相模原事件から1年が経った。言及する記事や番組が多く流れている。
が、じぶんからは言葉が出てこない。

それでも、ひとつだけ記しておきたいことがある。

「生きていていい」という表現に、痛みを感じます。

「生きていていい」とは、だれが、だれに許可を求めているのか? だれが、だれにゆるしを与えているのか?

わたしも、そう「言って」しまいそうになる。そう「言った」ことが何度もある。「生きていていいよね」と。
いわざるを得ない心情がわかる。そう「言う」人が、やむにやまれぬ気持ちであったり、やさしい同情心から「言って」いることも知っている……

でも、そう「言う」ことで、無意識に生命の価値づけをしていることを認めているのではないか。いや、じぶんが生命の価値付けを、認めているわけではないかもしれないが、この「世間に生命の価値付けが存在すること」を認めているのだ(認識という意味から、仕方が無いと受容する意味までスペクトラムはある)。

・「生きていていい」という表現は、「排除する社会(人の集団)への異議申し立て」である。
・決して「排除する社会(人の集団)」に対して、ゆるしを求め、おうかがいを立てるものではない。

この表現を、目にするたびに、そう確認をしないとわたしはつらい。
というか、再確認をしたとしても、苦い痛みは消えない……

わたしのなかにある、生命の価値付けの認識、「居場所がない・奪われる」というおそれ、そういった不安が刺激されるから。

「生きていていい」なんて。

言わなくてもいいはずなのに。