自閉スペクトラム症は脳機能の特性だ。認知のあり方が、多数派の人びととは異なっている。
自閉スペクトラム症になる原因は、遺伝や周産期のトラブルなどが考えられる。

「周産期のトラブル」ということで言うと、思い当たることがある。
カイが産まれるまでに。切迫流産の危険があって、妻は3か月入院をした。予定日よりもひと月早く産まれた。体重も少なかった。

切迫流産のきっかけは? 思い当たることがないわけではない。だが、すでに持っていた「弱さ」があったのだろうと思う。

けれども「もしかしてあの時…」と話し合ったことはあったし、今でもふと思い出すことがある。

何かの結果が出たときに、「原因は〇〇だ」と言いたくなる。「原因は〇〇」なんだから何故それを避けなかったのか? という発想に直結しがちだ。

だけど、そう言えるのは、結果が出たからであって、「後知恵」に過ぎない。その後知恵が、指し示す原因が正しいかどうか? も、後からやり直して確かめることはできない。だから検証が不可能なのに、「結果がすべて」の人たちは勝ち誇るかのように断罪する(その人たちはわたしの頭の中にもいる……)。

結果でもって断罪するのは間違っている。

神でもないわたしたちが、行く先にある結果をすべて予見して行動を選ぶことは不可能だ。

それに、その時は「思わしくない」と思われた結果が、その先の「素晴らしい」「はじまり」になることだってある。

過去は変えられない。未来はわからない。

どうせ結果でもって、過去の選択を「原因」として非難されるとわかっていたら、挑戦しないほうがいいと思ってしまう。

生まれること、人と出会うことも、いつか別れで終わることは避けられない。
別れて、つらい、かなしい思いをしたからと言って、「出会わなければよかった」とはならないだろう。
結果の後にも行為は続く。行為と結果は連鎖している。めぐりめぐってどうなることやら──おろかなわたしにはわからない。

だから思うんだ。
おろかだから生きていけると。

「先の見えすぎお先真っ暗」

何もはじめないより、はじめてみるのがいい。愛とともに。

これは、前記事「ぼくのビリーフ」の続きです。