カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル

〜自閉症から広がる、チャレンジに満ちた新しい世界!〜

支援者と

頼みの綱は、人への信頼

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ネットを見ていて、今や自閉スペクトラム症のある人への視覚支援の有効性は常識となったのだなと感慨深いものがあります。

視覚支援──たとえば絵カードやスケジュールを練習して使えるようになることで、わかる方法で認知を助け、見通しを持って自ら動けるようになります。(この「練習する」ことが抜けて、なんでも絵にして見せれば通じるだろうと乱暴なことをして失敗する例も多いようですが)

専門家ではない、ごく普通の親が「こんなふうにやってみたらうまくいきました!」と報告されているのを見て、心があたたかくなります。

でも、子どもがまだまだ幼くて、あるいは知的障害が重い場合や、そうでなくても「初めてのこと」をあらかじめ伝えることは難しいですね。たとえば、病院での検査とか。(理解したとしてもイヤなものでもあります)

近頃のカイを見ていて思うのは、イヤなこと、不安なことに耐える、がまんすることができてきたのは、「個別具体的な見通し」があるからというより(なかなか提示しても理解が難しい場合が多い)、「この人がすることなら、ひどいことにはならないだろう」という特定の「人への信頼」を頼りにしていることがわかります。

それは、親であったり、日々関わってくれるヘルパーさんであったり、学校の先生や病院の看護師さんだったりします。

「前にもこの人が一緒の時に、イヤなこと、痛いことをされた。だけど、それはそんなにひどいことにはならなかった」という体験の積み重ねが(ものすごく時間をかけて)人への信頼につながっています。

数年前のことですが、カイが「○○歯科、いく」と歯を指差して自分から言いました。歯医者で暴れてもがいて逃げようとしてきた彼が、「歯が痛い→歯医者で治療する(痛いけど)→歯が痛くなくなる」因果をつかんで、自ら選んだ。びっくりして、感動しました。

(見通しを持つツールの練習や活用、意思の尊重は前提として)
イヤなことでも、この人がついていてくれたら、だいじょうぶ。
そう思える人を、これからも増やしていきたいです。

Mさんは恩人

Mさんは、カイの最初のヘルパーだった。6歳のときからずっと見てきてくれた。
一番たいへんだったときに、わたしたち家族を支えてくれた。
その彼が、郷里に帰る。今日は家族であいさつにきてくれた。

間が悪いことに、わたしも妻も風邪を引いてしまって、ちゃんと名残を惜しむことができなかった。
でも、たくさんのことばよりも、思いは通じあっている。

私たち夫婦の会話で、「二人とももし死んでしまったら、カイを誰に託す?」という問いが出たときに、二人とも迷わず「Mさんに」と思った。
他人だけど他人じゃない。カイを弟のように思い、育ててくれた。

責任感が強い彼は、今、自分の家族のために、名古屋を離れる決断をした。
とても、さみしい。近くにいなくなることを心細く思う。

彼ともし出会っていなかったら、わたしたち家族は今のようには暮らせていなかった。
Mさんはわたしたちの恩人。そして、わたしたちの家族。
東北に、親戚ができたと思おう。いつか、カイを連れて会いに行こう。

記憶の強いカイはMさんを決して忘れないよ。水曜日にはきっと要求するね。
だけど、カイは、Mさんのおかげで「信頼すること」を覚えたから。大丈夫。また会えるから。


カイパパ本の出版記念パーティーのときに、初めてのロングケアにMさんとカイが二人して旅立つ姿を、今でもありありと思い出せる。あのときから、11年。

他人を信じて託す気持ちを、Mさんが教えてくれました。
Mさん、本当に本当にありがとう。これからも「家族」でいてください。

【報告】ふわりんクルージョンでお話させていただきました

昨日、東京は両国で開催された「ふわりんクルージョン2014」のセッションに登壇させていただきました。
テーマは「発達障害を支える人材の質を高めるには」。

fwr2014

コーディネーター山口久美さん(SNOW DREAM)のもと、佐藤貴志さん(はるにれの里)、小林信篤さん(横浜やまびこの里)といった錚々たる専門家と(…わたしなんかが席を並べていいのだろうか?と思いながら)、親の立場から、カイの成長、親として心を痛めていること、支援の方針としてのTEACCHプログラム、英国自閉症協会のSPELLフレームワーク、国際開発援助の分野から学ぶ「援助者の傲慢さへの戒め」について、お話しさせていただきました。

このような大勢の前でお話しするのは、多分10年ぶりくらいでした。始まる前は緊張しましたが、話し始めたら、会場のみなさんによって「聴き取られていく」感じで、どんどん思いが言葉になっていきました。
特に、カイの話をするのは楽しく、心が晴れやかになる思いでした。

10年前とは、自信が全然違う。それは、カイのおかげです。私は変わった。

未熟なわたしの言葉に真剣に耳を傾けてくださったみなさん、ありがとうございました。心がシンクロして、話しながら泣きそうになるのをこらえる瞬間がありました。
戸枝さんはじめむそうスタッフのみなさん、貴重な機会をありがとうございました。また一緒に勉強会をさせてくださいね。
そして、山口さん、佐藤さん、小林さん、一堂に会した時、なんだか初めて一緒にセッションをする気がしない不思議な安心感がありました。これからも、このご縁を大切にしていきたいです!

支援者が「機能」になれる仕組みを考えてみた

■安心して任せられることの保証は?

支援者と親の間に流れる川
「川」の続き
この2つの記事を読んだ親の仲間が、私に言いました。
支援者が「機能」だということはそのとおりで、そうあるべきだとは思うけど、
結局、わが子を安心して任せられることの保証が「この人だから」ということになっている。
だからどうしても、「この人」に託したいという親の思いになっている。

このつぶやきをヒントに、支援者が「機能」として、存在価値を発揮できるようになるには、何が整えばいいのか?を考えてみました。

■人は「材料」にあらず

よく「人材」と言うけれど、人は「材料」ではない。人と「その人が提供するサービス」は切り離せない。
人がやることだから、属人的になる。
<安定したサービス提供の担保(保証)>が、「いい人だから」ということ(のみ)になっている。
これが、「あの人だから」任せたい、になってしまう理由。

<安定したサービス提供の担保>が、「Aさんという個人」のままであっては、
「支援者は機能であって、代替可能で継続的な支援を提供し続ける存在」だという「そもそも論」は、単なるお題目にすぎない。

だから、属人的な支援ではなく「仕組み」をつくることが必要だ。よく言われます。
この「仕組み」について、できるだけシンプルに考えてみました。

■安定したサービス提供を担保する3つの仕組み

(1)複数人で支える体制があること
まず、複数の人が関わっていることが必要だ。そして、単に、バラバラの個人がいればいいわけではなく、Aという人をB、C、Dが支えるといった体制が要る。

(2)サービスの質を向上させる方法があること
よい支援は、知識とスキルとマインドが不可欠だ。

だが、それは、自然には身につかない。学校では習わないことを知り、自分の尺度では理解できない異文化交流するための「コミュニケーション」を学び、実際にやってみることが必要だ。
センスが良ければ独学でも学べる。しかし、時間がかかるし、センスは誰にでもあるものではない。
年月をかけて蓄積された知見がある。これを無視をしてはいけない。体系立って、教えるメソッドが要る。例えば、医学は、人類の初めからずっと実践と失敗をくりかえしながら、現時点でベストとなった教授法が確立されている。
発達障害への支援は、歴史が短く、そこまでの確立したものはないが、「これは間違いない」「こうすると改善する」という蓄積がある。
この蓄積を活かし、知識とスキルを向上させる「現時点でベスト」の育成方法を整えたい。

マインドも、教える方法がある。
支援者に求められるマインドの基本は、「立場の互換性」を心から実感していることだと思う。
「支援を受ける側に自分がいたとしたらどう感じるか? 支援者にどうして欲しいか?」この発想ができること。そのためには、「支援を受ける側に自分がいたかもしれない」とイメージする想像力が要る。
その想像力は、疑似体験や当事者の生の声を直接聴くことで育てることができる。

(3)評価と是正のプロセスがあること
これはどういうことかというと──

「良いことをした」→「正」のフィードバック
「悪いことをした」→「負」のフィードバック

というかたちで「評価」が与えられ、その影響により、

「良いことをした」→「正」のフィードバック→もっと「良いことをする」
「悪いことをした」→「負」のフィードバック→もう「悪いことはしない」

自ら「是正」できる一連のプロセスが存在するということです。

「良いこと/悪いこと」を判別するには、ジャッジする基準が整ってなければいけません。
また、その基準をあてはめ、行動の「良い/悪い」をジャッジする存在が必要です。
セルフジャッジもあり得ますが、ひとりよがりに陥りがちです。(1)の複数で支えることが、評価と是正のプロセスを回します。

以上の3つが整えば、<安定したサービス提供の担保>する仕組みになるのではないか──という整理と提案です。

■「達人」はいらない

福祉の人材育成が叫ばれています。わたしも、心から個々人のレベルアップを望む者です。
しかし、資格制度や研修ばかりを充実させても、必要十分ではありません。(2)サービスの質を向上させる方法ばかりに注力して、(1)と(3)を軽視していると、「達人」がまれに出てくるだけになってしまうでしょう。

「達人」は素晴らしいのですが、「この人(達人)」のサービスを担保する根拠(後ろだて)となるのは「この人」だけです。
「1人の達人」に過大な期待をいだき、達人の争奪戦を行っていては、けっきょくその達人もつぶしてしまいます。

(1)複数人で支える体制があること
(2)サービスの質を向上させる方法があること
(3)評価と是正のプロセスがあること


この3つを意識して、整えて、仕組みをつくりましょう。足りないものは何か?を常に考えて、とにかく、「ひとりぼっちではやらない」ことです。

できるだけシンプルにまとめてみました。ぜひご意見・ご指摘をいただけたらと思います。

「親代わり」を考えた時に思い出す文章

ずっと心にためていたものを、がぁっっと吐き出したあとには、しばらく口を開きたくないような感覚になる。書かれた記事は、読まれて、広がり、わたしの目には見えない深いところに吸い込まれていったんだろう。吐き出したわたしは、どこかで、エネルギーを満たさなければならない。

とりあえず、いってみよう」というブログがある。

ブログを書いているのは、自閉症の息子さん(現在社会人として就労している)をお持ちの方で、相談支援の最前線で働いている。わたしは、この方に会いたくて、会いに行った。一度話をしただけだが、今思い出しても胸の中があたたかくなる。そんな存在だ。

このブログの中に、「親代わり」を考えた時に、思い出し、読み返したい記事がある。

「くちづけ」という映画がある。知的障害のある娘と無理心中をはかる父親を描いたものらしい。
「らしい」としか書けないのは、映画を観ていないからだ。今後も観ることはないだろう。映画を観ていないのだから、映画について云々するつもりはない。
わたしが紹介したいのは、「くちづけ」の感想として書かれた文章だ。

絶望のかわりに、あるいは絶望の果てに、「他人」という、おそろしくも、有り難い、存在が、この町にはいる。たしかにいるんだってこと。それを思い知らせてくれる記事だ。

たぶん当初は、3つの連載記事にするつもりはなく、書き始められたのだと想像する。
抑え気味に始まる。しかし、だんだんと、母親としての思い、過去の交錯する記憶、そして今自分が目の前で支援している暮らしがあふれだすように語られていく。

ゆっくりでいいので、読み通していただけたらと願います。

(1)くちづけ 〜すごく遠回しな感想〜
http://blog.livedoor.jp/bach0123-habanero02/archives/7895993.html

(2)くちづけ 〜すごく近いつぶやき〜
http://blog.livedoor.jp/bach0123-habanero02/archives/7879772.html

(3)くちづけ 〜本当のきもち〜
http://blog.livedoor.jp/bach0123-habanero02/archives/7903303.html
人間は、弱い。
誰だって弱い。
たった一人で抱えたまま、誰にも言えなかったお父さん。
辛かっただろうな。

私がもし、あの「舞台」の中の誰かだったら。
入所施設を紹介する前に、
お父さんではなくマコちゃんと話していただろう。


あなたはどこで暮らしたい?

と。

この言葉に、弱いわたしは気がつかされる。
苦しいのは、わたしじゃない。生きて、暮らしていくのは、カイであると。

だからそう。だから胸を張ってさ!

「川」の続き

昨日の記事(支援者と親の間に流れる川)は、やっと書けました。時間がかかりました。

無茶過ぎる願いですが、親は、無意識に支援者に「親代わり」を期待している。そこから来る温度差、ギャップが断絶を生んできた。

このことが明確に整理できたのは、わたしにとっては大きな気づき。

こんな無茶なことを親が願っていると、気がついていない支援者もいるかもしれない。ビジネスライクな人が増えてきているから。
だが、真剣に親と向き合い、支援者のあるべき姿を考えたことがあれば、このあまりにも重い「願い」に気づき、逃げ出したくなったことがあるだろう。

そこで、支援者が「私は親代わりにはなれないのです」とはなかなか言えない。
だから、書いた。

親としては、この気づきはつらいことであったし、書きあぐねたのもそれが理由だ。痛くて、つらくて。いったいどうしたら安心できるのか。そういうことを思いながら、迷いながら書いた。

こうやって、一度悟りを開いた気になっても、「親代わりを願う思い」は止められないものです。
だから、思いはあってもいい。それでも親側が、無限に支援者に期待することは踏みとどまろう。
支援者には支援者だからできることがある。それは、親と同じに、無限に責任を背負い込むことではないんだ。そういうことを伝えたいです。

そして、今度は、支援者が果たすべき「機能」について、具体的に考えたい。
その中には、カオス状態の親のむきだしの「願い」をどう受け止めるかについても、機能としてなければならないだろうと思います。

今回の記事は、まず一度「絶望」というか、あきらめることがスタートだよねという主張。
支援者は、ちゃんと考えてる。ちゃんと考えている支援者はいる。
だから、一緒に場というか機能を編み上げていこうよということです。

支援者と親の間に流れる川

12月8日「ケアホームをみんなで考える勉強会」報告の最終回(その4)です。書きあぐねて、こんなに遅くなりました。長いですが、最後まで読んでいただきたいです。

勉強会の内容については、その1その2その3を参照してください。

■勉強会後のつぶやき

勉強会が終わった夜、わたしはFacebookでこんなことを書きました。
それから、やっぱり支援者と親との間には、見えない川が流れている。それは、否定しても仕方のない事実であり、立場の違いをプラスに変えられるようにしたいと思いました。

その「川」が何なのか? これほど支援者も、親も、参加して真剣に熱意を持って参加した勉強会の感想が何故それなのか? 自分でも違和感がありました。そのことを考えたいと思います。

■ある支援者のなげき

ある支援者が、こう語っていました。
親の人から、「あんたを信じていたのに裏切られた」と言われたことが、ずっと理解できなかった。
自分は、直接介助はしなくなったが、経営者として組織を作り、もっと多くのサービスを安定的に提供できるようにしたのに。

──この親の「裏切られた」という気持ちを、わたしは理解できる気がします。

信頼する「この人」にわが子の生活を託したい。「託せる」と思える人に出会い、安心して自分はフェードアウトしたいと願ったことのない親はいないはずだから。

一方で、「どうして裏切り者呼ばわりされるのか理解できない」支援者の気持ちもよくわかります。

「自分が一人で直接支援するよりも、人垣のように、多くの支援者が関わり支える仕組みを作ったのに」なぜ、このような言われようをしなければならないのか。

ここにあるすれ違い(意識の断絶)に、わたしが感じた「川」の意味を気づくヒントがありました。

■支援者は「機能」。有限責任。

支援者は、「機能」。必要な支援を提供する。
誰がその「機能」を果たすかは代替可能な存在。代わりとなる人はいる。質をクリアした支援を提供できればよい。
代わりがいるからこそ、長期的に継続できる。
責任は有限のものとして果たされる。

■親は、「存在」そのもの

親は、親という「存在」そのもの。
子どもを育てることから、必要な環境を与えることや日々の支援まで「機能」を含んでいるが、
唯一であり、代替が難しく、寿命に制限される一回限りの「存在」であることに本質がある。
責任は死ぬまで続くものと意識される(※「続くべきもの」だという規範をわたしは主張しているものではありません。カイの親として個人の意識を語っています。)

■支援者と親の間に流れる川

最初に紹介した支援者のなげきは、こう続きました。
「あんたは経営者になってラクをしている」と批判されるわけがわからなかった。
だが、本当の気持ちは、私個人にずっと自分の子を見てほしかったということだったのだろう。
私(支援者)=親になってほしかった。それがかなわなかったことを嘆いているのだ──と10年たってやっと気づいた。

どう思われるだろうか?

この訴えは(個人的にはものすごくよくわかるけれど…)無茶なものだと、親は気づかなければならないとわたしは思います。
なぜなら親の支援者に対する「親代わり」になってほしいという要求は過剰なものだからです。
その要求によって支援者を期待で押しつぶす危険がある。しかも、支援者が「機能」であるからこその良さを消してしまうからです。

その「良さ」とは、代替可能な存在であるからこそ、Aという支援者がいなくなっても、次のBという支援者が後を継ぐことができる継続性です。

親は死ぬんだよ。
支援者は去っていくんだよ。
そして、誰もいなくなった──にならないように。

親は、特定の誰かに「親代わり」を全委託する叶わない希望は捨てるところをスタートにしなければならない。

「川」と呼んだギャップは、支援者と親のあるべき姿が異なることから来ている。

■支援者は「もうひとりの親」ではない

「支援者は、『親の願い』をまるで分かってくれない」と叫ぶとき、その「願い」が「親と同じだけ、子どものことを思い、24時間365日支援し続けてくれ」というものだとしたら、それは「支援者」ではなくて「もうひとりの親になってくれ」と求めていることになる。
それは、実現可能性がないし、適切でもない。

あきらめることから、リアルな未来の暮らしを組み立てなおさなければならない。

支援者は、親と同じように唯一の存在としてわたしたちの子どもに永遠に関わり続けることはできない。そうするべきでもない。
支援者は、自らの手ではなくても同じ支援(機能)を提供できる他の支援者を組み合わせて、暮らしを組み立てることを考えている。「シフトを組む」というのはそういうことだ。

「川」はお互いをはばむものではなかった。違う存在を「わたし」と見間違えていたから流れていると錯覚した幻。

見つからない「青い鳥」を探すのはもうやめて。
有限性を知る支援者たちと、継続できる機能について、一緒に考えよう。

↓続きです↓
・「川」の続き
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52520840.html

同じ時を刻む

昨日の草ラボで、ヘルパーのカトウさんのことばを聴いて、髪の毛が逆立つような感覚を覚えました。
(この感覚は、あんまり一般的ではないようですね。「鳥肌が立つ」に近い、驚きと感動が混ざった刺激への反応です。「総毛立つ」のマイルドバージョンですかね。余談)

カトウさんが話してくれたことは──
それぞれの人(支援者、当事者)の
“時が流れる”中で
同じ“時を刻む”こと…
それが『よりそい』。

わたしは、ワークショップの全体ファシリテーターをしていたのですが、思わず、グループの中に入っていってコメントをしてしまいました。
恋愛とか結婚とかでよく言われることだけど、
それまで全く別々の人生を生きてきて、別々の体験を積み重ねて、価値観もバラバラなふたりが一緒になっていくことはたいへんなこと。
だけど、出会ってから、ふたりで一緒に時間を過ごし、同じものを見て、感じたことを伝え合い、共通する経験を重ねていくことが、ふたりの関係を強くし、守ってくれる。
それは、恋愛に限らないんだと思う。
ひととひとが、同じ場所で、同じ時を過ごしても、同じものを見ていなかったら、別々のことを考えていたら、同じ"時を刻んだ"ことにはならない。
街で、ヘルパーと障害をもつ人が一緒にいるのを見かける。でも、ヘルパーは地下鉄に乗りながら、ずっとケイタイをいじっていて、障害をもつ人は手持ちぶさたで動いてしまう、その時だけヘルパーはリュックをつかんで引っ張り戻す…。こんなふたりは、同じ時を刻んでなんかいない。

ことばが自由に操れるわけじゃない。
感じ方や見え方も違うけど。
だったら、こちらから、相手が感じていること、見ていることを、知ろうと。
せっかく同じ空間で、同じ時間を過ごしているのだから、共通する体験を積み重ねていって、特別な関係を築き上げられたら。ヘルパーって、すごい職業だと思うんだよ。僕は。

大切な「命」を、大切な「生」によりそって、限られた時ではあるけれど、同じ時を刻む、そんな支援ができたら、本当にすごい。僕は、あなた方を全力で応援する。

「当たり前」になる日、を読んで

・「当たり前」になる日:こうくんを守れ!
http://koumama.seesaa.net/article/375860507.html

本気で、感動してしまった。

辛かった療育通園施設、保育園が思い出されます。

あたたかくて、一生懸命で、愛情豊かな保育士さんたち。だけど、スキルが無かった…。
親として、いっときも気が休まることがなかった。

こうままさんがこの記事で紹介している「併用」とは、保育園に通いながら、療育施設(障害に対する発達の支援)にも通うこと。「併用」は、まだまだ当たり前ではありません。

「当たり前」になるといいな。
というか、こうままさんは目標となる実践をつみあげている。さらに進めば、保育園と療育施設が別々じゃなく、保育園で療育もなされることが「当たり前」に!?

じーんと感動しながら、僕は、後から来るひとたちのために何ができるんだろう?って思った。

保育園も、学校も、時期が来たら卒業していく。たくさんの涙が流れても、通り過ぎて行ってしまう。留まる当事者がいないから、改善が進みづらい。
保育士も孤独だ。療育施設との連携が取れれば、長い時間を過ごす、家庭や保育園での生活が、子どもにとってわかりやすくなり、混乱が減るでしょう。そこが成長のスタート地点になれば、すばらしい。

障害がなくても、そうなんだけど、障害のある子どもには、たくさんの、たくさんの人の関わりがあるといいです。親が、傷めつけられ、しおれてしまいがちだから、余計にね。
当たり前じゃないことを当たり前にするのにはパワーが要ります。
でも
だれかが「よしっ」って頑張って1歩を踏み出さないと地域は変わりません。
そうやって
これまでも、先輩方が頑張ってきてくれたから「今」のこの状況がある。
そのことに感謝し、自分にできる精一杯の「一歩」を踏み出していきたいですよね。

はい。

「とにかくもう疲れたよ」「けど休めない」


 刺さる言葉が発せられて、誰かが傷つき、心情を吐露した時、

・ツイッターをやめました - Ashley事件から生命倫理を考える - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/65099302.html

 その心情を聴いた者が、そのまま放置せず、意を尽くして応えようとした。

・140字では表現できないのでブログに書いてみた: 歩くたこの木
http://takonoki-p.seesaa.net/article/270526020.html

 置かれている状況には変化がなくても、そこにいる「あなた」の気持ちを私は聴いた。その傷に「手」を「当て」たい。誤解やすれ違いがあったとしても。なぜなら立場は違っても「わたし」も血を流しているからだ。

 そう聴こえた。



<追記>
@iwatyan1963さんが、「歩くたこの木」の記事投稿の後につぶやかれた言葉を追記しておく。2つの記事を架け橋する内容だと思います。




ひとりはひとり(だけど)

昨日紹介した記事を書かれたハバネロさんからコメントをいただきました。
多くのかたに届けたいので、ここに載せておきます。
カイパパさん、勢いで書いた私の拙い誤文だらけの記事を、
ブログでご紹介いただき、本当にありがとうござます。

福祉の仕事は年々専門用語にまみれていって、本質から
どんどん遠のいていっているように感じています。
相談支援の登場によって、良い面も確かにありますが、
なんちゃって賢い風なワーカーさんが増えたようにも
思います。(はい、私もその業界の人間です。)

地域格差、スキルアップ、多くの『課題』があると
支援者の皆さんは言いますが、そもそもの根っこ部分に
ズレがあるんと違うんやろか?
そんな風に感じているのは私だけでしょうか。

生活相談って、基本はラフでいいと思います。
無駄話をしながら、お茶飲みながら、100円均一ショップ
でせんたくバサミやハンガーを選びながら、生活の話を聞く。
商店街を一緒に歩きながら、病気の話を聞く。

なんとなく話している中で大変な問題や悩みが、
ぼそっと一言。
これがほんまのSOSやと思います。
そこを拾って一緒に解決していくのが、プロやと思います。
はじめから整理して言葉できちんと相談できる人を
相談者に想定していたら、氷山の下の人たちはいつまで
たっても救われません。



カイパパさんのブログを見ている若いお父さん、お母さん、
親でも友達でもないんだけど、あなたのことを気にかけて
いる人が必ずいるということを忘れないでください。

あなたは一人ではありません。
だから、毒は溜めこまないで吐いちゃいましょう。
毒が抜けると、視界が明るくなりますよ。

あの時、手をかけようとした息子は20歳になり、
毎日元気に働いています。

働き方、暮し方もいろいろ。
こうでなければならないということはありません。

だから、大丈夫。

私は、このハバネロさんのメッセージを読み返しながら、「ひとり」の存在の重みについて考えていました。

悩み苦しみの渦中にいるひとり。
そのことに気がついて、手を差し伸べたいひとり。
その方法がわからず、その重さに耐える自信もなく、逡巡しているひとり。
いざ踏み出して、つまづき、とまどい、ためらい、自分を責めるひとり。
先に、一歩前に踏み出してみせて、大丈夫、といえるひとり。

ひとりが置かれたその時と場所は様々で、自分のことを支えるだけで精一杯なのが普通。
それでいい。あなたは精一杯やっている。
それなのに、心優しい、誠実な人ほど自分を責めてしまう。

上に書いた「ひとり」は、同じ人の「軌跡」だったりもする。
「大丈夫」と、今言うために、どれだけの逡巡をくりかえしてきたことか。
明日も、同じように言えるか?わが身に問い「それでも」と踏み出す勇気をふりしぼって。


ひとりは、強くて弱い。自分のことは自分が一番良く知っている、とは限りません。
「精一杯」って結構すごくて、精神力が、心身を壊すことだってざらにあります。

支援者も、たじろぎ、逃げ腰になり、疲れ、いやけがさし、燃え尽きる危険性を日々感じながらやっているのでしょう。

「当事者」とか「支援者」とか「親」とか、固まりにして語ることばかりあふれているけれど、
ひとり、ひとり、なんだ。

ひとりはひとり。

だけど、
助けを求めたら、

たくさんのひとりが集まってきて、なけなしの勇気と知恵をもちよって、なんとかしようとすると思うんだ。自分も「ひとり」だと知っているひとたちが。

ブログでできることはわずか。
とても一方的な発信。

複雑で矛盾した思いは、やはり、複雑で矛盾したままで。情理を尽くすところまでは語れないけど、「情」だけしかないけれど、私も「大丈夫だよ」と伝えたい。

肉親じゃなくても、友達ではなくても、手は差し伸べられる

・つながっている : とりあえず、いってみよう
http://blog.livedoor.jp/bach0123-habanero02/archives/5755047.html
息子の主治医にその出来事を話したところ、すぐに息子が
入院するか、実家に預けるなどして夜間は母子が離れるように
強く勧められた。
息子は4歳。
入院なんて無理だ。
でも、勘当同然で出て行った実家に、どの面下げてお願いできるんだ。
ぎりぎりの状態にいるのに私はまだ意地を張っていた。

Twitter、Facebookを通じて知り合えた先輩お母さん&支援者ハバネロさんのブログ記事です。
ぜひ全文を読んでいただきたいです。

自閉症の子どもの幼児期のしんどさをあらためて思い出すとともに、

家族でも、友達でもないのに、ただ近所に住んでいて、苦境に見かねてご飯を食べさせるという行為が…それが、特別な慈善ではなく、普通の人の「困ったときはお互い様」と当たり前のようにそこにあることに胸を打たれるのです。
地域には、昔の私と同じような気持ちの親御さんが、間違いなく存在する。
踏みとどまってもらうためには、家族だけではなく、第三者の支えも必要だ。

だから、昔の私のような人に出会ったら、必ずこう言っている。

「もしも、もしも、消えてしまいたいと思った時は、家族の次に、
私も思い出してください。
しぶとい人間がいることを思い出してください。
死にたい時は、死にたいって言うてください。
メールください。
家族でも友達でもないですけど、意外と捨てたもんとちゃいますよ。」

ありがとう、ハバネロさん。私も、がんばろうと思います。

親に、「使命感」とかいう美談に置き換えて

あき母さんの「AUTISTICな日々」経由で、
ハルヤンネさんの書いた

・レイルマン2を売り切ってしまうにあたっての考察1

・レイルマン2を売り切ってしまうにあたっての考察2

を読みました。

圧倒的な共感を覚えた。それは、私の場合、深い深いところにあるかなしみ。

心して読んで。ぜひ。

IMG_0832
ハルヤンネさんが書いた『レイルマン』
だれがなんと言おうと、名著。
表紙絵は、戸部けいこさん♪

「ここだけの話」なんて存在しない

昨日Twitterで、@azusan3 とネットで「自分が関わっているケースの話をしていいのだろうか?」について会話をかわしました。
ブログやTwitterで毎日発信を続けている者として、自戒の念を込めて、ここに掲載します。
@azusan3 会話と掲載OKありがとうございます!)

2011/04/16 13:00:29
きっとケースを話してしまう時って、悪意があるわけじゃなくて、こういう事例があってどうしたらいいんだろう、何かいい案があったら活かしたいって、善意で発言することが多い。けど、いろんな発信方法が普及した時代は、どこまで守秘するべきか、そのラインを明確にしないと、危険

2011/04/16 14:19:39
@azusan3 現在進行形の相談・支援ケースをインターネットで共有することは「ご法度」が原則だと思います。たとえ、見た人が相談者本人を特定できないとしても、専門家に対する信頼を失わせる。もし、周りの人が本人特定できた場合は具体的な不利益が生じる。

2011/04/16 14:26:07
@kaipapa2shin ありがとうございます。やはりそうですよね。近年のこのゆるさを見ていたり、それについて言及すると「頭が固い」といわれ、なんだか自分がおかしいのかと不安になっていました。今一度、きちんと認識して、気づいたときに伝えていきたいと思います

2011/04/16 14:22:17
@azusan3 「事例検討会で、カイ君のことを紹介してもよいか」とお願いされて、保護者として許可をしたことがありますが、その際には、いつ・どこで・共有対象・内容について具体的に教えてもらいました。(続く)

2011/04/16 14:24:27
@azusan3 自分が事例検討会にでた時。最初に発表者は「この症例発表は、専門家の研修のために特別に許可を受けたもの。研修生も他所でプライバシー情報を漏らすことは決してしないでください」と注意喚起がありました。事例検討会で紹介されているからと言って他で共有していいものではない。

2011/04/16 14:30:07
@kaipapa2shin そうなんです、事例検討会はそれが前提で、資料は許可があるものは配布しますが、基本的に回収が原則だと認識しています。そういう場に参加する方の多くは認識できていると思うのですが、機会のない方はそれを「知る」ことすらできないのではないかと、恐くなります

2011/04/16 14:27:16
@azusan3 心理職や医療関係者に限らず、職務上知り得た秘密は外で漏らしてはいけない、というのが、通常の組織なら就業規則にも定められているし、プロとしての基本的な心得だと自分は思っています。ネットに書いてしまえば、後で消してもどこかキャッシュされているから。自戒を込めて。

2011/04/16 14:33:29
@azusan3 漏らしてしまえば二度と元にはもどせない。発信する時は、自分が責任を取れる範囲で、と自戒しています。他人のプライバシーや職務上知り得た秘密は、責任がとれないので、「公開情報かどうか」に注意を払っています。迷うのは、ネットに既出だが、本人の了解の有無が怪しい場合です

2011/04/16 14:33:06
@kaipapa2shin わたしもほんとうに口が軽い人間なので、気をつけます。学びは広めたい、けれどプライバシー情報はそこに漏れてはいけない。難しいけれど、大事です。すみません、大切なお話だったので、リツイートさせていただきました。

2011/04/16 14:36:52
@azusan3 こちらこそありがとうございます。自分も職業人として、秘密を取り扱う機会が多いので、本当に気をつけなければと思っています。「仲間内」が一番危ないんですよね。「ここだけの話」なんていうものは、存在しません。伝聞を経るたびに、秘密は軽くなり、守られなくなります

遠方より友来たる

JTさんと五年ぶりに再会しました。「昔の子どもだった頃の写真」を見せてもらうと話してくれた僕の親友。

長野で仕事をする彼。

カイパパの出版記念パーティーでやった、夢語りワークショップで、俺は2010年にハーレーに乗って愛知に帰ってなきゃならないのに!」と言って笑う。

そうだったそうだったと笑いあいながら(「バイクの免許はとったんだよ」「すごいじゃん!」)、昔話もしつつ、一番語り合ったのは、マネジメントについてだった。

またまだ発展途上のマネジャーとして、日々悩んでいることをお互いに語った。

Fake it to make it! はマネジャーの極意じゃないか」と彼が言った。

そうなのかも。

「長野で美味しい物って何?」と訊いた。

「りんごだね。かじったときに、前歯が刺さった瞬間にプシュッと果汁がメガネにかかるんだよ!」

いいね、長野。今度は僕が訪問したい。

IMG_0319-1

「有朋自遠方来 不亦楽 」
(朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや。)

支援者へのことば4〜ドミノ倒し

「支援者へのことば3」に、いただいたコメントが素晴らしくて、紹介したいので、もう少し続けます。

ピッタンさんからのコメントです。
「支援者へのことば」を読ませて頂いて、息子が小学校の支援学級2〜4年まで療育を受けていた先生の言葉を思い出しました。

「いくら学校の先生やヘルパーさん、お医者さんでも結局は普通の人なんですね。噛まれれば痛いし、障害者があるとはいえ本人や保護者からあまりにひどいことがあると、とても辛いんです。そういう事があると内心構えてしまいます。療育は支援者と保護者が協力しないとうまくいきません。人から可愛がってもらえる青年を目指して一緒に頑張りましょう。」

 こう言われた時、プロといわれる先生方や施設の職員さんに過度に頼っていないか自問自答しました。

カイパパも、「専門家だから、なんとかできるはず! なんとかして!」という思いをいだき、幼少期の混乱を「なんとか」できない専門家に失望し、冷たくあたったことがあります…。

今思えば、あれは痛かっただろうと……。カイがしあわせにすごせるように、親御さんが少しでも楽になるように、という思いをもって接してくれていたのにな。

カンタンに劇的な変化、なんて、ね。(涙)

あき母さんのコメントです。
障害のある子どもだけでなく
その家族も支援する必要がある、
「支える人を支えなきゃ」それと同じ話だと思うんですけど

ああー。そうか。

家族も、「支援者」なんだ…。

それを思えば、当たり前のことだ。
「家族支援」が語られるのと同じように、「支援者支援」が当たり前に語られたらいい。

「専門家と家族は共同治療者」というTEACCHの理念は、家族=支援者の側面を明確に表現していたんだ。

あき母さんのコメントはこう続きます。
その支援の連鎖の最後尾の人はどうするんだろう?
一番最後の、本当はいるはずもない「誰か強い人」が全部の重みを支えることを期待したら、みんなが倒れちゃう。ドミノ倒しみたいに。

前記事のカイパパさんの「お互い様」って言葉がヒントだと思います。
ドミノを「人」の形に置けばきっと倒れないで済む。

すごくないですか?

「人」の形のドミノ──どうやったらできるかな?^^
一緒に考えていきたいです。

支援者へのことば3

「支援者へのことば」の呼びかけに応えてくれて、@copeindealtさんがブログ記事を書いてくれました。

・施設で働くということ、個人や家族に向き合うということ - copeindealtの日記
http://d.hatena.ne.jp/copeindealt/20110219/1298125222
ウォーリーさんのようなやりがいは、ぼくも深く感じています。きっと良心的な支援者であれば、だれでもその気持は「他人より強い」と思っているはずです。何か自分が上手くいかないときや責任を重く感じる時、そのやりがいが内生的な仕事のモチベーションとして大きければ大きいほど、個人でその重圧を「真に受け」てしまう。

だけど、残念ながら利用されている方ひとりひとりは、ぼくらと同じように、「その人の人生」はその人のもので、ぼくらが勝手に責任を引き受けて良いものじゃないんだと思うんです。だからチームで人の命を、自立を、成長を支援する必要がある。

もちろん、ぼく個人の責任は大きいです。家族や組織が「あなたの責任だ」と言ったとしても、そもそも無限の責任を背負えるものだろうか?でしょうか?有限だからこそ、量や具体性があるから背負うこともできるのだし、仕事として人の人生に向き合えるというのが、正直なぼくの考えです。

残念ながら、ぼくは利用されている障害者でも、その親や兄弟でもなく、ただただ「きみ」に出会ったひとりの支援者なんだ。

むしろ、その無力感にも近い、自分自身の「弱さ」をそのまま受け入れてくれるような環境が、チーム内でも良いし組織内でも良いし、外部でもいいんだけどあればとずっと思っています。いや、正確にはぼくにはある。だから、今のぼくがある程度重要な仕事を任されて仕事できているんだろう。

家族も支援者も、自分が「〜だから」と当事者性を背負ってしまうとなかなかそこから抜けだせません。

ぼくは昨年、本当にダウンしてしまったりもしました。それは、「リーダーだから」「これが役割だから」「先輩だから」「責任があるから」と、いろいろ実践を抱え込む状況があったからです。

今は、むしろぼくは「支援者としての当事者性」を降りながら新しい実践や現場づくりを考えようと思っています。

また家族の方や、広汎性発達障害の方に関わることがあるので当事者だと知っている利用されている方へも、当事者であることから降りれるような支援を考えています。


「当事者であることを降りる」──具体的には、まだ私には見えていませんが、刺激されるコンセプトです。

長文だけれども、経験に根ざし、そして太い幹をもった「決意」であり「エール」になっています。ぜひ全文も、読んでみてください。

@copeindealtさんありがとうございます。@satomiesにも感謝!



今回、@copeindealtさんは、私の記事とウォーリーさんのコメントを読んで、新たにブログを開始されたとのこと。そんなきっかけになれたことをうれしく思います^^

ウォーリーさんからもコメントが届いています!
自分が伝えたかった事。
「支援者の人たちが『この仕事っておもしろいよね』 って常に思っていてもらいたい。そのためには支援者に対する支援も絶対に必要」
今度はシンプルに書いてみました。

支援者へのことば2

ウォーリーさんに電話をしました。
厳しい現実に、歯ぎしりをしている状況のようでした。

なのに、

「あんな、暗いコメント書いちゃって、ごめんね。かえって、心配かけちゃったね」
「ブログ、毎日更新していてすごいね! 自分にはできないよー。いつも楽しみにしてる」

とかえって私に気をつかってくれました。

あまり電話ってしないんだけど、こういうときは、やっぱり声が聴けるっていいですね。

話したからって、状況が変わるわけではないけれど、それに立ち向かう主体のエネルギー補給になるんだと思います。

ブログに記事を書く
 →その記事にコメントを書く(これってすごく敷居が高い)
   →そのコメントに対してコメントをする

という行為も、現実を変える力はないけれど、立ち向かう主体にエネルギーを与えてくれます。これは間違いなくそうだ、とこれまでの経験から保証できます。

あき母さん、コメントありがとうございます。

仕事は、お客さんがいて、その人へのサービスをして、その「対価」と交換するものです。「対価」はお金であることが多いのですが、「お金」+「感謝」であってもいいですよねぇ。

「この仕事は、お金のためじゃない」というせりふは、「お金のため、だけ、じゃない」と読み替えたらいいと思う。

逆に、お金のため「だけ」だったら、こんな仕事やってられないよ!ということは、けっこうあるわけで。

でも、このあたりのことを一般論で論じると価値観の主張に終始してしまいますね。

確認したいことは、あき母さんが、思い出させてくれた──
TEACCH=構造化みたいに思われがちだけれど
「療育者と保護者は共同治療者」という基本理念は
もっと強調されるべきだと思います。
親だけが抱え込む必要はない、
でも丸投げしてもいけないんですよね。
自分の子どものことなんだから。

これ、ですよね。本当に、そうだ。私も、もう一度心に刻んでおきます。

ぴこりんさん、コメントありがとうございます。

「くじっけっぱなしですよ」って──凹んだ状態が私たちの常態なのかもしれませんね。

がんばっても、がんばらなくても、日々は過ぎていきますが、
少しでも「よい方向に向かおう」と希望を捨てず、努力をしているから、くじけるのだと思います。

逆流を遡上しようとしているから……。流れに身を任せちゃえば、きっと、何も感じなくなるのでしょう。



今回、支援者であるウォーリーさんに、カイパパがかける言葉を見つけられなくて、頼ってしまいました。

気がついたことは、自分にできる範囲で、「知ること」、「理解しようとすること」ですよね。

「お互い様」という、いいことばがあります。

お互い様だから、助け合って生きましょう^^

支援者へのことば

昨日の記事にウォーリーさんが、コメントをしてくれました。
ウォーリーさんは、自閉症児の父親であり、かつヘルパーでもあります。両方の立場をもつ、私の大事な友だちです。

彼のコメントをぜひ見てほしいです。
http://kaipapa.livedoor.biz/archives/52252139.html#comments

もし、できたら、
ウォーリーさんへ、ことばをかけてもらえないでしょうか?お願いします。
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