男性と結婚して、自分は専業主婦をしていたい。こうした傾向を、本書では「若者の保守化」と呼んでいる。
 こうした安定志向が前面に出てくるのは、どうしてなのか。山田さんの説明を聞いてみよう。理論的な背景には、山田さんが2004年に出した『希望格差社会』(これも電子書籍で読むことができる)で紹介したアメリカの社会心理学社ランドルフ・ネッセの希望論がある。ネッセによると、希望という感情は努力が報われるという見通しがあるときに生まれる感情であり、絶望は、努力してもしなくても結果としては同じことになるとしか思えないときに生ずる。なるほど、もっともだ、と納得せざるをえない。
 この理論を携えて日本社会の現実を見てみよ、と山田さんは言う。この理論に従えば、というか、そうした理論に頼らずともわれわれのコモンセンスから判断して、人が希望をもって冒険的に行動できるようになるためには、努力しなくても報われるケース(つまり既得権)を排除すること、努力しても報われない人々を救済すること、この二つが必要だ。しかし、日本社会はそうなっていない。

本は未読。書評を読んでの感想。

分かち合える他者がいないと、ぬべーっとした社会にしか見えず、生きていくことの意味が見出せなくなりそうです。

入り口や接点はいろいろだと思いますが、他者と出会うことから、「課題」が生まれて、それを「解決」していく過程が生まれます。その「解決」が他者に喜ばれたりして、まぁ生きていくのも悪くないかな?と思えるようになる。

「何かをしてみて挫折する」ことは「絶望」ではなく、
「何かをすること自体に体が動かない、反応しない」状態が「絶望」なんですね(「意欲の仮死状態」とでも言おうか)。

「なにこんな無謀でバカなことやってんの……?」って出会いがあれば、もしかしたら、蘇生するかもしれません。SNSでの出会いが、そのきっかけを増やしてくれる意義は小さくないかも。

湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』の感想

湯浅さんの新刊『ヒーローを待っていても世界は変わらない』を読みました。
いまの湯浅さんの問題意識とやっていることがわかりやすく書かれています。

ヒーローを待っていても世界は変わらない
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以下、メモ+感想です。

民主主義という手間のかかるものを、手間をかけてやっていくために、時間と空間が必要(P.84)。そんな余裕が無い人々のために、時間と空間をつくっていく。
それは、だれか特別な人だけでやれることではなくて、津々浦々で、ごくふつうの人が知恵と時間を持ちよってやれること。
(アメリカの議論で、「貧富の格差が拡大し、民主主義の担い手である中間層が少なくなっている」というのを読んだことがあるが、そのことも思い出した)

「被災地で増えるパチンコ屋」(P.122)という印象的な項があります。
仕事をなくした、特に中高年の男性が居場所がなくて、パチンコ屋通いに走る。
「血縁」「地縁」「社縁」(就職した会社に関連する縁)が、ぶっ壊れたところで、「無縁からの縁づくり」が必要で。その「縁づくり」には、創造性が求められると湯浅さんは言います。

コミュニティで、パチンコに負けない「楽しみ」をどうつくっていけますか? それに応えることは、すごくクリエイティブなことなんですよね。これは、被災地に限ったことではない。

「人と人の関係性の結び直し」(P.149)これがキーになる。それは、単なるキャッチフレーズではなくて、スキルや経験をつみあげた担い手になる人になる/育てていくこと。それには時間がかかるし、手間もかかる。けど、そのことが民主主義を実践していくことにつながり、生きやすい社会をつくっていくことになるんだと思う。

湯浅さんは、大阪で7月に仲間たちと「AIBO(あいぼう)」という団体を立ち上げたそうです。
「AIBOでは「何かできないか」という思いを持つ一人ひとりの諸個人に寄り添い、参加のハードルを下げ、インフラ・ノウハウ・資金を提供する。「必死の生活と、そこから出てくるニーズ」を持ちながら、社会的・政治的に示すことができない、示し方がわからないとう「ふつう」の人たちが主たる対象だ。」(P.188)

これって。
「誰か決めてくれよ。ただし自分の思い通りに」という気分で、だれか"ヒーロー"に丸投げしてしまう、民主主義にうんざりしている人々が、たくさんいる。でも、その一人ひとりは、本当は「社会をよくしたい」という思いを持っていて、その思いを実現する時間も空間もスキルもないから何もしないでいることに対して、寄り添い、ささえる活動だよね。
湯浅さんがスーパーマンとして何とかしちゃう、んじゃなくて。おもしろい。湯浅さんは、とてもロジカルに、しなやかに活動している。

・AIBO - Action Incubation Box Osaka おもろい社会をカタチにするプロジェクト
http://www.aibofund.net/


湯浅さんの話はいつもわかりやすい。本質的なことを、シンプルに、わかりやすく伝える稀有な才能です。
916イベント「誰もが、つながりと優しさを感じられる社会を目指して」では、この本のお話もしてくださいます♪ 会場ワークショップで、みんなで、思いやアイデアをシェアしあえたらうれしいです。

↓916イベントのお申込みはこちらからどうぞ↓
http://kokucheese.com/event/index/48700/

【おすすめ】大震災 自閉っこ家族のサバイバル

大震災 自閉っこ家族のサバイバル
大震災 自閉っこ家族のサバイバル
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読みました。

手元に持ってはいたのですが、なかなか開くことができず置いていました。

ところが、ここ数日のうちに、2人の方(親の立場ではない)から
「大地震の本読みましたか? あれは素晴らしいです」と声をかけられ
「自分は、震災の凄まじさをこの本でようやく知りました」
「これは、自閉症の関係者だけが読むのはもったいないですね」とまで言われ、
読まねば!と決心しました。おおげさですが、震災の、しかも自閉っこ家族の実話を読むことは、私にとっては勇気のいることでした。

ちょうど、おかざき福祉まつりに行こうと決め、こうままさんたちのブースでは『大震災 自閉っこ家族のサバイバル』のチラシを置いて宣伝をすると言っています。よしっ、これはめぐりあわせだ。行き帰りの道中に読むのだ!

本の構成は、
前半の2章は、仙台市内で被災した高橋みかわさんにフォーカスしています。
「第1章 ライフラインのとまった街で」は、みかわさん家族のサバイバルについて。
「第2章 ブログとメールでつながりあった」は、みかわさんが震災後に発信を続け仲間たちを支えた「みかわ屋通信」について。

みかわさんの論理的な支援の組み立てなおし方(トイレ、お風呂がダメ。こだわりのある子が混乱しないようにするには、、、とすぐに代替案を具体的に準備する)は、驚異でした。

高橋みかわさんは、実は『重い自閉症のサポートブック』の著者です。「模倣をしない/できない」自閉症の子どもの子育てに長年取り組んできて、誰よりも、本人の特性を観察し毎日支援を組み立て続けてきたからこそ、緊急時でも対応ができたのですね。

そして、自分や家族のことだけではなく、周りのひとたちに対しても惜しみなく注ぐ「情け」(ここはあえて「情け」という言葉を使いたい)の豊かさ。
こういう人が強くて、本当の優しさをもつ人なんだなと。本から伝わってくるものがありました。
電車で読んでいて、なんども熱いものがこみ上げてきて、ぐっと奥歯をかみしめて耐えました。(たぶん前に座っていた女子高生はこわかったかも…)

後半は、石巻編。

4つの家族の話が語られます。被害が甚大だった石巻では、まず1日1日を乗り切ることで必死です。
情報が不足していて、広範囲で未曾有の被害が起きていることを知らない状態で、何が起こったのかわからなくても、自閉の子を見つけ出し、引き取って、家族で(母親が)なんとかサバイバルする。

みかわさんが書いています。
有事の時、お父さんは社会というコミュニティーに取られる。でも、そうだからこそ社会の機能が回復し、まわり始め、日常に向かって動きだす。
……わかってはいるけれど、あらためてその現実を突き付けられた。
子ども、家庭のことは、お母さんがどんと引き受けるしかない現実……

父親として、考えなくてはいけません。

「第4章 地域の避難所で」は、地域の避難所で過ごした自閉っこ家族が語られます。

ここで、最初は体育館で避難をしているのですが、そこにはいられなくなり、美術室などの教室に移動をさせてもらうのですね。この対応がしてもらえたから、避難所で長期間生活をすることができたのではないでしょうか。

体育館で大勢の人に囲まれて過ごすカオスの状況では、自閉症の人は追い詰められて、パニック、自傷、他害の危険性が非常に高くなります。周りの人にも強いストレスを与え、お互いにとってまずい状況になる。このスペシャルニーズに対して、教室を開放してくれたことが、避難所生活を可能にしたのだと思いました。

私たちは、カイが避難所で暮らせるとは思っていません。自宅でなんとか暮らそうとするでしょう。自宅がダメな場合は、、、被災していない地域に避難をするしかないと考えていますが、移動の手段がない場合には、数日間から数週間は避難所で過ごすことになります。教室に分けて入れてもらえたなら……なんとかなるかもしれません。

そんなことを考えながら読み進むと、石巻支援学校のお話が最後に出てきました。(よく考えられた構成)

「学校は地域のものだから、地域が必要としているときは地域に返す」という校長先生の方針に感銘を受けました。この基本方針が揺るがなかったから、腰の座った支援が実行されたのだと思います。

そして、あとがき。このコンパクトなまとめが、また素晴らしい。立ち読みでもいいから、この「おわりに」の5ページを読んでいただきたい。ぼくは、人が生き抜く力を感じました。
全文引用したいぐらいすごい文章なのですが、一番好きな部分だけ紹介。
●自閉っこが持っている『生きる力』

非常事態を察知して誰に言われるのでもなく自分からやり遂げています。
まさに究極の自己調整、適応力を発揮しています。

これこそが、彼らが本来持っている『生きる力』なのではないでしょうか。
では、そんな立派な力を持っているなら、何があっても大丈夫でしょうか。
いいえ、それは違うような気がします。
あのとき、自閉っこはとても辛かった。でも、そうするしかなかった……
できるなら、平和な環境で、自閉っこの持っている『生きる力』を
発揮できるようにしてあげたい……心の底からそう思います。

なんて言うんだろう。

人生は困難の連続ではあっても、泥沼のなかからでも、何かをひろいあげることができる。
そして、見つけた何かは、明日につながる可能性。
でも、その何かを磨いて、よく観て、真価を見抜く力が要る。
その力は、「信じること」なんじゃないかな。

本当に貴重な本です。まだのかたは、ぜひ。



<告知!>
NHK名古屋で、2011年9月30日「おはよう東海」で、朝7時45分頃から6分間くらい、東海大地震が来た場合の備えについての特集(だと思う)で、自閉症の子をもつご家族と高橋みかわさんが登場します。
「おはよう東海」が見られるかたは、ぜひチェックを!

【おすすめ】『芸人交換日記〜イエローハーツ』

芸人交換日記 〜イエローハーツの物語〜
芸人交換日記 〜イエローハーツの物語〜
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今日は、これ。大プッシュ!

あらすじは、売れないお笑い芸人コンビの交換日記が描き出す「夢」の物語──って、ちょっとキレイすぎ?

展開は予想できました。
そして、「こうなるのかなー」と自然と主人公たちを応援したくなり、「こうなってほしい!」と願い、きっちり、泣かされてしまいました。
いいよね、こういうの。王道。

すごいなー。鈴木おさむさん。『ブスの瞳に恋してる』も最高だったけど、この本もイッキ読みでした。

元気になりたい人、どうぞ☆

「なんとなく」と「ロジカル」

デザイナーの発想は参考になることが多くて、本など、なるべく手にとるようにしています。

ベストセラーになった『佐藤可士和の超整理術』も刺激的でした。
特に、クライアントからの徹底的なヒアリングをするというくだりが。

佐藤可士和さんの場合、ヒアリングは単にクライアントが言語化できているニーズを聴くことじゃないんですよね。適切な質問を投げかけることで、クライアントが本当に「欲しい、と思っているもの」を整理してあげる。

「それ」が明らかになると「自ずとデザインは決まってくる」、という信念に基づく仕事のやり方は目からウロコでした。

感性よりもロジカル重視な印象を受けました。「整理することが=デザインすること」。
と言いつつ、モノを創る段階では、当たり前ですが、美的な感性を全開にしています。

「なんとなく」って、結構好きなんですよ。
「なんとなく」はすごく哲学的で。
「なんとなく」選んでいる──ときって、いろんなモロモロをミックスしてシェイクして、無意識に決めている気がしますから。

自分は、どちらかというと理屈っぽいほうだと思いますが、感覚的な部分も強くて。
「なんとなく」と「ロジカル」のバランス、みたいなことが気になるのかな?

だから、こんなふうに、思考をしてデザインをして、生きているデザイナーたちに憧れるし見習いたいと思っています。

佐藤可士和の超整理術 (日経ビジネス人文庫)
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仕事をするということは、社会のためにするということです。

これまでに「彩り〜Mr. Children」の記事などで、仕事、「働く」について考えてきましたが、
昨日紹介した『ナガオカケンメイの考え』の語りが心に残ったのでメモ──

・「仕事をするということは、社会のためにするということです。」:P.93-95
2002 08 19

 仕事というものがいったどこに、実はあるのか。
 そんなこと、考えたこともなかったが、ふと、つらい仕事をひとつひとつ乗り越えていくスタッフの姿を見ていて、仕事とは、「社会」の中にあるものなんだと実感しました。

 何を言っていると思われるかもしれませんが、仕事が「社会」にないということを考えると、それは、学校の課題をしている生徒に近くなる。仕事は「社会」の中にあるもので、それをする人のことを「社会人」と言っている。
 知っていました?

 仕事をするということとは、「社会のために何かをする」ということ。社会に何かをすることを「仕事をする」と言うんですね。僕はそう思います。
 仕事、仕事と言っていながら、実は「会社のため」にやっている人もいる。それでは、せっかくの仕事が「仕事」になっていない。そう思う。どうせ仕事をするのなら、しっかり社会に戻してもいきいきと育ってくれる「仕事」に育てたい。
 会社や上司のためにやっている仕事は、「仕事」なんかじゃないんです。
 仕事とは、「社会のため」にやること。そして、仕事とは、そのほとんどが社会のためになくてはならないと考えたい。

 アルバイトだって、社会のためを思って仕事をすれば、立派な社会人だ。
 今の仕事、大きく「会社」で育てて、「社会」の海に解き放とう。

ナガオカケンメイさんの日記はこちら。ナガオカさんの会社D&Departmentのサイトはこちら
なんか、この人と会社に興味があります。お店にも行ってみたい。

『ナガオカケンメイの考え』

ナガオカケンメイの考え (新潮文庫)
ナガオカケンメイの考え (新潮文庫)
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金沢21世紀美術館で買って読んでいます。

ナガオカケンメイさんの日記をまとめた「仕事論」なんですが、いいですよー。

仕事をするということは、社会のためにするということです。
とか。
──会社や上司のためにやっているんじゃない。

人生は実は「人から頼まれたこと」をやることなのかもしれません。
とかね。
──チャンスは「人から頼まれた時」にある。

漠然と思っていたことを、すっきりとことばにしてもらえた気になる読書体験です。
「なんか、仕事していてスッキリしないなあ…」というかた(特に新入社員と中堅)に。おすすめ。

「これは人災だ」という感覚

脱「貧困」への政治 (岩波ブックレット)
脱「貧困」への政治 (岩波ブックレット)

穴を見つける会に参加してから、貧困をテーマにした本を固め読みしています。
この本は、岩波ブックレットなので、非常に薄くて、内容もシンポジウムの記録なのでとても読みやすかったです。
自分が、ぼんやりと感じていたことに、鋭い光が当てられたような感覚を覚えました。

貧困のことを論じるのは勉強中で、まだ荷が重いのですが、山口二郎さんのこの言葉が心に残りました。

・「プレカリアートの乱? 21世紀日本の若者と貧困 パネルディスカッション」:『脱「貧困」への政治』P.43
「これは人災だ」という感覚

先程の議論にも出てきた派遣切りですが、なぜいまごろ騒ぐのでしょうか。そもそも派遣労働の拡大とか労働の規制緩和というのは、不景気の時に簡単にクビを切れるようにするためにやった。だから、いまこそ労働の規制緩和は完結したのです。「成果」が上がっているわけですよ。

私は派遣切りで騒いでいるテレビや新聞などメディアの人に言いたい。経済財政諮問会議や規制改革会議で、例外なき規制緩和の旗を振ったやつを連れてきて「この状況をどう思うんだ」って聞いて欲しい、と。竹中平蔵や宮内義彦、八代尚宏などは「これこそおれたちが目指していた社会なんだ」と言えるのか。

ともかく、これは絶対に人災です。だからまず、「これは人災だ」という感覚を持って世の中を見なければいけない。そこから始めなければいけないと思います。

社会は常に変化し続けています。
変わっていっている実感は誰しもあると思います。

が、その変化が「何」?なのかを言語化することはとても難しい。
ましてやその変化の「原因」を特定(とまではいかなくても仮定)することはさらに難しい。
しかも、それが、災害や事故のようなものではなく、数年という時間をかけて「結果」の現れてくるものだとすると、「原因」を探ろうとする思考回路が全く働かなくなってしまう…。

「時代の変化」だと、ただ受け容れ、流されていく──これは、「子どもの思考」なんでしょうね。
子どもでいる間は、無力で、「変えられるもの」がほとんどない。だから、与えられた状況のなかでやっていくしかない。子どもは、その思考に適応して、生活をしている。

大人になるということは、「変えられるもの」と「変えられないもの」を区別して、自分が決められることに取り組めるようになることだと思います。

「社会」と呼ばれる大きなものでも、制度の変更によって、変えられる。
変えられるものだから、「選択」によって、成功も失敗も起こり得る。
「選択」は自然に起きるものではない。「誰か」が、選択をしているんだ。

原因は何か? 誰がやったのか? 何を意図していたのか? を振り返って検証することは、怒りにかられ「血祭り」にあげる対象を探すためじゃない。

この検証の放棄は、「社会が変えられる」という大人の力と自覚の放棄につながる。
社会は複雑だから、単純なひとつの原因や主体に帰結できることは稀ですが、結果からたぐっていって、からみあった糸をほぐし、「これなんじゃないか?」を見つける試み。
見つけたと思う原因もまた「仮説」に過ぎないという自覚を持ちながら、オルタナティブな(別の)選択を選びなおして、社会の変化を起こす試み。

この繰り返しを、「意味がある」と信じてやり続ける。それが、大人なんだと思います。

「これは人災だ」という感覚と聞くと、他責的に響くかもしれませんが、
実は、それが「社会は、人によって変えられる」という大人の思考につながっていて──
子どもだったら、社会の変化を天災のようにとらえ、無力感で何もできないでしょうが、
もうそろそろ大人になりたいと思う今日この頃です。

はてしない物語

テレビもネットも新聞も、つらくて見ていられないときは、
物語を読むといいと思う。

地震が起こるずっと昔に書かれた物語を本棚から取り出してみる。

僕は、『はてしない物語』を読んでいたよ。
映画「ネバーエンディングストーリー」の原作(「りまーる」とつぶやいておく)。

「旅」のことを考えていて、無性に読みたくなった。
最初に読んだのは、中学生か高校生の時。あの時には、ただのファンタジーとして読んでいた。
今読むと、暗示と寓意に満ちた物語に驚く。

ファンタージェン国は、「虚無」によって蝕まれている。
「虚無」にのみこまれると、「そこにあった」はずのものが消えて無くなる。
そしてその先にはもう何もなかった。なんにもなかった。はげ山でもなければ、暗くなっているのでもなく、ぱあっと明るいのでもない。それは、目が耐えられなくなる何か、視覚がなくなったのかと思わせる何かだった。目というものは、まったき無を見つづけていられるものではない。

そして、「虚無」に自ら飛び込んでいく者たち──
不気味な恍惚状態でかれらがじっと見つめているもの──、アトレーユもそちらに目を向け、そして、見た。原っぱの向こうに、虚無が広がっているのを。

虚無は目の前全部を斜めに区切って大きくすっぽりと包みこみ、ゆっくりと、しかし一瞬も止まることなく、じりじりと近づいてきていた。

原っぱの妖怪たちがぴくぴく動き始めたのに、アトレーユは気がついた。…一陣の風にあおられた枯葉さながら、全員が一斉に虚無に向かって走りだした。そして、つっこみ転がり込みとびこみして、あっというまに吸いこまれていった。

妖怪の群れの最後の一人が音も立てず跡かたもなく消えうせたと思った瞬間だった。アトレーユは自分の体が少しずつ、ぐいっぐいっと虚無に向かって動きはじめたのに気がつき、愕然とした。虚無の中にとびこんでしまいたいという欲求が圧倒的な強さで襲いかかってきたのだ。

虚無とはなんだろう? 物語では、ファンタージェン世界での一応の謎解きが与えられる。その解じたいも、滋味深く、物語の醍醐味に満ちたものだが、語られていない、深いところに思いを馳せてしまう。

僕が実感として「知っている気がする」、「虚無」とはなんだろうか。あなたにはわかるかもしれない。

アトレーユは、「気力をふるいおこし、歯をくいしばってふんばった」。
そして、ゆっくりと、じつにゆっくりとながら向きをかえ、眼に見えない強い水の流れに逆らって進むように一歩一歩を前に押しだし、ようやくそこから離れることができた。吸引力が弱まった。アトレーユは力のかぎり走って、でこぼこの石道にもどった。霧の中で、滑って転んでははねおきながら、その道がどこへ通じるのか考えることもせず、走りに走った。

目というものは、まったき無を見つづけていられるものではない。
虚無の中にとびこんでしまいたいという欲求は、どこからやってくるのか。
その時に、気力をふるいおこし、歯をくいしばってふんばることができるか?

いや、こども向けの物語なんですけどね。おおげさに、深読みして語りすぎるのもどうかとおもうんですが。
地震が起こる前から読みだして、今日読み終わって、書いておきたかったので。

はてしない物語
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大人買いムーミン

昨日の続きを書きたいのですが、仕事で脳みそがくたくたのため後日にしますね。

Twitterでフォローしている@moomin_valley のつぶやきがよすぎて、講談社文庫のムーミンシリーズを大人買いしちゃいました。小学生以来の再読になりますが、楽しみです。
どうしてみんな、ぼくの旅のことを、そっとしておいてくれないんだろう。

むりに語らせられると、ぺらぺらしゃべったが最後、ばらばらになって消えてしまうんだ、それでおしまいさ。

旅のことを思い出したくても、自分のしゃべった声しか聞こえなくなっちまう - スナフキン

スナフキンかっこよすぎ!

「ただ、そばにいる」

重松清さんの小説を最近よく読んでいます。
ストーリーの面白さも、ですが、主人公たちの懸命さに惹かれます。

吃音の少年を主人公に描いた『きよしこ』から──
 お話は──少なくともぼくの書くお話は、現実を生きるひとの励ましや支えになどならないだろう、と思っている。ましてや、慰めや癒しになど。ぼくはそこまで現実をなめてはいないし、お話にそんな重荷を背負わせるつもりもない。
 お話にできるのは「ただ、そばにいる」ということだけだ、とぼくは思う。だからいつも、まだあったことのない誰かのそばに置いてもらえることを願って、お話を書いている。
これが、重松さんの小説を書くスタンスなんだと思いました。

「ただ、そばにいる」



ブログ更新を再開して、お気に入りに入れていたブログを巡回してみました。
更新停止中は、他のブログも、限られた友人ブログ以外見ていなかったので、数年ぶりの訪問でした。

ブログ自体が無くなったもの…

「終了宣言」がされたもの…

存在しているけど、更新が止まって数年前の日付のまま…広告コメントで埋め尽くされているもの──主を失った空き家のようでした。

「さみしい…」

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルも、同じだったんですね。

訪問のたびに、更新されない画面を見て、
「カイパパ元気かな?」と主の心配をして、小さく胸を痛めてくれたんじゃないかな…
それでも、あきらめず、訪問してくれてありがとう。

あきらめて、去った方々もいらっしゃるでしょう。
「昔なじみの変わり果てた姿」を見るのは、だれだってつらい。

何かを成し遂げる、といった大きな目的は、もう持つことはない。
自分には、誇るべき活動もなければ、シェアできる有益な情報もない。
平凡な仕事と暮らしがあるだけ。

毎日じゃなくても、極端に間隔をあけることなく、
短い記事でもいいから、更新をしていこう。

ただ、続けていこう、と思っています。



気が向いたときに、訪れると、そこに古い友人のおだやかな暮らしがある。
それを見て、なんとなくほっとする。そんな存在になりたい。

きよしこ (新潮文庫)
きよしこ (新潮文庫)
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本:『経営を見る眼』

経営を見る眼 日々の仕事の意味を知るための経営入門
■本:『経営を見る眼』

今日の日経新聞の書評欄で、響いた一節──「人は性善なれど弱し」
「人は性善なれど弱し」としつつ、
経営とはそのような「他人を通して事をなすこと」だと『経営を見る眼』は語る。
部下を一人でももっている方におすすめ。
(評:中沢孝夫氏)
昨日書いたエントリに関し示唆を与えてくれそう。読んでみたいので、メモ。

どきどきしながら読んでいる〜『発達障害だって大丈夫』

■どきどきしながら読んでいる〜『発達障害だって大丈夫』

 堀田あけみさん(Wikipedia)といえば『1980アイコ十六歳』の作者で、『アイコ十六歳』といえば映画『アイコ十六歳』で、富田靖子さんのデビュー作だよなあ。名古屋が舞台だった。堀田あけみさんも名古屋在住の作家だと記憶していた。

 その、堀田さんが、書かれた本。

発達障害だって大丈夫―自閉症の子を育てる幸せ


 堀田さんは3人のお子さんをお持ちで、真ん中の次男が自閉症とのこと……
 この本は、ノンフィクションでご自身の子育てのことを書いています。
 1月30日刊行された本なのですが、たまたま立ち寄った本屋で平積みされていて手に取りました。
 お子さんは、小学1年生で、市立小学校の養護学級に通っている。そして、名前が「カイト」君(「カイちゃん」と呼ばれている!)。色々と共通点があって、驚きました。

「堀田さんがこのブログを見たこともあるかもしれないな」「町ですれ違っているかもしれないな」なんてことを思いながら、読み進めています。

 子どもが小さいうちに、先が見えない段階で、書いたものを発表することは本当に勇気がいることだと思います。著名人だと余計に。

 同じ境遇の親としては、「書いてあること」に隠れている「書かれなかったこと」を想像してしまう。ふつうなら、楽しく元気に読めてしまう個所でも、グッと来てしまう場面があったりして…。

 堀田さんは、教育心理学の先生でもあります。「親」と「専門家」の両面を持つ方なので、この本も、親としての呼び掛けに加えて、専門家として語っている要素も混ざりあっています。ご自身の「子育て体験記」でありながら、「障害の受けとめ方」の提案であったり、「子育てのアドバイス」であったり、奥深いです。

 基本的に、非常に明るい、元気なトーンで書いてあります。元気になりたいときにピッタリ。勢いのある発言が多くて、面白いですしね。逆に、不調の時は、堀田さんのお子さんと自分の状況を比較をして「うちの子はやっぱりダメなんだ」と悩んでしまうおそれも無くはない……かな。

 それにしても、こういう本が、どどーんと出る、書店で平積みにされるのはすごい変化を感じます。社会が変わってきたんですね。

 おすすめです。ぜひ、みなさんもお読みになって感想を聞かせてください!

『県庁の星』

■『県庁の星』


出張していました。

話題の『県庁の星』、映画を観たかったのですが行ける見込みがなく、新幹線で原作本を読みました。

それほど期待していなかったのですが、面白かった。
以下感想です。

★ストーリー

ストーリーは単純。県庁のエリート「野村聡」が、郊外の中堅スーパーに1年間の民間企業派遣研修に出向き、スーパーで働く人々と出会い成長していく物語。

★テーマ

この小説のテーマは、「コミュニケーション」と「内省」だ。

・自分の目に映っている「他人」の姿が真実だとは限らない
・自分が「自分の思い」だと思っていること(だけ)が、本当の自分の思いだとは限らない

★「コミュニケーション」――理解してから、理解される

小説は、「野村」と「二宮泰子」(パートだが、実質的に店を仕切る「裏店長」と呼ばれている)が、それぞれ1人称視点で語る形になっている。

当初、野村の目には、スーパーとそこで働く人たちの姿が、「怠け者で、何も考えていないダメな連中」と映っている。二宮やスーパーの人たちの目には、野村が「エリートで、頭でっかちで現場や人が全然分かっていない、鼻持ちならないヤツ」と映っている。

その、目に映る「相手の姿」が、変化していく。「同じ人間」なのに、理解するにつれて、「別人のように」見えてくる。この変化が感動的だ。

お互いが「先入観」にとらわれて、相手を「ダメだ」と決めつけているうちは、言葉は届かない。相手のことを理解しようとする前に、評価を下してしまうから、そこで思考がストップしてしまう。これまで生きてきた経歴・立場が離れていればいるほど、このワナに陥りやすいんだろう。

印象的だった部分を引く――
「慣例、前例って言うんでしょ。能力がないからじゃないの? 人を見る力がないから書類の数字を引っかき回してるんじゃないの?」――二宮の言葉(p.185)
……
「中身を見る力のないヤツは、印刷されてる数字を信じるしかない。魚の目を見れば新鮮かどうかすぐにわかるもんなんだ。昔の人はきちんと見ていたよ」――高橋の言葉(p.218)


野村が、スーパーの同僚をバカにすることをやめて、自分のやり方に相手を合わせようとするのをやめて、まず相手を理解しようとし始めてから、相手の反応が変化してくる。「理解してから、理解される」(『7つの習慣』第5の習慣←難易度が高い!)の実践だと思った。

★もう一つのテーマ(だと私が考えた)――「内省」について

・自分が「自分の思い」だと思っていること(だけ)が、本当の自分の思いだとは限らない

ということ。印象的だった部分を引く――
「気持ちって一つじゃありませんでしょ。表に出て来る感情の下にはね、違う気持ちが潜(ひそ)んでいるでしょ。
たとえば、子どもがしっかりしたことを言えば、大きくなったんだなって思いと同時に、親離れされたようで寂しく感じたりね。泰子さんは生意気なこと言ってという部分をお詠(うた)いになるでしょ。
そこをね、一つ捲(めく)って、その下の気持ちを詠んでご覧になるといいんじゃないかしら」

「独立したいと言われたら、甘いと思う気持ちの下にいろいろ隠れていると思うのよ。
失敗してもいいから好きにやりなさい、見守っているからね、とかね。
もう一つ下には心配だわって気持ちがあるかもしれないわよね。
そのまた一段下には、心配するのが親の仕事だからと、諦(あきら)めの気持ちがあるかもね」――すず子の言葉(p.151)


自分の心を、一枚一枚めくっていく。「本当の気持ち」なんて、自分のメンタル・モデルにまかせきっていたら、見つけられない。すず子の言葉に影響されて、二宮も変化していく。

――と、レビューをしてみると、『県庁の星』は、アメリカで多い、小説仕立ての自己啓発やマネジメント学習本の、日本では稀な成功例のように思えてきた。

――という感想はかなり特殊ですが、こんな理屈っぽく読まずに、単純に、成長物語、サクセス・ストーリーとして、胸が熱くなりますよ。オススメです。

(ちなみに、映画では、柴崎コウが演じる二宮(「アキ」と下の名前が変わっている)ですが、原作では、20歳の息子のいる40代後半の太ったオバサンですのであしからず(^^;)

冬休みの課題図書

■冬の課題図書

 「夏の課題図書」に続き、恒例の課題図書リストです(★印は読了)。
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